見出し画像

「2021年映画ベスト」

↑『ドライブ・マイ・カー』サントラカセットテープ。家にテープレコーダーがないので一回も聴けていないけど、あまりにも映画がよくてファングッズとして買いました。

今年、2021年に観た映画のマイベストについて書いてみます。
ちなみに、劇場(スクリーン)で観たものか試写で観たものだけです。コロナの流行以降、試写も実際に試写会場で観るものとオンライン試写と並行しているものもありますが、僕は基本的に試写会場に行って観ていて、オンラインでの試写は観ていません。
また、Netflixなどの配信系の作品も入れていません。そもそも僕は配信系の二時間ぐらいの映画をほとんど観ておらず、思い出せるのは最近観た『浅草キッド』だけです。燃え殻さん原作の映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』は配信前に試写にお招きしてもらったので以下の観たリストに入れています。

『浅草キッド』はとてもいい映画で、後半には何度も泣いてしまうシーンがありました。『浅草キッド』が今年のマイベスト上位に入るほどだったら、配信も含めようと思ったのですが、そうではありませんでした。
エンタメに徹したいい話に仕上げている劇団ひとり監督の手腕は素晴らしいものなのは間違いないです。しかし、僕にとって個人的な物語に、深いところにある場所に降りてくるものではなかった、ということです。

僕はどうしても作り手の歪な部分に惹かれてしまいます。作り手がずっと考えてきたこと、悩んできたこと、長い時間かかってその人の中で結晶化されたものが作品に出ているのを観るのがとても好きです。
映画『浅草キッド』は劇団ひとり監督が長い時間をかけて脚本を書いてやっと映像化にこぎつけた作品です。彼のビートたけしへの尊敬と憧れが詰まっています。しかし、その才能ゆえに、わかりやすいエンターテイメントに昇華されてしまったことで、僕にとっては大事な作品にはなりませんでした。

以下が今年スクリーンで観た作品(観た順)。新作だけではなく、旧作のリバイバルや特集上映も含めています。

1『Swallow』、2『映画 えんとつ町のプペル』、3『すばらしき世界』、4『聖なる犯罪者』、5『花束みたいな恋をした』、6『バッファロー66』、7『風花』、8『あの頃。』、9『ファーストラヴ』、10『あのこは貴族』、11『三月のライオン』、12『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』、13『ミナリ』、14『ノマドランド』、15『ホムンクルス』、16『騙し絵の牙』、17『街の上で』、18『パーム・スプリングス』、19『戦場のメリークリスマス』、20『Sytle Wars』、21『きみが死んだあとで』、22『くれなずめ』、23『愛のコリーダ』、24『ニッポン無責任男時代』、25『地獄の花園』、26『るろうに剣心 最終章 The Beginning』、27『猿楽町で会いましょう』、28『他人の顔』、29『キャラクター』、30『逃げた女』、31『ビーチ・バム』、32『デイヴィッド・バーン アメリカン・ユートピア』、33『閃光のハサウェイ』、34『ザ・ファブル 殺さない殺し屋』、35『ゴジラVSコング』、36『映画:フィッシュマンズ』、37『ミステリー・トレイン』、38『 ライトハウス』、39『竜とそばかすの姫』、40『17歳の瞳に映る世界』、41『ベルヴィル・ランデブー』、42『少年の君』、43『オールド・ジョイ』、44『ウェンディ&ルーシー』、45『サマーフィルムにのって』、46『子供はわかってあげない』、47『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』、48『ドライブ・マイ・カー』、49『うみべの女の子』、50『フリー・ガイ』、51『孤狼の血 LEVEL2』、52『鳩の撃退法』、53『プロミシング・ヤング・ウーマン』、54『イン・ザ・ハイツ』、55『ショック・ドゥ・フューチャー』、56『シャン・チー/テン・リングスの伝説』、57『君は永遠にそいつらより若い』、58『MIRRORLIAR FILMS Season1』、59『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』、60『DIVOC-12』、61『ボクたちはみんな大人になれなかった』、62『プリズナーズ・オブ・ゴーストランド』、63『草の響き』、64『マスカレード・ナイト』、65『DUNE/デューン 砂の惑星』、66『燃えよ剣』、67『フレンチ・ディスパッチ』、68『スウィート・シング』、69『アメリカの友人』、70『エターナルズ』、71『都会のアリス』、72『さすらい』、73『ベルリン・天使の詩』、74『まわり道』、75『パリ、テキサス』、76『SAYONARA AMERICA』、77『COME & GO カム・アンド・ゴー』、78『都市とモードのビデオノート』、79『東京画』、80『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』、81『皮膚を売った男』、82『ラストナイト・イン・ソーホー』、83『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』、84『偽りのないhappy end』、85『夢の涯てまでも ディレクターズカット』、86『グンダ』、87『マトリックス レザレクションズ』、88『偶然と想像』、89『エッシャー通りの赤いポスト』、90『キングスマン ファースト・エージェント』

10位 『DUNE/デューン 砂の惑星』

「ブレードランナー2049」「メッセージ」のドゥニ・ビルヌーブ監督が、かつてデビッド・リンチ監督によって映画化もされたフランク・ハーバートのSF小説の古典を新たに映画化したSFスペクタクルアドベンチャー。人類が地球以外の惑星に移住し、宇宙帝国を築いていた西暦1万190年、1つの惑星を1つの大領家が治める厳格な身分制度が敷かれる中、レト・アトレイデス公爵は通称デューンと呼ばれる砂漠の惑星アラキスを治めることになった。アラキスは抗老化作用を持つ香料メランジの唯一の生産地であるため、アトレイデス家に莫大な利益をもたらすはずだった。しかし、デューンに乗り込んだレト公爵を待っていたのはメランジの採掘権を持つハルコンネン家と皇帝が結託した陰謀だった。やがてレト公爵は殺され、妻のジェシカと息子のポールも命を狙われることなる。主人公となるポール役を「君の名前で僕を呼んで」のティモシー・シャラメが務めるほか、「スパイダーマン」シリーズのゼンデイヤ、「アクアマン」のジェイソン・モモア、ハビエル・バルデム、ジョシュ・ブローリン、オスカー・アイザック、レベッカ・ファーガソンら豪華キャストが集結した。(映画.comより)

