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『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』

土曜日の22時前に上映開始し、日付が変わる頃に終了した『スパイダーマンファー・フロム・ホーム』をTOHOシネマズ渋谷にて鑑賞。ほとんど客席は埋まっていた。今作は『アベンジャーズ エンドゲーム』の後日談&ネクストサーガへの橋渡しながら、ヒーローとは何かを、そして、現在の世界が陥っている信じたいものを信じるという正義への疑問を投げかけるエンターテイメントだった。
もはや父性はなくなり、いや、それはかつての社会を回していたエンジンであり規律であり、呪縛だった。アイアンマンがいない世界で、トニー・スタークがいない中で高校生のピーター・パーカーに託されたもの、同時に抱えきれない期待や希望、目指すべき象徴や道標がない時代をどう生きるのか。あるいは、年を重ねたかつての少年少女だった私たちは現在の少年少女たちになにができるのか、また、頼りになるのだろうか、アシスタントは可能なのだろうか、私たち自身が道に迷い、暗中模索な中で。答えを出してその責任を取ることを放棄し続けた結果はこの世界の有り様。


敵と味方に簡単に分けないとわからないからね、分断されていく世界ではグラデーションは消えていく。ピーターはおばと暮らし、同級生たちの人種は多様だ。信じていた世界の有り様が変わり、変化の中で戸惑う人は攻撃的になり、自己主張とレッテル張りをしないと不安で堪らない。僕も人のことは言えないかもしれないけど、それでも少しは考えれるようになってきた。優れたエンターテイメントは知らずと受け手の価値観をアップデートしてくれる。
『アラジン』も素晴らしかったし、次の十年代への新しい時代に向かう作品がたくさんある。世界は、宇宙は見えるところまでしかないなら、視野を広げて角度を変えてみるしかない。

でも、ほんと最近観たり聴いたり読んだりしたものが核の部分ややろうとしていることが近いのは頼もしい。こういうことが同時多発的に表現で起きているなら、次の十年代は少しはまともだと思う。この十年代があまりにもひどすぎたからこれ以上ひどくなったらどうすんだよってみんな思っているから、現れてくる表現がある。

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