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『ブラインドスポッティング』

朝起きて、なにか観に行きたいなと思って映画を検索。『ブラインドスポッティング』が観たいなと思ったのだが、渋谷だとシネクイントで13時からだったので、新宿武蔵野館の10時の初回を観るために副都心線に乗った。

オークランドで生まれ育った親友同士の2人の青年の姿を通し、人種の違う者や貧富の差がある者が混在することによって起こる問題を描いたドラマ。保護観察期間の残り3日間を無事に乗り切らなければならない黒人青年コリンと、幼なじみで問題児の白人青年マイルズ。ある日、コリンは黒人男性が白人警官に追われ、背後から撃たれる場面を目撃する。この事件をきっかけに、コリンとマイルズは互いのアイデンティティや急激に高級化していく地元の変化といった現実を突きつけられる。あと3日を切り抜ければ晴れて自由の身となるコリンだったが、マイルズの予期せぬ行動がそのチャンスを脅かし、2人の間にあった見えない壁が浮き彫りになっていく。スポークン・ワード・アーティスト、教育者、舞台脚本家と幅広く活躍するラファエル・カザルと、ラッパーとしても活躍する俳優ダビード・ディグスが脚本・主演を務めた。(映画.comより)


観終わったあとにはただただ素晴らしい、これは間違いなく観られるべき映画だと思って何人かLINEとかでオススメした。ていうか観て!


タイトルに関しては、作中でも言及される「ルビンの壺」と盲点というこの作品のテーマそのものだろう。「ルビンの壺」は壺に見えるし、二人の人間が向かい合っているようにも見える。引越しをしにいったアート関係っぽいおっさんの家で二人が向かい合せられるところがあるがそれも「ルビンの壺」だし。大事なのは人それぞれに最初に見たもののイメージが残り、そういう見方もできるんだと視点や捉え方を知っても、やはりそれは盲点になってしまうということだろう。この映画では人種だけではなく、貧富の差、生まれの違い、意識の違いなどが同じものを見ていても違うのだと教えてくれる、いや気づかせて思い出させてくれる。


今作での主人公の親友同士は人種が違う。黒人と白人、どれだけ長い間友達だったとしても彼らは同じ出来事を過ごしてきても見られ方が違う。問題児である白人のマイルズは捕まらずに、黒人であるコリンが捕まってしまったようなこと、これはアメリカで起きてしまっている現実だ。だからこそ、あと三日でというときに警官が黒人を拳銃で撃ち殺したのをみたコリンは恐怖と怒りにかられる。マイルズとコリンがいたら白人の警官はコリンを逮捕するか撃つ。これはマイルズがどれだけ悪ぶっても白人であり、白人至上主義なアメリカでは覆りづらい、頭でわかっていてもだ。
舞台になっているオークランドという場所には地元民はもちろん昔からいるが、移民やほかからやってきたプチセレブのような人間たちがきたことによって町が変化している。東京でもそういう場所はあるが、新しい住民がふえて新しい店ができてオシャレな町みたいなことになっていくと当然ながら物価があがり、もともと住んでいた人たちが暮らせないということが起きる。このことで地元民としてのマイルズは腹を立ている。また、コリンとマイルズは引越しの運送業者で働いている。このことは出ていく人とやってくる人と関わる仕事になっており、主演を務めた二人の目の付け所が素晴らしい。


これはラップ、言葉に関する表現をしている彼らが作ったことでより響くものになっているのは間違いない。日本だとちょっと難しい部分はあるが、この作品で描かれた主題を日本のどこかの町を舞台にして、日本人同士だがひとりは在日の人だったり、親が海外からやってきた人などのコンビもので今のこの差別が当たり前に横行するクソな日本をうまく描けるのではないかと思うのだが。
ヒップホップをやっている若い人の中では小説を書いてデビューしたり、単行本を出している人もいるけど、これは純文学的なものとして誰かが書くべきだろうと思う。

関係なさすぎるけどマイルズ演じた人が若い頃の狂犬って言われた頃の加藤浩次さんに似てる。

これを観て、何が言いたいののかわからないとかいう人はたぶん、何を観てもわからないか現状をまったく理解できていない人かもしれない。わかりやすいものだけを摂取してわかったような気になって、エンタメのしゃぶ漬けだ。なにかがおかしいことにも気づかないし、わからなくなっていく。まあ、国家権力はどこでもおそろしいが、国民に奉仕するという仕事をしている人がズブズブに国家に奉仕をして、いや自分たちの利益のために動いて国民からひたすらむしり取るような時代だ。そういう奴らと対峙するための表現や思考の源っていうのがこういう作品にあるってことだけどね。

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