初回ではなくお昼すぎの13時の回だったがほぼ満席になっていた。さすがの期待値。ドゥニ・ビルヌーブ監督への信頼もあるだろうしそもそもこの作品はSF小説としても有名で何度か映像化されている。ホドロフスキー監督で実写映画化が予定されたが、それは頓挫されている。しかし、その時の美術や造形などはのちのハリウッド大作に活かされているというのをドキュメンタリーで観た記憶がある。『エイリアン』なんかの作品のエイリアンの造形をしている人も参加していたのではなかっただろうか。

観た感想としては大スクリーンで観てよかったと思える映像美と世界観であり、どっ直球のSFサーガというか英雄神話の話だった。「序破急」という意味では今作「Part1」はまさに「序」であり、ここから物語が本格に動き出すというところで終わっている。もともと小説も文庫で三冊あるのだし、観た時点では「Part2」の制作は決まっていなかった。公開されて全世界の興行成果を見てGOサインを出すことにしていたのだろう。実際に「Part2」は2022年に撮影を開始して2023年10月に公開が発表された。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『ブレードランナー2049』が僕はすごく好きだった。あちらも英雄神話構造っぽい内容なのだけど、実は主人公は世界を救う英雄ではなかったという結構衝撃のある終わり方だった。あのドライさが好きだったりする。ベスト10には入っていないが年末に観た『マトリックス レザレクションズ』も実は『ブレードランナー2049』とある意味では同じ終わり方をしている。ウィル・スミスが出演していた『アラジン』以降から、そういう流れが来たような気がしている。姫が王子やヒーローを求める受動的なヒロインではなく、王位継承者である自分が王になるのだという宣言をしたのが『アラジン』の新しさであり、今の時代やフェミニズムが反映されたものだった。『ブレードランナー2049』『マトリックス レザレクションズ』もそのラインにある。

この『DUNE/デューン 砂の惑星』はまさにIMAXで観るための映画であり、IMAX体験として最高峰のものだと思う。その体験ができたことで印象に残っている。


09位 『パーム・スプリングス』

カリフォルニアの砂漠のリゾート地パーム・スプリングスを舞台にしたタイムループ・ラブコメディ。パーム・スプリングスで行われた結婚式に出席したナイルズと花嫁の介添人のサラ。ナイルズのサラへの猛烈なアタックから2人は次第にロマンティックなムードになるが、謎の老人に突然弓矢で襲撃され、ナイルズが肩を射抜かれてしまう。近くの洞窟へと逃げ込むナイルズとサラは、洞窟の中で赤い光に包まれ、目覚めると結婚式当日の朝に戻っていた。状況を飲み込むことができないサラがナイルズを問いただすと、彼はすでに何十万回も「今日」を繰り返しているという。「ブリグズビー・ベア」のアンディ・サムバーグが主人公サム役を演じ、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」に出演したクリスティン・ミリオティ、「セッション」でアカデミー助演男優賞を受賞したJ・K・シモンズらが顔をそろえる。監督は本作が長編監督デビューとなるマックス・バーバコウ。(映画.comより)

ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞。予告編を観て、たぶん好きなやつだなと思ったので観ようと思った作品だった。

ある結婚式の朝から寝るか死ぬまでがひたすら繰り返されるタイムリープラブコメディ。ナイルズとサラの二人はハメを外しやりたい放題することになる。何度も自殺したりするが終わりのないタイムリープからは逃れられない。自殺してもまた同じ朝になるだけだ。かつて宮台真司さんが言った「終わりなき日常」とも言える絶望の中にふたりだけが取り残されることになる。

しかし、ある日からサラはこのタイムリープを抜け出すための行動を起こしはじめるのだが、この行動が実は今まであったタイプリープものと少し違う部分でおもしろさにもなっていく。

繰り返す諸行無常、終わらない日常、閉塞感に覆われた現実世界のメタファにもなりえたタイムリープ、繰り返される日常はもはやコロナにより吹き飛ばされた気もする。その意味ではタイムリープものはこれからあまり出てこない可能性もある。

今年公開された『シン・エヴァンゲリオン』に関しても、そもそも『エヴァンゲリオン新劇場版』シリーズは最初から繰り返しの物語ですと言われていたから、コロナ禍で終われたのはよかったはずだ。もし、これ以上遅くなったらまったく受け入れられないものになった可能性もある。カヲル君が月にある棺から毎回起きてはなんとかシンジを「TRUE END」に導こうとしても失敗し続けたように『パーム・スプリングス』のふたりもタイムリープからはサラが起こした行動がなければ抜け出せなかった。

誰もが八百比丘尼のように身体の老化を止めて、知識や記憶を引き継ぐことはできない。繰り返される日常が急に終われば、肉体と魂の誤差が一気に出て、人は違う意味で壊れてしまう気もする。

『パーム・スプリングス』はタイムリープ&ラブコメだけど、その円環から抜け出す手段はかなり知的で理系的な方法だった。それがこれまでのタイムリープものに対して批評的なものを感じられたのが非常によかった。


08位 『サマーフィルムにのって』

元「乃木坂46」の伊藤万理華が主演を務め、時代劇オタクの女子高生が映画制作に挑む姿を、SF要素を織り交ぜながら描いた青春ストーリー。同じく伊藤主演のテレビドラマ「ガールはフレンド」を手がけた松本壮史監督が伊藤と再タッグを組み、長編映画初メガホンをとった。高校3年生ハダシは時代劇映画が大好きだが、所属する映画部で作るのはキラキラとした青春映画ばかり。自分の撮りたい時代劇がなかなか作れずくすぶっていたハダシの前に、武士役にぴったりの理想的な男子、凛太郎が現れる。彼との出会いに運命を感じたハダシは、幼なじみのビート板とブルーハワイを巻き込み、個性豊かなスタッフを集めて映画制作に乗り出す。文化祭での上映を目指して順調に制作を進めていくハダシたちだったが、実は凛太郎の正体は未来からタイムトラベルしてきた未来人で……。主人公ハダシを伊藤が演じるほか、凛太郎に金子大地、ビート板に河合優実、ブルーハワイに祷キララとフレッシュなキャストがそろった。(映画.comより)

