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about manent 2016-2023 Oct.












manent

2016~2023

















※以下の文章は、manentのベーシスト藤井によるものであり、ギターボーカル高畠翔によるモノではありませんので、あらかじめご了承ください。


◆はじめに

 本稿は、2016年秋(10月)に結成され、2023年10月22日に解散するmanent(マナン)というバンドの始まりから終わりまで、およそ7年間をアーカイブする目的で取り組んだレポートです。
「Verba volant, scripta manent /言葉は飛び去るが、書かれた文字はとどまる」というフレーズに依る行為で恥ずかしいですが、バンドがいた痕跡を残したいという欲求よりも、ただただ自分の人生の一部を書き起こすことで過去に一度浸り直して、それらの記憶にまつわるあらゆることを清算したい、という自己満足がはるかに上回ったものです。そのためメンバー各位に事実確認をせずに書き上げた、極私的な偏向レポートにすぎません。古くは5年以上前のできごとについても書いているので、記憶が曖昧な箇所は多くあるのですが、脚色せずありのまま記録しようとしています。
 ただし、普段から架空の(おもにネガティブな)状況をなんども反芻してしまう妄想癖の持ち主なので、ほとんど記憶違いである可能性もあります。すべてフィクションである、という前提で読んでいただければ幸いです。
 活動期間中に音源化した各楽曲についての内容と、バンドの歩みをメモした内容で章を分けています。時系列が前後している場合があるほか、明らかに余談・稚拙さ由来の愚痴と思われる箇所もありますが、ご了承ください。
 なんでもない大学生がバンドを始め、それが消滅するまでを綴った日記としても読めるので、音楽をやったことがないけれどバンド小説や漫画、脚本が書きたいと考えている方は、一部は参考になるかもしれません(一般的な「ライブハウスを中心に精力的に活動中」のロックバンドの実録とは大きく異なります)。現在バンドなどをやっておらず、音楽が好きで、「バンド」がどういう人の集まりなのかに興味がある人は、楽しめるかもしれません。現役のバンドマンはこんなもの読んでいる場合じゃないので今すぐ作曲や練習、素晴らしい作品のインプットへ向かってください。
 最終的におよそ4万5000字の長文となってしまいました。心と体と時間に余裕があれば、読んでみてください。もっとも、そんなタイミングには自分が好きなことをするべきなので、この文書を読むのにうってつけの日など存在しないと思われます。
 本稿を読むことで、manentはなぜこのようなバンドになったのか、あらゆる楽曲がどうして今の歌詞とサウンドになったのか、なんとなく腑に落ちると思います。僕自身も書くことで、改めてどんな存在だったのかを確かめてみようと思います。

◆結成経緯と『海へ.ep.』

 某日本大学某学部の軽音楽サークルで、高畠が部長のときに僕は新入生として入った。だが1年間で辞め、3年だった高畠はサークルを引退。その後、最初は来来来チーム「天国」と、くるり「How to Go」のコピーを4人でやった(リードギターの彼は、その後manentのライブ撮影などをなんども手伝ってくれた)。
 高畠がレコード会社に送る音源のレコーディングを手伝うために、僕とドラマーは参加することになった。manentのLINEの最も古い投稿が、2016年10月3日になっており、「スタジオ2、3回入って今年中にレコーディングしたいと思ってます」と書かれていた。当時、僕もドラマーも、素人に毛が生えた程度の演奏力さえなく、オリジナルも初めてだった。正気じゃない。
「はなして」「予感」「赤い風船」「残暑、そして」の4曲を録るという記録有り。最初に渡されたデモだ。「青の二人」はその後登場し、「残暑、そして」はドラマーが一番好きだと言っていたのに録音しなかった。レコーディング数日前に「おとしび」のデモが届く。10日で間に合わせた形になる。『海へ.ep.』を聴いた方はわかると思うが、演奏はなにひとつ間に合っていない。ちゃんとしたスタジオで、正規の値段を支払っておきながら、しっかりレコーディングできるような状態ではなかった。実際、エンジニアの人にかなり嫌な顔をされ、怒られながらなんとか録り終えた。このころはまだサポート扱いだったはずなのに、結構お金を払わされていた記録が出てきて笑えた。
 ちなみにその時のプロジェクト名はboys are boys。たしかレコーディング当日に資料を覗き見するまで知らされておらず、普通にださいなと思った(ちなみにブッカーさんは「変えちゃったんだ」みたいな反応をしていた)。  
 その後、高畠が各所にデモを送りまくり、メジャーレーベルの人から反応があり、ライブハウスから出演の話も来ていると言われ、バンドとして本格的に動き始めた。高畠が好きなバンドが出ていたライブハウスに直接連絡をとって、オファーをもらったようだった。
 2016年12月30日、LINEに「ごめん!突然なのですが、バンド名、manentにします。読み方は、マナン!突然でごめんけど、よろしくね。」(原文ママ)とのメッセージあり。問答無用の変更だったが、改名後のほうが圧倒的に良いので特になにも言わなかった。高畠は各所で、manentの由来は「演劇のト書きで《舞台に残る》」という意味の単語だ、と紹介している。
 ジャケットの絵は、ライブで手焼きのデモを置くために必要だったため、僕が描くことになった。海に太陽が沈むイメージで描いたものの、目玉焼きとベーコンにしか見えない。高畠の指示で、何枚か似た絵を描いたけれど、最初に書いた一枚が選ばれている。

