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評価してもらえるということ。

習慣応援家shougoさんに僕のことを紹介していただきました。
今までnoteを書いてきたことが
伝わっていることを改めて実感できて
すごく嬉しかったと共に身の引き締まる思いになりました。

誰かに知ってもらうことで
自分にとって心地いい評価もあれば辛い評価もあると思います。

普段の生活の中で誰かに何かを言われるって
以前はビビりながら生きていました。
今も全く気にしなくなったわけではないですが
少し強く慣れている気がします。

それは考え方が変わったから。
誰かのために生きたいではなく
共に生きることを考え始めたから。

僕という役割

僕には子供がいます。
だから親という役割があります。
世帯主だったり旦那としての役割。
他にも職場での役割。
自分が所属している集団の中で
いろんな肩書きがついてまわります。

僕は一人しかいないのに
いろんな見られ方が存在して
いろんな評価がそれぞれの役割についてきます。
どれかが本当の僕だけど
自覚のない僕も役割によっては僕自身なんです。

評価の感じ方

自分にとって嬉しく感じる評価だけ欲しいと思っていました。
でもそれはあくまで僕基準のそう見て欲しいことでしかありません。

自分の役割がその時に所属している変わるのと同じで
自分がどう見られたいかも変わります。

僕個人としてはどう見られても気にならないことも
親の立場としてという役割がつくと
嬉しかったり辛かったりすることがあります。

自分に対した高評価であったとしても
理由を理解できなければ嬉しくないし
逆に自分にとって低評価だったとしても
その理由がどんなに酷い誹謗中傷だったとしても
自分の価値観に合わなければそんな考え方もあるんだって
感じられる様になりました。

発達障害に対する評価

我が子には発達に課題を抱えることがあります。
彼の成長と同級生たちの差があることを
以前は個性だと思う様にしていました。

ですが彼が大人になって行く時に感じるであろう
辛さを減らしてあげる方法を見つけたいと学ぶことで
物の見え方や捉え方が誰一人同じではないことに
気付いたんです。

自分にとって必要な評価

自分が感じている世界にとって必要なことと
所属している世界の必要なことの違いを知る必要があるんです。

自分にとって必要な評価は両方の重なることです。
それ以外の評価は心地いいことも辛いことも
除外するって決めたんです。

褒められ過ぎても良くないし
根拠のない誹謗中傷も気にする必要はないんです。

この感覚に触れたことで
我が子のことを贔屓目なしに
感じてあげることができる様になりました。

この感覚は誰に対しても言えること。
噂話で刷り込まれる評価は自分の目を曇らせます。

誰に対しても
その人の言葉や振る舞いを見るまでは判断しません。

僕が知らない人にどう見られたとしても、
あなたの本質を知りたいから。
みんなに必ず生まれてきた役割があります。
あなたの役割を誰にも邪魔されないように生きて欲しいから。

僕自身も。

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