映画『桐島、部活やめるってよ』に出ていた若手俳優がその後に頭角を現したように、この作品のキャストたちも数年後にはそんな風になっているだろう(と思わせるほどみんな魅力的)。

個人的には眼鏡女子のビート板役の河合優実さんという女優さんは顔の系統が石原さとみっぽいし、なにかの機会でブレイクして大きな役をやっていくような気がした。主役の伊藤万理華さんはほんとうに素晴らしかった。脚本が「ロロ」の三浦さんなので観たかった作品だけど、また、ロロとか知らない人に三浦さんの才能がバレちゃうんだろう。

「ロロ」の舞台を観て感じる青すぎて爽やかな心地よさ(おおざっぱにいうとエモい青春)がこの映画に濃厚にあった。今年、舞台「いつ高」シリーズファイナルでロロの青春は一区切りついたように感じたけど、三浦さんが映画やドラマで青春ものは続けていくなら、それはこの先も観たいと僕は思った。

内容は映画制作の話だけど、映像制作周辺に関わってる人にもそうでない人にも観てほしい。自分が好きなものにこだわって、なにかを成し遂げようと奮闘する姿が青春なのかもしれない、年齢や時代や社会は言い訳にはなるけど、その先に、自分の手が届かない場所に一歩踏み出せば世界は変わるし、そこには自分ではない他者が確実にいる世界がある。


07位 『きみが死んだあとで』

1967年の第一次羽田闘争で亡くなった18歳の青年を取り巻く人びとを取材し、激動の時代の青春と悔いを描いたドキュメンタリー。1967年10月8日、当時の佐藤栄作内閣総理大臣の南ベトナム訪問を阻止するための第一次羽田闘争。その中で、18歳の山崎博昭が死亡する。死因は機動隊に頭部を乱打された、装甲車に轢かれたなど諸説あるが、彼の死は若者たちに大きな衝撃を与えた。山崎の死から半世紀以上、彼の同級生たちや当時の運動の中心だった者たち14人が語る青春の日々とその後の悔恨。彼らが年齢を重ねる中、山崎だけが18歳のままという思いの中、あの熱い時代はいったいなんだったのかが語られていく。監督は「三里塚に生きる」「三里塚のイカロス」の代島治彦。(映画.comより)

菊地成孔さんが自身のブロマガ日記にこの作品について書いていて、そうか『花束みたいな恋をした』だけでなく、この『きみが死んだあとで』も大友良英さんが劇伴なのかと思って、大友良英劇伴繋がりで『花束みたいな恋をした』『きみが死んだあとで』を続けてユーロスペースにて鑑賞。『きみが死んだあとで』はたしかに冒頭と最後の方でノイズギターが走るのがカッコよかったが、内容は重いものでもあった。

山崎博昭さんの兄である山崎建夫さんのインタビューが冒頭少ししてから始まる。博昭さんが生まれて大阪の大手前高校に入学するまでの流れを兄の話や写真で構成し、高校からは同級生である詩人の佐々木幹郎さんなどのインタビューから彼が京大に入り、第一次羽田闘争に向かって弁天橋で亡くなったまでの流れをインタビューや当時の写真などを使って構成していた。

「上」と「下」と3時間近くの作品は二部構成に分かれている。

全学連の山本義隆など当時の学生運動に関わった人たち、博昭の同級生たちも現役で合格したものたちは一緒に羽田へ向かって彼の死をすぐ近くで見ていたり、行動を当時ともにしていた者たち、浪人して翌年に彼の仇を取るような気持ちで学生運動に参加していくものなど、それぞれの人生と安保闘争など学生運動の話が展開されていく。

学生運動を支援しており、核物理学者で反原発運動も支援していた水戸巌さんの妻で水戸喜世子さんの話などもある。このあたりは少し陰謀論的なものも入る、それは確かなことはわからないけど可能性は否定できないということも含めて監督が話を聞き出して作品の中で結びつけていたようにも思えた。

博昭さんは当初新聞報道では仲間たちが奪った車に轢かれたとされていたが、その現場を見ていたものたちは警官たちが警棒で後頭部を何度も打ち付けていたのを目撃していたことに関わらず、死亡は諸説あることになっている。

また、反原発活動をしていた水戸巌さんは息子二人と登山に向かったが三人とも転げ落ちてきた岩によって穴が空いたテントの隙間からするりと落ちて滑落してしまったことが死亡の原因とされているが、彼は警察からも、いや国家権力から目をつけられていた存在(反原発運動をしていたことで家にも嫌がらせの電話などは当たり前にあったようだ)であり、山に入る際にも山岳警備隊にも挨拶をしており、許可を取らないと入れない山であったことから妻の喜世子さんは警察(国家権力)によって3人が亡き者にされたという疑念を抱いているのがインタビューからわかる。そういう部分も一概に権力がそんなことをするなんてありない、と思う人のほうが少ないだろう。実際に国家がやっていてもなんら不思議ではない。権力というものはそういうものだから。「三億円事件」も実は警察内部の息子が犯人だというものは、当時の学生運動をしていた大学生を根こそぎ検挙するためだった(あるいは事件は実際にあったが警察はそれを利用した)という説などもあるが、正直国家というものから暴力を任されている警察権力は公務員であるが、時と場合によっては法を越えてなにかを都合よく解釈したり動かしたり、あるいはそのときの政権や中央にとって邪魔な存在を消していても今更驚きようもない。