●1.予感(『海へ.ep.』EP ver)

 遠い祖国a.k.a香川の海をみながら弾き語りをして生まれたと、高畠からは聞いた気がする。manentはセルフライナーノーツZINE(手刷り)を2冊作っており、「予感」は再録したので高畠本人の解説がどこかに書かれているはずだ。所有している人はかなりレアものなので燃やしてほしい。
 デモでのイントロはギターのアルペジオとハイハット刻みで始まっていた。というか、ギターと歌以外は基本クオンタイズもされていない打ち込みのベードラで来るのが基本だった。
 歌詞は、当初からほとんど変わっていないはずだ。しかも長い曲なのに、基本数行の繰り返しだ。レトリックっぽいけど言葉遊びの意識がなく、天然で故障しているくせに変な実感を伴う歌詞を読んだとき、ひどく悔しかった。この文体こそ、manentもとい高畠翔という人間の特徴だ。
 ART-SCHOOL、Syrup16g(中学から聴いていたらしい)、andymori、GalileoGalilei、サカナクション、THE NOVEMBERSなどをがっつり聴いて育ってきた人間のはずなので、それらのバンドの歌詞を独自に取り込み続けた結果、物語全振りというわけでも、教訓めいたフレーズがあるわけでもないが、メタファー的な筆致で、生きることの虚無や罪悪感にひどくアクセスしてくる歌詞は、紛れもなく個性的で、才能があったと思う。
 僕から、ベースの和音で始めたい、と申し出たはずだ。脳内ではディレイが鳴っていたが、持っていなかったのでコーラスのみをかけている。事故物件で広さの割に安く、線路の真横にあった当時の高畠の家で、スタジオに入る前にアレンジの相談を兼ねて合わせた記憶がある。ベースは小さいアンプに繋ぎ、ギターはアコギだった。死ぬほど緊張しながら床に座って弾いたのを思い出した。結局、そんなに動かなくていいと言われ、イントロ-A-Bまでが単純な和音のループになったが、間違いなく正解だった。
 展開はほぼデモの通り。この頃はとにかくすべての曲が長かった。サビにあたる箇所でベースを動かすとき、UNISON SQUARE GARDENの田淵さんのようにしなければいけない、と思っていた。この義務感は3ピースバンドに対する個人的な美学にも由来している。
 活動を通して結局ほとんど変わらなかったが、「明らかに4ピースバンドでリードギターがやる部分がガラ空きに聴こえる」という状態を解決したかった(ただみんなが8ビートや16ビートに乗せてジャカジャカしてればなんとかなるようなバンドがあまり好きではなかったため)。
 3ピースなのにリードパートをギターがほとんど弾かないなら、ベースで印象付けるようなフレーズを弾くべきだ、と思っていて、この意識自体はいまだに続いている。結局全パート、フレーズ・メロディーこそがすべてだといまだに思っている(いや、楽曲全体をみたとき、あらゆる楽器が大きなひとつのビートとしても完成されていなければ意味がないとも思っている)。
 ちなみに、そのリード不在を感じさせないほどでかいバッキングギターが、その後のmanentのアイデンティティとなる。
 とにかく、”ジャカジャカ”すらできなかったくせに頭でっかちに、ベース一本で楽曲を動かしてやろうというがむしゃらな自意識が、manentのベースラインには共通しており、恥ずかしい。そのせいで解散が決まってからの練習では、本当に苦しめられている。自分で作ったに違いないのだが、今の自分はしない無理をしすぎている。練習が終わるたび、ひどく指や腕が疲れていた。
 ちなみに2Aのギターで付点8分のディレイを使っている部分もほぼデモ通りだ。初期で「アレンジ」といえるようなことが表現されていたのは、この曲くらいではなかったかと思う。どのようにして現在のアレンジに変わったのかは、『宇宙の中で手をふって』のときに追加で書きます。

