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いつかの、あの声【ショートショートモドキ・1270字】

「先にお飲み物お伺いしましょうか?」
 毎回、熱いおしぼりを広げて渡しながら、彼女がおずおずと訊いてくる。この居酒屋が出来て大分経っても彼女は、恐る恐る注文を取りに来たものだ。オープンしたばかりの頃、彼女は本部のSVにスーパーバイザー、こんな指導を受けていた。「注文はもっと積極的に。最初が肝心なんです」とSVは言い、『入店すぐの客に対する5つのタスク』なるものを彼女に説明した。カウンター客の私にもしっかり聞こえてるが、それはいいのかSV、と心の中でツッコミながら耳を澄ませる。

おしぼりを渡す/ドリンクの注文を取る/ドリンクを提供する/お通しを提供する/料理の注文を取る
 
「入店してすぐのうちに、スムーズにこのタスクをクリアしておく必要があるのです。問題は、お客様の方からドリンクや料理の注文をしてくれない場合。とにかく店としては、最低でも一人ワンドリンク・一品以上は注文を取らなくてはいけません。商売なんですから」とSVは続け、彼女はコクコクと頷きながらメモにボールペンを走らせていた。だけど彼女の接客はずっと、おずおずとしていた。彼女はこの店の大将の奥さんで、バイトを雇うような立場なのに、何年経ってもそれは変わらなかった。他の店員の様に、「お飲み物お伺いしまーす」「ドリンクのオーダーよろしいですかあ?」くらいもっと雑に、肩の力を抜いてもいいのに、と思った。

 でも。そんな風景ももう遠い過去の話だ。今じゃ席ごとにメニュー端末があるのが当たり前。ドリンクを先に頼むという居酒屋の作法は、すでに前時代的。食べたい物飲みたい物を、それぞれが欲する時に、注文したりしなかったりする。自由。自由な時代の到来だ。誰もが、自分が客であることを棚に上げ、個人の自由を謳歌する。店員が飲み物を持って来る前に一品は決めないと、と慌ててメニューに目を走らせたりすることもない。ドリンク提供のついでに料理の注文をして忙しい店に協力、なんてことは、もはやお伽話なのだ。

 何年振りだろうか、久々にこの店に来て。入口でアルコールスプレーを手にまぶし、席に備え付けの紙おしぼりを横目に、端末でビールを頼んで。お通しとビールだけでもう30分経過、過去に思いを馳せていた私は、料理の注文を済ませていないのに誰にも何も言われない。恐らくこのまま会計に立っても、咎められないだろう。だが私は帰らなかったし、料理の注文もわざとしなかった。それは私の、小さな賭けだったのだ。酷い客だけど。

 カウンターからガラス張りの厨房の中を見ていた。奥からやっと彼女が出てくる。何年ぶりだろう、老けたのはお互い様か。彼女はホールにさっと目をやり、伝票を確かめている。そしてもう一度ホールの方に顔を上げ、私と目があった。厨房から出る。私の脇にそっと立つ。
 ああ、嬉しいな。私は賭けに勝ったようだ。私は彼女に、自分を覚えていて欲しかった訳じゃない。ただ私は、もう一度耳にしたかっただけなのだ。
 彼女は少し微笑んで、やっぱりおずおずと、私に尋ねた。
「ご注文はいかがなさいますか?」


了【2022.7.16.】


最初が「先にお飲み物お伺いしましょうか?」で「ご注文はいかがなさいますか?」終わるショートショート募集、に応募してみたのですが。
……これ、ショートショートじゃない気がする(でもアップしちゃうし)。
またネタを思いつくことができたら再挑戦します!
ご来店ありがとうございました!


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ほろ酔い文学

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