インタビューでも語られているが学生運動は過激になっていき、内ゲバによってそれまでは支持してくれていた大衆からも賛同が得られなくなって自滅していった。詩人の佐々木幹郎さんは彼自身が活動を止めたときの話で、この先はどう考えても行き場を失ったものたちは内部で衝突し始めて朽ちていくだろう、運動が終わるのは考えればわかることだったと言っていた。だが、内ゲバなどに巻き込まれた人たちはよほどの思いや行動で逃げ出す以外に、自分が被害者or加害者になる道から逃れようがなかった。逃げることも難しい状況になっていったのはいろんな本や映画などでも描かれている。

また、佐々木さんはなにかで読んで文章から、佐賀やどこか九州の船乗りについて誰かが書いたエッセイを引き合いにして運動が成功しなかった理由を答えていた。そのエッセイに書かれているのは漁に出る船の船先の頭の部分か一番うしろの部分に元漁師だが体が動かなかったり目が見えていない、もう漁には使えない老人を座らせておく。老人は座っていくだけでなにもしない。
漁師たちがどんどん漁を進めていくが、時折老人が「もう少ししたら嵐が来る」と言えば、漁網を引き上げて陸へ帰っていく。そういう役割がいなかったことが問題だったのだ、と。学生運動は当時年齢がいっていても30手前から10代後半の若者であり、どんなに偉そうなことを上がいってもそこにはさほど世代の差もなく、知見も社会というものがどういうものか知らなかった。そんな老人のような人がいたなら変わっていたのかもしれない、と言われていた。

ドキュメンタリーで語る彼らはその輝かしい時代について嬉々と話す人もいるし、山崎博昭の死を未だに抱えてこのインタビューまでずっと自分が学生運動に関わっていたことを話してこなかった人もいた。彼の高校の同級生であり、学生運動を経験したあるものは実家を継ぎ、あるものは教師や弁護士となり、あるものはライターや舞踏家になった。そう、彼が死んだあとにも彼の彼女の人生は続いていた。


6位 『フリー・ガイ』

「ナイト ミュージアム」のショーン・レビ監督が「デッドプール」のライアン・レイノルズとタッグを組み、何でもありのゲームの世界を舞台に、平凡なモブキャラが世界の危機を救うべく戦う姿を描いたアドベンチャーアクション。ルール無用のオンライン参加型アクションゲーム「フリー・シティ」。銀行の窓口係として強盗に襲われる毎日を繰り返していたガイは、謎の女性モロトフ・ガールとの出会いをきっかけに、退屈な日常に疑問を抱きはじめる。ついに強盗に反撃した彼は、この世界はビデオゲームの中で、自分はそのモブキャラだと気づく。新しい自分に生まれ変わることを決意したガイは、ゲーム内のプログラムや設定を無視して勝手に平和を守り始める。共演にテレビドラマ「キリング・イヴ」のジョディ・カマー、「ジョジョ・ラビット」のタイカ・ワイティティ。(映画.comより)

TOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。NPC(ノンプレイヤーキャラクター)がある日自我を持ち始めて、ゲームのモブキャラでしかなかった主人公のガイが世界を変えていくというストーリー。予告編を見る限りはそこまで惹かれなかったが、映画をよく観ている人たちからの絶賛の声が聞こえてきたので、観なきゃという気になった作品。

物語としてはゲームの世界と現実の世界の二層構造で進んでいくが、これがうまい組み合わせで展開しているのもうまいし、見事なエンターテイメント作品になっていた。また、主人公・ガイが人を傷つけない手段で自分のレベルを上げて世界を変えようとする姿はどことなく、ぺこぱの誰も傷つけない漫才にも似ていた。今の時代という感じもその辺りが強いかなと思う。

自分の人生において、自分が主役のはずなのに疎外感を持っていたり、脇役みたいだな、とかいつも同じ毎日を過ごしてつまらないと感じている人には響く(つまりほとんどの人に)作品になっていて、こういうことができるからエンターテイメントってやはり恐るべしと感じた。こういうことがほとんどのエンターテイメント作品はできないとも言える。

『デッドプール』でも死なない無敵のヒーローを演じたライアン・レイノルズが主人公だから、殺しても殺してもいつも通りなNPC(モブキャラ)に説得力もあるし、「あいついつかやらかすだろうな」という期待も沸く。ゲームやITに関わった人は現実社会の物語の部分もより楽しめるだろうし、誰が観てもたのしめるエンターテイメント作品だと思う。

また、『マトリックス レザレクションズ』を観た時に僕の脳裏に浮かんでいたのは『フリー・ガイ』だった。すでに『フリーガイ』がやってしまったことの一歩手前のような内容だなと僕には『マトリックス レザレクションズ』は思えてしまった。
『マトリックス レザレクションズ』が10年ぐらい前にしていたら、かなり新しいものとして見れたはずなのだが、どんどん更新されていく価値観やネット社会と現実世界のリンクなども含めて、『フリーガイ』が公開された後ではやはり新しいものだとは思えなかった。その意味でも『マトリックス レザレクションズが物足りなかった人には『フリーガイ』をオススメしたい。


5位 『君は永遠にそいつらより若い』

芥川賞受賞作家・津村記久子のデビュー作で第21回太宰治賞を受賞した「君は永遠にそいつらより若い」を映画化。就職も決まり卒業を間近に控え、日常をただなんとなく生きていた大学生の主人公が、暴力や児童虐待、ネグレクトといった社会の闇と、それらに伴う悲しみに対峙することになる姿を描いた。児童福祉職への就職が決まり、大学卒業を間近に控え手持ちぶさたな日々を送る堀貝佐世。友人とぐだぐだした日常を過ごしていた彼女だったが、同じ大学の猪乃木楠子と知り合い、過去に痛ましい経験を持つ楠子と独特な関係を紡いでいく。そんなある日、友人の友人である穂峰直が命を落としたことをきっかけに、佐世を取り巻く日常の裏に潜んでいた「暴力」と「哀しみ」が露わになっていく。監督・脚本は「あかぼし」「スプリング、ハズ、カム」の新鋭・吉野竜平。佐世役は「“隠れビッチ”やってました。」に続き主演作はこれが2作目となる佐久間由衣。楠子役はテレビドラマ「あなたの番です」や映画「みをつくし料理帖」など活躍の続く奈緒。そのほか、小日向星一、笠松将、葵揚、森田想と注目の若手俳優たちが共演した。(映画.comより)