●2.青の二人


 初期のセットリストにのみ入っている曲で、第2期になってからは一度も演奏されていない。これだけハネたビートの曲は後にも先にもこれだけ。この曲をはじめ、『海へ.ep.』はGalileo Galilei成分強めなのではないかと思うが、明確にリファレンスが提示された記憶はない。
 ベースでハネ感を表現したくて少し音数を増やしている。ちなみに、音数を増やすのは悪手だ。
 1Aと2Aの間、アウトロの「ウォーオ」みたいな部分はメンバー全員歌唱。緊張と声の低さにより音程が取れなかった僕の声がそのまま収録されている。かなりポップな曲なのでリアレンジする手もあった気がする。じつはmanentが動いていない期間に一度、勝手にリアレンジ案を作ったが、反応が良くなかったのでボツにした。
「永遠はもう蚊帳の外」というサビの歌詞はさすがに変じゃないか? と非常に無粋な指摘した記憶がある。結果、そのちぐはぐさは絶対的な個性になっているし、歌詞ならばなにをやっても問題ないというのに。
 このEP全体にうっすらある歌詞のストーリー性や、キャッチーさのあるアレンジがなければ「soda girl」は生まれなかったのではないかと思っている。下地になっている物語も、表現したい内容も、当初から変わっていないのかもしれない。

●3.おとしび

 じつはかなりの人気曲。第2期に入り、ドラマーに変わってからもセットリストに入っていた。勝負したいイベントのときに演奏していた気がする。『Waterlights/散弾が外れたら』としてリリースしたが、おとしびの再録と他にも一曲も加えて、EPとしてリリースしたいと言ったこともあったが、叶わなかった。
 高畠が「Sea and The Darkness Ⅱ に影響を受けすぎだろ」と、彼の友人から言われていたのを横で聞いた記憶がある。確かにmanent結成と同時期にGalileo Galileiは一度解散している。解散ライブを観た高畠が、尾崎弟のドラムが良かったと言っていたのを思い出した。アコギがメインなのも手伝って、その後の楽曲とも雰囲気が全く違う。
 ベースのリファレンスはsleepy.ab「四季ウタカタ」なのだが、実力不足によって全く再現されていない。いつだったか、高畠の家で、それまで聴いたことがなかったフィッシュマンズの「WALKING IN THE RHYZHM」のライブ映像を見せられ、「こんな感じで弾いてみてほしい」と言われた気がするのだが、この曲のときではなかったかもしれない。sleepy.abの源流にはRADIOHEADとフィッシュマンズがいるはずなので、その流れで思い出しただけの余談だ。
 ドラムに関しては、巧かったら絶対にできない、緊張感どころか緊張そのものがパッケージングされている。力不足が原因とはいえ、このぎこちなさから生まれるどん詰まり感は、この音源に限っていえば正解だったのではないだろうか。
「赤い毛布で包んだ/どちらも愛せたら」のような抽象的な内容や、「夜の浜辺を歩く」イメージしやすい具体的な行動の描写、「クソみたいな場所」という口語、サビにある「そっともう手を引いてくれ/ここから」というベクトルを持つ言葉を選ぶなど、技巧面でバリエーションに富んだ歌詞は、他の楽曲にない余白によって出てきたのかなと思ったりする。
 第2期に入ったとき、おとしびを人力でダブっぽいアレンジにできないか、と提案したこともあったが、実行には移せなかった。音数が少ないオルタナ、しかし歌の熱量からしてスロウコアではないという、かなり絶妙な楽曲だった。ここまで行間を聴かせる楽曲に関われたこと自体がとても嬉しかった。

●4.はなして(『海へ.ep.』ver)

