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『天気の子』&『暁闇』

仕事終わってからTOHOシネマズ渋谷にて新海誠監督『天気の子』を鑑賞。ほぼ満席だったのかな、二十代前半や十代後半もかなりいた感じだった。
正直な感想を言えば、この映画はまさしく今の日本そのものだ。地獄だった。川村元気という僕らの世代のトップ中のトップクリエイターが『君の名は。』で新海誠監督のフェチや変態性を毒抜きしまくったら大ヒットし、川村元気が『電車男』から始まったように、もはや「セカイ系」は当然のものとなって、その決定打が前作だった。


雨が降り続く東京、どこかの島から家出をしてきた少年とある日少女が出会った。少女は晴れ女として、天気にする能力を手に入れてしまっていた。そして、その力を使って人々の願いを叶えていく。しかし、その能力を使えば使うほどに、雨の止まない異常気象を元に戻すために彼女は人柱にならないといけないのだった。
まあ、セカイ系なんでと思っていたが、後半はかなり怖い、もはや恐怖だった。願いを叶えていた少女は限界値を越えて人柱となって、世界から消える。空の上で空と一体化している。少年は彼女ともう一度会いたいためにそちら側にいく。まあ、セカイ系だからな、でも、その前に少年が世話になっている中年に「世界は狂っている」と言われるのも引っかかるところになるのだが。以降はネタバレします。


CMや予告編でも流れていた「世界の形を決定的に変えてしまった」ということが最後に起こる。少年は当然ながら少女を迎えに行って地上に戻ってくる。が、世界の形を決定的に変えてしまうのだ。クライマックスで二人が帰ってきてから地上では三年間雨が止んでいないという世界になってしまっている。これは少年が世界はそもそも狂っているのだから、世界のことわりを破壊してでも「ただ、俺は君に会いたいんだ!」と世界を変えてしまった結果だ。

自分たちがよければどうでもいいのか? 他者や世界はどうでもいいのか? いいんだよね、セカイ系なんだから。自分たちがよければそれでいいし、「僕」と「彼女」が世界の運命を司り左右するのだから、ほかがどうなっても彼女に会いたいだけだから。自分たちさえよければいいのか、どっかの首相夫婦か、いや、今の日本、そして社会だな。素晴らしいよ、そして主題歌はラッドウィンプスで、歌詞の中には「愛にできることはまだあるかい? 僕にできることはまだあるかい」って感動的な感じで歌われている。映画の中で行われている他者なんか関係ないって思える行為を、そんなもんを愛なんて呼ぶなよ、そんな愛ならいらねえよ、僕はそんなものを絶対にいらないよ、それを感動して観てる奴がいう愛なんていらねえよ。


そして、これを僕より少し上のロスジェネ世代の川村元気と新海誠が作っているということ、これを中高生や大学生が観にくるってわかっていてやってんだろ、なあ、どういうつもりなんだよ。自分の物語にしか世界はもう興味ねえのはわかってるよ、スマホもネットもそれを加速したよ、なあ、それでもあんたたちみたいな影響力があるクリエイターが若い世代に自分たちさえ良ければいいみたいなメッセージに受け止められる物語を届けていいのか。

同世代が就職氷河期で就職できなくて自己責任扱いされて、今は人生再設計とかクソみたいなことを責任もなんにも取らないバカな政治家どもにいいようにされている政府に言われてんだぞ、お前らいわゆる勝ち組がこんなメッセージ伝えてどうするんだよ。頼むよ、せめて影響力の強いエンターテイメント作る人たちは少しでもまともな社会になるようなメッセージ伝えてくれよ。ヒットメーカーがこんな作品作ってどうすんだよ、「世界の形を決定的に変えてしまった」っていいほうに変えてくれよ、世界が狂ってるからって言って自分たちだけがよければいいなんて、それこそが狂ってるんだよ。


新海誠監督作品を観たあとにユーロスペースに移動して、阿部はりか監督『暁闇』を続けて。トークゲストが社会学者の宮台真司さんだった。「MOOSIC LAB2018」長編部門で準グランプリ、韓国の全州国際映画祭でも招待されている作品で、 SPOTTED PRODUCTIONが配給していて直井さんもいらした。


「何に対しても無気力な少年・コウ、学校が終わると見知らぬ男たちとつかのまの関係を持っているユウカ、不器用にすれ違う両親の狭間で行き場のない悲しさを抱えるサキ」の中学生三人が出会い物語が展開していく。この作品で重要な場所としてあるのが屋上である。

トークゲストである宮台さんが映画に寄せたコメントで「屋上に身を置くことと、知らない男と性交することは、よく似ている。そのことをとても印象的に描き出した映画だ。僕が文章で書くよりもずっと説得力がある。つまり「屋上に身を置く者は、つながれる」ということだ」と書かれていた。60分に満たないこの映画には、地上という日常生活から逃げる場所として、解放される場所として、何者でもない自分でいれる場所として屋上が存在している。


阿部監督と宮台さんのトークでも話に出たが、屋上という空につながっている場所、彼岸と此岸で言えばあちら側につながる場所からこちら側に地上に戻ってくる話に監督はしたかったがそこまでは無理だったという話。たしかにそこまで描くならば倍ぐらいの時間はいりそうだ。しかし、僕としてはこの前に観ている『天気の子』がそもそも廃ビルの屋上から空につながって行って帰ってくる構造を持っていたし、そして地上に戻ってくる話だったが「セカイ系」を強化する内容だったため、僕には他者や社会という外部を必要としない内容のためきつかった。そういうものではないものを、阿部監督は何年かかかって屋上から地上に戻ってくる映画を撮るのだろう。その時には、きっと他者性や外部がある物語になると思う。それはこの映画におけるそれぞれの親子関係や人間の距離感がそう感じさせた。


主人公の父親が水橋研二さんだった。直井さんと終わったあとに話をしていて、阿部監督が九十年代の邦画好きだという話もトークの際にしていたが、僕は岩井監督とか単館系にあったものを少し感じたが、直井さんは『害虫』『月光の囁き』とか好きだったという話があって、だから水橋さんがキャスティングされたのかな、やっぱり僕ら世代は水橋さんずっと観てるもんね、映画で。


あとトークの中で宮台さんが作90年代の援交少女の話やナンパとかかつては街に微熱のようなものがあったけど、今は冷え切っている。お金がどういうではなく、すぐにホテルに行ってセックスするような熱みたいなものがかつてあったんだ、と。その後にお金が発生するようになっていく過程があったことなどを話されていた。作中でユウカが男たちとホテルに行った時に首絞めてというんだけど、それに関しては宮台さんもそういう女性は今まで何人もいた経験から、そういう女性は超越系だと、屋上の側の人だと言われていた。僕は女性にそういうことを言われたことはないので、超越系の人と出会っていないのだろう。

メインの3人の面構えがいいんだけど、もっと長いものも観たいと思った。屋上から地上へ一緒に戻ってくる話を阿部監督にはいつか撮ってほしい。そこにはきっと外部性があるはずだから。

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