テアトル新宿にて鑑賞。主人公・堀貝(佐久間由衣)は欠落感を抱えて生きている大学四年生、就職先も児童福祉司として決まっていて、卒業後は故郷の和歌山に帰って勤めることになっている。堀貝はひょんなことから一学年下の猪乃木(奈緒)と出会い、次第に意気投合していく中で、猪乃木の過去に起きた不条理な悪意による暴力とそのせいで彼女の人生や家庭が崩壊したことを知ることになる。

また、堀貝自身は背が高く処女であること、自分は他の人ができることができないという劣等感を抱えていた。しかし、少しだけ飲み会で話をした穂峰(笠松将)に興味を持つが、彼はその後いつものように友人の吉崎(小日向星一)と家飲みをした後に自殺をする。穂峰は住んでいる部屋の下の階でネグレクトが行われており、その少年をしばらく自分の部屋に住ませて保護していたことで誘拐と間違わられて警察沙汰になるような青年だった。そんな彼が自ら命を経ったことに堀貝も吉崎も理解できないまま最後の学生生活を過ごすことになる。

堀貝は猪乃木という他人に自分の秘密や抱えているものを話すことができるようになっていく。そこにはシスターフッド的な部分もある(少しだけ同性愛的なものもある)。
他者に理解されたい、それが叶うのは一瞬、刹那かもしれないし、相手が同じでも次はないかもしれない。だからこそ、ふたりの時間はやさしく儚い。しかし、堀貝は猪乃木と出会ったことでその欠落感や劣等感に向き合い変化していく。

『ドライブ・マイ・カー』でも個人の痛みを他者に語ることで生きていくことを選ぶという展開があったが、こちらも内容的には近しいものがあると思う。どちらも今の時代、現代性がしっかりと作品に反映されていた。そのことにも感動してしまった。派手な作品では同じような悩みや絶望に似たものを感じている人に届き、前に向かせてくれるような作品としてずっと観られていくのではないかと思う。

ポスターなどでも印象的な赤い髪の佐久間由衣はビジュアル的にも映えている。その堀貝は欠落感や劣等感を抱えているという存在であるのだけど、でも普通に見ても美形じゃんって観始めた頃に思ってしまった。そのルッキズム的なものを自分が無意識にやってしまっている、と気づく。

そういうものから逃れることはできないけど、気にしないといけない。この辺りは自分の中で当たり前になってしまっていることに気づけるかどうかも大きいし、たとえば友人知人や家族や近い人も自分と同じような認識だとわからないままになってしまう。


4位 『少年の君』

「七月と安生」など監督としても高く評価される香港出身の俳優デレク・ツァンがメガホンをとった青春映画。進学校に通う高校3年生の少女チェン・ニェンは、大学入試を控え殺伐とした校内で、ひたすら参考書に向かい息を潜めて日々をやり過ごしていた。しかし、同級生がいじめを苦に飛び降り自殺を遂げ、チェン・ニェンが新たないじめの標的になってしまう。彼女の学費のため犯罪まがいの商売をしている母親以外に身寄りはなく、頼る人もいない。そんなある日、下校途中の彼女は集団暴行を受けている少年を目撃し、その少年シャオベイをとっさに救う。優等生と不良という対極的な存在でありながらも、それぞれ孤独を抱える2人は次第に心を通わせていく。「サンザシの樹の下で」のチョウ・ドンユィがチェン・ニェン、アイドルグループ「TFBOYS」のイー・ヤンチェンシーがシャオベイを演じた。第39回香港電影金像奨で作品賞、監督賞、主演女優賞など8部門を受賞。第93回アカデミー賞で国際長編映画賞にノミネート。(映画.comより)

Bunkamuraのル・シネマにて鑑賞。弁護士の三輪記子さんとDMしていたらオススメされたので気になって観ようと思った。中国のオンライン小説が原作となっていて、2019年の中国映画興行収入9位、青春映画ジャンルとしては歴代1位になった大ヒット作品だった。

中国におけるいじめや大学受験競争を描いているため、見ていて何度も苦しくなるような、目を背けたくなるようなシーンが多々あった。主人公の男女ふたりがとにかくすごかった。内向的な優等生で進学校に通っているチェン・ニェンをチョウ・ドンユイ、母親に捨てられた不良少年のシャオベイをイー・ヤンチェンシーが演じているが、この二人を観るだけでも価値がある映画と言える。「孤独な二人の愚かしいほどの崇高さが絶望の闇から抜け出そうとする青春譚」という言葉が観終わって浮かんだ。

いじめなどを取り扱っていることや途中でチェン・ニェンがいじめをしている同級生からされる残酷な行為は『リリィシュシュのすべて』に通じるところがあった。ある意味で「いじめ」のテンプレ的な描写とも言えるかもしれないが、見るのがほんとうにきつい。

少年少女が大人になるために、境界線の向こう側に行くために供犠のような、自分の身代わりみたいな誰かを失ったりすることで少年少女は大人になるという王道な物語の構造をしているのだが、最後あたりの展開が現代的というか啓蒙的な作りになっているのが今の中国で作られたのだなと思えるものだった。

二人がバイクに乗って疾走するシーンはウォン・カーウァイ監督『天使の涙』みたいだなって思ったけど、やはり意識はしていると思うし、青春映画の一コマとしてバイク二人乗りはとても画になる。