 最初のデモに入っていた曲。この曲は、吉祥寺WARPでの初ライブの際、最後に演奏した。本当にフロアに2人しかいない状況だった。初ライブをミスしたら終わりだと気張りすぎたのか、少なくとも結成当初は異様に熱血だった高畠が曲を飛ばした。「あ…じゃああそこからで…」というスタジオ練習みたいな発言で途中からリスタートしたのがいまだに忘れられない。
 manentの8割のライブで経験した、人がいないフロアに大きなギターの音が響く虚しさ(そして莫大なノルマ)、真っ暗な床に照明が反射する状況は、いまだにトラウマだ。先日若干フラッシュバックした。
 曲が長すぎるわりに、ギターにフレーズらしいフレーズがちょっとしか出てこず、ドラムも単調(しかし理不尽なほど長いスネアロールがある)。この頃はギターのエフェクトが最小限で、空間系も歪みもほとんどかかっていなかった。バンドでのアレンジ経験がほぼなかったのに、印象的なベースラインを作らなければと、当時としては相当無理をして編み出したのがAとサビ裏のフレーズだった。
 歌詞については、「真夏のピークが去った/天気予報士が言ってた」とフジファブリック「若者のすべて」を思いっきりサンプリングしたり、「はなして」という結論に至るまでをめちゃくちゃ説明したり、歌詞はおもしろいくらい説教臭く、メッセージも露骨。「manent最初の1曲」という印象があるのだが、最初に渡された4曲のうち、どれがはじめに作られたものなのかは確認していない。
 6分と、とにかく長いが、キャッチーなメロディーと、対象をどうにかしてやろうという強い欲求が滲むような歌詞があったからこそ、のちに編曲して2分台まで短くしてなお、楽曲に強度が残ったのだろう。さらにいえば、こういった露骨な主張になにかを感じて、ソニーの新人発掘の人が観にきたり、ビクターやEggsの青田買い企画に呼ばれたりしたのだと思う。

◆第1期の終わり

『海へ.ep.』のレコーディング、その後の5回のライブで初代ドラマーが脱退した。そしてリアレンジされるまで、「はなして」は封印されることになった。2016年3月9日に、初代ドラマーがバンドのグループLINEを出ている。 
 そもそも彼は映画や映像の専攻だったので、抜けてしまってもしかたなかった。そういえば、彼は映画のエンドロールで「残暑、そして」を流したいとずっと言い続けていた。めちゃくちゃいい人だ(解散ライブにもきてくれるようだ)。
 彼がやめますと言ってきたとき、理由のひとつとして「ノルマがこんなに高いとは知らなかった」と言っていたが、僕も初めてオリジナルのバンドで活動してみて、まったくの同意見だった。
 誰もいないフロアに向けてよくわからないでかい音を出して、お金も搾り取られる。演奏も死ぬほど下手くそだったのに、よく挫折しなかったなとは思う。この当時、モチベーションがどこからきていたのか、今となっては謎だ。承認欲求がよほど大きかったのか。
 対バンを見るたびにステージに立つ資格はないなと思っていたものの、バンドをやること自体に悲観的な感覚はまったくなかったのを覚えている。どんなに下手でも関係なかった。
 未来・可能性を信じられたら/変わらない惰性を受け入れたら、バンドは続くのだろう。