3位 『ドライブ・マイ・カー』

村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録された短編「ドライブ・マイ・カー」を、「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した濱口竜介監督・脚本により映画化。舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、妻はある秘密を残したまま他界してしまう。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。主人公・家福を西島秀俊、ヒロインのみさきを三浦透子、物語の鍵を握る俳優・高槻を岡田将生、家福の亡き妻・音を霧島れいかがそれぞれ演じる。2021年・第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、日本映画では初となる脚本賞を受賞。ほか、国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞の3つの独立賞も受賞した。(映画.comより)

シネクイントにて鑑賞。14時少し前の上映回だったが初日ということもあり、かなり席は埋まっていた。と言ってもまだ左右一席ずつ空けてのチケット販売だった時期だったので、観る側としてはかなり安心だった。

原作となった村上春樹さんの『ドライブ・マイ・カー』が収録されている短編集『女のいない男たち』も読んでいたが、短編小説を元に約3時間という尺にどんな風に映像化したのかが非常に興味があった。だから、劇場で観たいと思っていた。

冒頭の主人公の家福悠介(西島秀俊)と妻の音(霧島れいか)のシーンから『女のいない男たち』収録の『シェエラザード』で書かれているエピソードが登場する。音がセックスをした後の寝起きに見た夢を家福に語るというものなのだが、その後妻はその内容のことを忘れてしまう。起きてから家福が今度はその夢の内容を反復するように妻に語り直す、そして彼女はそれをノートに書き留め、それが溜まっていくとひとつの物語=脚本になっていくということが明かされる。ここで「語り」という主題のひとつが提示されており、なおかつ夫婦には4歳で亡くなった娘がいたのだが、その後ふたりは子供を持たないと決めたこともわかってくる。

つまり、セックスと夢で見たものを妻が語り、さらに夫が語り直すという行為そのものが子供を失ったふたりの「再生」の儀式であったことがわかる。だが、妻は夫以外の男性とも寝ていたことを夫は知っていたが、見て見ぬ振りをしていた。そして、家福に今夜話があると言ったその夜に夫が家に帰ると、くも膜下出血を起こして倒れていた妻は既に息を引き取っていた。ここで妻は「いなくなって」しまう。

村上春樹作品における妻やパートナーの女性が「いなくなる」というエピソードの反復とも感じられる。もう、彼女が彼の元には戻っていない、そのぽっかり空いた空洞を抱えて主人公は生きることとなる。人は生きていくと空洞がいやでも増えていく。そして、その空洞はもう埋まることはない。

物語は二年後に、広島の芸術祭に家福がオーディションから上演までを演出家として『ワーニャ伯父さん』を担当することになり、愛車のサーブで広島までやってくる。芸術祭の担当から規則で滞在中は家福自身に車は運転しないでほしいこと、そして芸術祭が雇ったドライバーが運転をすると言われる。妻との思い出のある愛車を運転できないのは嫌だった家福は断るが、結局素晴らしいドライビングテクニックを持った寡黙な渡利みさき(三浦透子)が運転手となる。

舞台のオーディションには妻の音と関係があったらしい高槻(岡田将生)もやってくる。そこで音に関する話をふたりがしたりするのだが、なにかが制御不能というか逸脱してしまっている高槻は舞台に出演するために滞在中にいろんなトラブルを起こしていく。

村上春樹作品を換骨奪胎しながら(短編『ドライブ・マイ・カー』以外の『シェエラザード』『木野』の要素に音の寝物語として挿入され&『ワーニャ伯父さん』などの演劇も取り込み)、日本語だけでなく数カ国語と手話も劇中内の演劇では使われていく。そして、原作にはなかったみさきの地元へ赤いサーブで向かった際には、村上春樹作品における「いなくなる妻」への言及がされる。作品全体が村上春樹への批評にもなっているし、村上春樹作品の結晶体にも思えてくる。

今作は「語り」が主題であり、カセットテープに録音された音の声だけではなく、劇中劇『ワーニャ伯父さん』は出演者が何ヶ国からも来ていて多言語だし、さらには韓国手話も登場する。この手話は耳で聞くのではなく目で見るものであり、ソーニャ役のユナが手話を稽古や舞台で使う際には周りから音が消える。手話を見るために出演者や観客は音を立てない。沈黙が会話となる。

ユナは全身で「語る」存在であり、そもそも自分のコミュニケーションツールである手話は通じないという諦念がある、だが、彼女の音のない「語り」は不思議とわかるし、伝わる。それは彼女の手話に対して対象者は全身で聞いて対話しようとするからだ。だから、話せないユナがもっとも雄弁にさえ見えてくる。

大切な存在を失ってしまった家福とみさきはその痛みについて他者に語ることをしてこなかった。みさきの故郷に行ったときに家福が彼女に吐露する気持ちも、「男は人前で泣くな」的な教えにある種支配されていたことに起因していると思う。

男性自身も知らないうちに擦り込まれたものに、ある瞬間気づくことがある。たぶん、その時に男性性や女性性ではなく両性具有的な視野や負担や気持ちに触れる。そうするとこのところよく目にするようになった「ケア」の概念やものの捉え方が変化してくる。

みさきも家福に自分の母について告白することで、ふたりは痛みを語ることで解放され、生きていくことを決意する。だから、ラストシーンでは呪いであり聖痕のようにみさきに刻まれていたものが消えている。

映画『ドライブ・マイ・カー』が本家の村上春樹に対して批評的なものとなっているのは、全編における多様な「語り」の先で主人公の家福が痛みを告白し、目の前の現実を生きることを選ぶからだ。というわけでやはり傑作なのでは、としか思えない。同時に村上春樹の凄さも改めてわかる。

今作は原作にはない要素をかなり入れて再構築しているし、原作の村上春樹作品への批評的な部分があるにも関わらず、村上春樹作品を読んだ時に感じるものが映画にはっきりと漂っていた。それは原作や村上春樹さんの核というか芯にあるものが映画にもあるからなんじゃないだろうか。