◆第2期の始まりと『宇宙の中で手をふって』

 この時期の記憶がかなり曖昧で、LINEを読み返して確認する必要があった。2代目ドラマーは僕がmanentの裏で一瞬だけ活動したバンドで一緒になって、普通にドラムを叩ける知り合いが他にいないので声をかけた。たしか高畠は同学年にいた音楽学科の上手い人に何人か声をかけていたが、断られ続けていた。「本気でやらないなら入れない」みたいなことを言われたらしいが、その人は今もバンドを、音楽を、続けているだろうか。
 第2期の初ライブは、たしか池袋のぼったくりライブハウスだった。オープンマイクでカラオケや弾き語りで演者を集めつつ、がっつり出演費をとりますみたいな企画で回している場所だったので、今もあるのかどうかはわからない。僕らの演奏がでかすぎたからか、防音設備がザルだったのかわからないが、「水際の夢」の演奏中に警察が来た(ただし僕は俯いて演奏するしか能がなかったので、このことに気づかなかった)。
 2回目でいきなりビクターの新人青田買いライブがあった。そのメンツを確認したら今メジャーデビューしているバンドだけでなく、もはや当時何歳かわからない幾田りらさんがいて、トップバッターで演奏していた。そのような、のちにしっかり売れる一握りの才能とニアミスすることもありつつ、どのイベントでも数合わせのトップバッターが続く。ブッカーと対バン数人だけに向かって演奏するだけ。たまに友達が来てくれる。下手だから演奏に必死でフロアを見る余裕は、ずっとなかった。ごくまれに顔を上げると、文字通りフロアしか見えない。コールタールみたいに黒い床に、カラフルで空元気な照明が反射しているだけ。
 一方、毎年夏に行われている、軽音部に入っている高校生がメインターゲットの大会の予選に出て、グランプリを取ったこともあった。かなりピュアにそのイベントに参加していたが、今思うと大人気ないにも程があった。その後の決勝大会では、今はなき原宿のアストロホールというところで演奏したようなのだが、全く記憶がない。
 Eggs主催の青田買いイベントでもトップバッター。この日、まだガラケーを使っていたミチロウイナツグ率いるバンドと対バンした。リハーサルでギターの音がデカすぎて下げさせられていた。本番もそのままのほうが良さそうだった。この出会いがなければ、現在所属しているbutohes(ブトース)はこの世に存在しない。ただこの日は、僕以外のメンバーが彼と仲良くなっており、僕のほうから本格的にアプローチして会って話したのはもう少し先のことだ。イベント終了後、大人と話さないといけない時間の空気感が気持ち悪かったが、この日出ていたバンドはそれぞれちゃん個性が確立されていてかっこよかった。本気を出せばライブレポートがネットにまだ残っているのを見つけられる。
 完全に余談だが、この時の自己紹介部分に「ポールサイモン、Judee Sill、アンディ・ウィリアムス、くるり、FISHMANS、THE NOVEMBERSに強い影響を受け、70年代の力強い音楽と、現代のやるせなさと狂気を融合させた音楽を作り上げる」と書いてあった。そうだったんだ。
 新体制になってから、ライブ2日前にデモが送られてきて、前日練習でなんとかしてライブで演奏する、みたいなこともあった。ほとんどの曲はボツになった。ちゃんとアレンジする時間を設けたら形になった気がするのだが、お金がなくてスタジオ練習をとにかく短く済ませがちだった。なんとなくセットリストを通して終わることのほうが多かった。
『宇宙の中で手をふって』に関しては、2017年の夏頃にほぼ無料で録るよ、とエンジニアさんから連絡があった。完全にその方の厚意がなければ出なかった作品だ(営業の方法のひとつとしてだったのだろうけど)。おそらく、エンジニアさんとしては1日8時間くらいで録り終わってミックスして完パケ、というつもりだったと思うのだが、manent一同がなにもわかっていなかったので何回も録り直し、別日も数日使った。より良くするためというよりは、ミックスでなんとかできるレベルのベーシックが録れるまでなんどもなんども、という感じで、ストイックさとは真逆だった。それでも嫌な顔ひとつせず付き合ってくれたエンジニアさんに心から感謝したい。
 ジャケットは「白い日」のMVを撮りに行ったとき、千葉内房の海で2代目ドラマーのマフラーと手を高畠が撮影したもの。良いジャケットだが写真をやっている知り合いから画質が悪すぎると苦言を呈された気がする。
 この音源がなければどこにも行けなかった。いまこれを読んでいる人とは、出会うことさえなかっただろう。

●5.soda girl

 前述のぼったくり会場でのライブ後、支払いの関係で揉めた結果、高畠がもう一度弾き語りイベントに出ることで相殺、ということになった。ただの弾き語りイベントなのに配信があり、その時多分初めてこの曲を認識したのだったか、タイトルを初めて知ったのだったか。
 当初は「Soda Pop」というタイトルで、違和感があったのは覚えている。いつのまにかタイトルが変わって、おそらくそういう意図はなかったのだろうが「〇〇ガール」文脈に入るタイトルになって当時のバンドや曲名にありがちなやつで嫌だとは正直思っていた。「お、Galileo Galilei機軸の曲ですね」と言ってしまったのを覚えている。
 この曲だけ底抜けに明るくポップで、セットリストに入れづらいのもあって当時は嫌いな曲だった。しかし、この曲でRO JACKの最終選考に残ったので、セットリストの序盤にねじ込まれ続けることになる。
 微妙なハネが必要な8ビート。シンプルながらベースが意外と難しい。この頃にはリード的なベースライン作りも板についてきたのか、こなれているようにも思うが、当時はルートが多いことが退屈だと思っていた。今聴くと、ディレイをかけたりコーラスを踏んだりしつつルートは支えているので、攻守のバランスがしっかりしていると思う。ギターは普通。エフェクターでやれることが増えてからはさまざまなニュアンスが出せるようになっており、音源よりだいぶ豊かな印象。ドラムはずっと同じで第2期ドラマーも第3期ドラマーのマレもニュアンスに苦労していたなと思う。ライブのイントロとアウトロのアレンジは好きなので、YouTubeにあるライブ映像もしくはラストライブで確認してほしい。
 歌詞はなんとなくスピッツ「青い車」に対する考察で言われがちな話題(人殺しの話? と勘ぐりたくなるような内容)を想起させる。この曲の歌詞の考察をbutohesのミチロウとしたことがある。そういえば彼は対バンした際、soda girlを聴いて泣いたとMCで話していた。
 manentの歌詞は、ある特定の感情を物語化して描写を重ねていくスタイルだと思っている。前作から「罪の意識」のようなものは通底してあるのではないか。
 そういえば歌詞に関しては、RO JACKで講評をもらう時間(今思うと気持ち悪い気がする)にロッキン編集長から「物語性が強いわけではない(BUMPなどに比べて)」みたいなことを言われて腹が立ったことを覚えている。ビクターの人にはなんかの大会でこの曲を外したセットリストにしたら、「もっとポップな曲があったかと思いますのでそれを演奏したほうがよかったかと思います」とコメントシートに書いてあった。「どっちつかず・地に足つかず」はmanentの最大の特徴だと思っている。まあ、演奏技術の拙さによるところもあったので胸を張るようなことではない。
 第2期のラストライブとなった自主企画「L」では、Chaton on the Noteがこの曲をカバーしてくれた。ノベンバのニュアンスなどを足したアレンジで、4人での演奏をみて、本来はこういう曲だったのかも、と錯覚した。

●6.予感(『宇宙の中で手をふって』ver.)

 第2期に入ってから、構成が大幅に変更された。最後のC以外AとBしかなくて説明しにくいがサビ扱いになっていた部分を大幅カットし、ギターソロパート+Aを追加。この箇所はベースラインも当時はなるべく歌うようなニュアンスを意識した。
 増えたAでは、活動当初より少し無理が効くようになったので、ベースでアルペジオを弾いている。じつはルートだけいうとここだけ変わっている。
 完全に余談だがbutohesの1stEPまでは、この曲をはじめとして、manentで作ったベースラインを超えるものを生み出さなければならない、という義務感があった。
 この音源から自分がイメージしていた通り、ディレイをベースに使うようになった。フレーズに最初からディレイを想定していたのはこの曲くらいで、他の楽曲は元のフレーズに足すことで伸びや揺れを出す目的で使っている。ある意味ダブっぽいのかもしれない。僕の使っているアトリエのプレシジョンベースにコーラスとDD3をかけたこの音色は、偶然とはいえ僕が最初に見つけたいちばん綺麗な音だろう。これが二度と楽曲で鳴らせないのは、ちょっとだけ寂しいかもしれない。
 最初から最後までほぼ同じコードの繰り返しの曲ばかりなのに、この曲に関しては各セクションごとにアレンジが加えられており、ギターが付点ディレイを弾きながら歌う箇所や、ギターソロのパートがある意味EDMとかのドロップのようにも聴けることもあり、気がついたら電子音楽をバンドでやっているような雰囲気になっていた。スタジオで高畠が、予感のコードを弾きながらサカナクション「さよならはエモーション」が歌えてしまったと言っていたのはおもしろかった。
 これ以降、人力電子路線みたいな曲が一曲も生まれなかったのを考えると、アレンジでバンドマジックが起きた数少ない曲だったんだろうな、と思う。全編モノクロのMVも上がっている。大学の先輩に撮ってもらったものだが、僕は撮影にも参加していない。なんか色々あったらしい。
 ちなみに第3期、今になってミニマルテクノふくめ電子音楽に造詣が深いうえ自作もしているマレがドラマーになったことで明らかに曲の強度が上がっている。これに関しては「散弾が外れたら」「白い日」でも同様で、もし活動が続いていたら四つ打ちの楽曲だけで音源を作ったりできたかもしれないなあ。ありもしないワクワクできる未来を想像しているときが一番楽しい。安易な空想さえできなくなってしまうと、足も呼吸も止まる。