2位 『花束みたいな恋をした』

「東京ラブストーリー」「最高の離婚」「カルテット」など数々のヒットドラマを手がけてきた坂元裕二のオリジナル脚本を菅田将暉と有村架純の主演で映画化。坂元脚本のドラマ「カルテット」の演出も手がけた、「罪の声」「映画 ビリギャル」の土井裕泰監督のメガホンにより、偶然な出会いからはじまった恋の5年間の行方が描かれる。東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った大学生の山音麦と八谷絹。好きな音楽や映画がほとんど同じだったことから、恋に落ちた麦と絹は、大学卒業後フリーターをしながら同棲をスタートさせる。日常でどんなことが起こっても、日々の現状維持を目標に2人は就職活動を続けるが……。(映画.comより)

公開初日にTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。パンフレットがすごく濃く豪華なメンツだったので買ってよかった。

この映画は脚本の坂元裕二さんが書かれたドラマ『カルテット』第六話の真紀と幹生夫婦が出会って付き合って結婚して、幹生が失踪するまでの流れの中にある男女のすれ違いとか我慢とか思いやりの別バージョンというか、20代の恋愛編みたいなところがあるように感じた。

『花束みたいな恋をした』は『カルテット』の演出だった土井さんが、野木亜紀子脚本映画『罪の声』に引き続き監督をしている。ドラマのTBSのエースが、ドラマでも組んでいる脚本家たちと映画をやっているから、出来は当然素晴らしい。そもそも野木さんや坂元さん脚本なら、誰が出ていても誰が監督していても、観に行くのは決まりだ。という脚本家さんたちでもあるのだが。

『花束みたいな恋をした』の主人公のふたり(山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純))が意気投合するのは好きな小説家が一緒で、絹が麦の本棚見て、ほぼうちの本棚じゃんというシーンがある。

ふたりが好きな作家は穂村弘、長嶋有、いしいしんじ、堀江敏幸、柴崎友香、小山田浩子などがいる。パンフレットインタビューを読むと小説家も漫画家もミュージシャンも坂元さんの好きな人ではなく、書く際に参考にした人の趣味らしい。しかも、彼や彼女はあまりよく知らない人で、そのInstagramとかをひたすら見て深掘りした(見られてる方は知らない)。マーケティングするようにある特定の人を見続けて、その趣味が麦や絹に反映されているらしい。だからこそのリアリティがあるのだろう

上記の作家以外にも、舞城王太郎の名前も出てくる。舞台は京王線沿線の調布や多摩川だったりする。ラノベは読まないが、純文学系が好きなふたりが調布を舞台に小説を書いている舞城王太郎を読んでいるのはリアリティがある。同時に舞城王太郎いるなら、古川日出男も入れろやとファンとしては一瞬思わなくもないのだが、その場合は阿部和重、川上未映子、柴田元幸の名前がないとたぶん入らない、その感じがよくわかる。

この映画で何度も出てくる小説家は今村夏子であり、あとは単行本としてキーになるのは滝口悠生だったりする。いろいろ合点がいく。

就活して会社員になった麦は絹がオススメしてくれた小説を読む気力もなく、小説を読んでも頭に入らない。でも、文章を読もうと書店で手にするのが前田裕二『人生の勝算』という所で笑ってしまった。ほんとうに「あるある」だなと思った。その辺りのセレクトが実にうまい。

この作品をオススメして観に行った親友のイゴっちは「残酷な映画だった」という感想を送ってきた。僕とは真逆だったのでどうしてだろうと考えた。

主人公の山音麦と八谷絹の恋人たちを改めて見てみると、イラストレーターになる夢を諦めて就活して正社員として働き始めた麦と、一度は歯医者の受付に就職するものの縁もあってイベント会社に再就職して自分の好きなものを活かせる仕事を始めた絹。麦はかつてのように小説や映画をたのしむことができない。絹は「やりたいことはしたくない」という気持ちを持ち続けていた。その違った心の行先はすれ違いを生んでしまう。

僕は麦のようになる可能性が少しはあったのかもしれないが、絹のような人生を歩んでいる。だから、この二人は僕にはありえたかもしれない未来と現在であるのだな、と思った。観終わってからイゴっちにラインをしたら、彼は「自分は麦だ」と返してきた。その差が残酷さや好き嫌いという部分で大きな差が生まれていたのかもしれない。

主人公のふたりはいわゆるメインカルチャーではなく、サブカルチャーとされる文学や音楽や演劇を好んでいる。そして、麦と絹の出会いと別れはどこか憶えがあるものだ。

映画を観ながら、二十五歳の時から六年近く付き合った彼女とのことが何度もフラッシュバックした。きっと、僕と彼女の恋愛もこの映画で描かれていたふたりのことも、この世界ではありふれているものなのだろう。だからこそ、20代のころにしかできない恋愛があったんだと思い出させてくれる。終盤に麦と絹がかつての自分たちのような若いカップルを見たとき、その表情に泣けてしかたなかった。

あの頃の僕は、相手に僕をもっと見てほしいというのもあったけど、物書きになる自分を応援してほしかった。だけど、相手のこと(感情や体調や日常)をきちんと考えたり、思いやることはまったくできていない独りよがりでわがままだった。後悔してもどうにもならないことはこの世界にはたくさんある。だからこそ、この映画を観ると過ぎ去った季節の風が、現在の僕の頬を撫でるような錯覚がある。だからこそ、自分にとって響いてしまう映画なのだ。だって、もうだいたいのことは忘れてしまっているのに、忘れられないことと呼応するのだから。