●7.水際の夢

 活動初期からあった曲を、やっとレコーディングした。ライブでこの曲をセトリから外したことは、おそらく1度もない。といっても初のライブのときこの曲はなかったような気がする。
 それまで届いていたデモにはあまり印象的なフレーズがなかったので、いきなりギターがリフを弾いているのに驚き、かなりグッときたのを覚えている。あとから散々運指練習みたいなフレーズだといじられることになる。このリフの譜面を使ったグッズを作ったら良さそうだなと思っていたが、実行しなかった。
『宇宙の中で手をふって』の各楽曲はベーシックは3人での一発録り。LINEを見返すとどうやら「水際の夢」はクリックを聞かなかったらしい。そんなわけなくないか? と思うので、そういうテイクもあったよという話かも。
 レコーディングが終わってラフミックスが上がってきたとき、僕らの演奏がおそらく緩かったからか、レミオロメン「粉雪」みたいな感じで出てきて、エンジニアさんにじつはこういう曲ではなくて……と説明した。エンジニアさんがいい人で「あ、違うの!?」みたいなリアクションをとって、笑いながら直してくれた。
 この曲だけ、ピックでベースを弾いている。manentの未音源化楽曲では数曲使っているのだが、すべて1、2回ライブで演奏して消えた。必要がないから練習をしないせいで、本当にピック弾きができない。3ピースで、ギターが前面に出ているうえ、曲が長いからわかりづらいが、結構ART-SCHOOLっぽい曲なのかなと思う(ART-SCHOOL自体が「っぽさ」の塊だという話は、横に置いておいて)。最後のサビの2回しめでギターをハイポジションに変更してほしいと提案して、やってみたらかなりエモーショナルな感じになってよかったなと思っている。同じコードのループをどう盛り上げていくのか、という面とはずっと向き合っていたバンドだった気がする。
 歌詞に「かくれんぼ」が出てくる。このモチーフに込められるニュアンスは豊富だ。「もういいよ」も同音異義的に使える。音源化されていない曲含め、ほかにもかくれんぼが出てくる曲はあった。結局高畠翔を「みいつけた」なんて思えたことは、ただの一度もなかった。

●8.白い日

 名曲。この曲でMVを撮ってもらって、本当に良かった。
 撮影は千葉の内房の海で、僕も含め第2期メンバーが全員映っている。日本のウユニ塩湖みたいな触れ込みが有名で、おそらく使われず放置された電柱と電線が残っている場所。かなり多くのアーティストがジャケ写なりMVなりで使用しているエリアだ。本当は入ってはいけない場所を歩いているシーンががっつり採用されているので、内心怒られないか心配だった。
 ちなみにこの曲をリードトラックに選んだ理由は、シンプルに録音を終えて通して聴いたとき、メンバーが満場一致で一番いいと感じたからだ。レコーディングを経て、ようやくその曲の真価がわかるというか、「こういう曲だったのか」と理解することってあるんだな、と驚いた。
 完全にART-SCHOOL系統の曲ではあると思うのだが、今聴き直してみるとバッキングとベースがルートを抑えている以上、4ピースバンドではこういうルートから全部鳴らすアルペジオをあまりしない(ほうがいい)ので、別物に思える。いや、でも似た曲があった気がする。
 ベースはどこで動かしたらいいんだ、と迷い続けてサビ以外はルートのみで、ところどころエフェクトをかけて色を変えている。「機械のように振る舞うこともできず」の歌詞の通り、リズム隊は機械のように振る舞ったうえで、ちゃんとできていないところがいい。間奏の和音は思い切り不協和音だったと、指摘されるまで気づいていなかったのは、コーラスを使っていたとはいえ結構恥ずかしい。余談だが、butohes「eephus」などでサビのメロが消えたタイミングで高域に移動させる手法はここで思いついたのか、と今更思い出した。
 歌詞の描写に磨きがかかっている。「魂がほしい/どんなものでもいい」というフレーズに、そんなんだからダメなんだろ、と反感を持っていた時期が確かにあった。だが、一応2歳離れているので、だんだんその実感はわかるようになっていって、今現在は図星すぎてやめてくれ! と叫んで失踪したくなるほどリアルに思える。「天才だった頃」なんて、ただの一瞬もなかったのだ、と思い知らされる日々を生きている今のほうが、曲をしっかり表現し切れるのかもしれない。マレのドラミングがすごくぴったりな曲なので、演奏するたびに、もう少し継続的に活動できていればな、とちょっともったいないような気分になる。