1位 『夢の涯てまでも ディレクターズカット』

© Wim Wenders Stiftung 2015

「パリ、テキサス」「ベルリン・天使の詩」のビム・ベンダース監督によるSF大作「夢の涯てまでも」(1991)のディレクターズカット版。1999年、制御不能となった核衛星の墜落が予測され、世界は滅亡の危機に瀕していた。そんな中、ベネチアから車であてのない旅に出たクレアは、お尋ね者のトレヴァーと運命的な出会いを果たす。トレヴァーに心ひかれたクレアは、旅を続ける彼の後を追う。トレヴァーは世界中を巡って映像を集め、父親が発明した装置を使ってその映像を盲目の母親の脳に送り込もうとしていた。キャストには「蜘蛛女のキス」のウィリアム・ハート、「死刑台のエレベーター」のジャンヌ・モロー、「エクソシスト」のマックス・フォン・シドー、「東京物語」の笠智衆ら世界中の名優が集結した。日本では2021年11月、特集上映「ヴィム・ヴェンダース レトロスペクティブ ROAD MOVIES/夢の涯てまでも」(21年11月5日~、Bunkamuraル・シネマ)で劇場初公開。(映画.comより)

Bunkamuraのル・シネマで上映されていた特集上映「ヴィム・ヴェンダース レトロスペクティブ ROAD MOVIES/夢の涯てまでも」の最後の10作品目として鑑賞。

『アメリカの友人 4Kレストア版』『都会のアリス 2Kレストア版』『さすらい 4Kレストア版』『ベルリン・天使の詩 4Kレストア版』『まわりみち 4Kレストア版』『パリ、テキサス 2Kレストア版』『都市とモードのビデオノート 4Kレストア版』『東京画 2Kレストア版』『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の順で観て、最後として締めはやはり約5時間(288分)もある大作だろうと決めてスケジュールを組んで10作品を観た。

はじめて観た『夢の涯てまでも ディレクターズカット』はロードムービー三部作(『都会のアリス』『まわり道』『さすらい』)や『アメリカの友人』『パリ、テキサス』『ベルリン・天使の詩』だけじゃなく、今やレトロになってしまった『東京画』『都市とモードのビデオノート』辺りのビデオ画像、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』的な音楽も、全部の要素が入っていた。

日本で最初に公開されたのは1992年(アメリカは前年)でその時は158分のバージョンだった。ディレクターズカット版よりも130分も短い。確かに288分は長い、だが、あの長さじゃないとできないことをやっているというのがわかったので、短くしたものは観ていても響かないものだったろうなと想像はできた。

長尺なので、「パート1」と「パート2」に分かれている。

休憩前の「パート1」はロードムービー的にいろんな都市を駆け巡る(東京も出てくる。こどもの城やカプセルホテルにパチンコ屋、竹中直人さんもカメオ的に出演)ので予算もエグかっただろうなと思わせる。世界旅行とまでは言えないかもしれないが、当時のいろんな国の風景や風俗が映し出されているのも興味深かった。

パート2のオーストラリアはアボリジニ的な幻想的なものとカオティックなコンピューター画像は「ヴェイパーウェイヴ」が見た夢なのか?と思えてきた。そこは『東京画』『都市とモードのビデオノート』で使ったビデオカメラ撮影手法が活きていた。音楽でRadioheadの『OK Computer』『Kid A』『Amnesiac』が流れていても違和感のないカオスでサイケな映像がかなり続くので、嫌になる人もいるだろう。

物語の中で盲目の人に電気信号で映像を見せようとする実験が出てくる。その実験が次第に自分の夢を記録して小さな再生機でできるように変わっていき、メインの登場人物のふたりが記憶した夢を起きている時間中に再生機で見続けてしまい、それ以外はしなくなっていってしまう。再生機を手放せなくなる。もう、それがスマホにしか見えない。現在と完全に重なってくる。

鏡は自己愛を増長していく、スマホはその最強装置だ。写真だけじゃなく映像も撮れる。今の世界は自己愛だけが高まり、敵か味方に白か黒かにわけるほうに加速している。自己愛は中間を損なわせる。灰色が奪われてしまう。

映画が公開された1992年だから当時はまだバブルの最中だろう。まだ、インターネットという言葉も一般的には使われていないだ。ここではないどこか、アメリカ大陸発見以降のフロンティアとしての宇宙開発戦争、冷戦は終わりフロンティアを宇宙ではなく精神世界、電脳空間に求めたことでインターネットが広まる素地を作ったはずだが、これら全部がこの作品に入っている。

車移動としてのロードムービー、宇宙の話としてSF、インターネット的な夢を記憶し再生させる装置。30年後の今見たら予言的にしか見えない。でも、このディレクターズカット版は金かけて世界中を飛び回って、ヴィム・ヴェンダースがほんとうにやりたい放題している。だから、パート2のカオスでレトロなビデオ映像的なもの観ていると僕は笑いそうになってしまった。

最高だよ、やりたい放題、こういうものが観たかったんだよ。作家が作りたくてたまんねえもんが形になっているものが。時間とかフォーマットを無視してやる、あるいは新しいものを作り上げてしまう。作家性とはほんらい暴力的で横暴なものだ。それを思い出させてくれた。みんなが欲しいものを、欲しがるようなものをマーケティングして作るとか愚の骨頂だ。そんなものいつだって欲しくなかった。飼いならされたらそのわかりやすく作ったものが心地よくなる。スマホがいまはそれだから、距離は取らないと「わたし」がスマホと情報として搾取されるだけだなあ、と改めて思った。

そして、なによりも映画を観ているとヴィム・ヴェンダース監督は物語と音楽の力を信じているのが伝わってきた。それがよくわかる話でもあって、オーストラリアパートのジャム・セッション的な音楽は素晴らしいし、登場人物のひとりが再生機中毒になった主人公を取り戻すためにひたすら彼女の物語を書き続ける。ほんとうに今、この時点で、2021年に観れてほんとうによかった。『夢の涯てまでも ディレクターズカット』は僕の人生における映画のベスト10に入る作品になった。

↑のものは『水道橋博士のメルマ旬報』で連載中の「碇のむきだし」の「2021年12月30日号」として公開したものを再録しています。

また、以前「碇のむきだし」で書いていた日記はこちらで続きを書いています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?