◆2017年秋頃〜2018年まで

 2017年の後半、演奏自体は苦しいままだったものの、ときどきライブをやってよかったなと思える日があった。ヒソミネのイベントではMYXAというバンドと出会って感動し、リハで高畠が弦を切ったところすぐに共演者のおじさんが弦をくれて張り直し、結果すごくいいライブができた。
 12月から『宇宙の中で手をふって』のCDを売り始めた。ただただwordで無理やり作った包装紙で手焼きCDを包んだだけのものだ。用紙の内側に歌詞をびっしり入れている。これ自体はいつだか残響SHOPで買った明後日というバンドのデモCDを参考にした。「白い日」のMV撮影も年末だった。
 2017年最後のライブはフルーというバンドの自主企画。奇跡的に、当時は有名とかではなかった(気がする)某君島さんと対バンしていたらしいが、出演順の関係で全然ちゃんと観られなかった。あとちゃんとダメ出しというか、ピンとこなかったみたいなことを共演者から言われた数少ないライブのうちのひとつとして記憶している。
 プールと銃口と対バンしたとき、いまやレーベル所属バンドで叩いている高畠の幼なじみドラマーさんから「ちゃんとしろ」と言われたのと、下手くそなリズム隊にダメ出しをしつつ某ライブハウスの店長が「おれは車のウィンカーの音を聴いて気持ち悪くなって吐くまで徹底的にクリック練習をした」というエピソードを話したことは、いまだに脳裏にこびりついている。最近もリズムが弱いと陰でライブハウスの人から怒られていたらしいので、成長が見られないのはどうやら精神面だけではないようだ。
 2018年に入る。おそらくライブ1本目が神楽音で、はじめてブッキングイベントのトリを任された。ものすごく嬉しかったのだが、蓋を開けてみれば近年稀に見る都内大雪の日だった。出演者は自分の演奏を終えると1組また1組とライブハウスを去っていく。ライブハウス自体もあんまり前身バンドの話とかされたくないと思うので言わないが、ここ1年でものすごく有名になった方がやっていたバンドも出演していた。
 この年というかこの年度、リズム隊は大学4年で就活の年。高畠は卒業後も映画館でのバイトを続けていた。ようやくいいイベント、広めのライブハウスにも呼ばれるようになった。冬のRO JACKに入賞。RO JACKは12月のグランプリ発表イベントに向けて7月から毎月入賞アーティストを解禁していく方式をとっており、最初に受賞が発表された。そういえば、バンド紹介の一言のようなところに「海へ還ろう。」とだけ書いてあって、読んだ瞬間ギョッとしたのを思い出した。応募のための書類関係は全て高畠が一人で進めていたので、確認できず進んだ結果よくわからない状況に陥ることが多々あった。
 受賞自体はたしか、他の賞レースのライブ前後に判明した。以降は好待遇、とはいえないが、数合わせだとしてもおもしろいイベントに呼んでもらえるようになった。相変わらずトップバッターやらが多く、一生友達もできない。ただノクターンやChaton on the Noteに関しては同じイベントに呼ばれることが増え、仲良くなった気がする。いまや売れっ子のくだらない1日と3回くらい対バンした(逆にこの頃からずっと続けたから、今があるということだ)。ゲスバンドと2回対バンしたがトッパーとトリ、平日ブッキングだったので誰にも認知されなかったと思う。
 活動全体を通して振り返ると、数合わせで場違いなブッキングに無理やり出ていたので、99%のバンドが1回限りの共演で終わっている。これに関してはちゃんと選べなかった自分たちも悪い。
 5月、初めてShelterに出た。これ以降、butohesでも出演していない。the Stillと共演しているし、トリだったレイラはいまも邦ロック最前線らへんにいる感じがする。この日は大学の友人などがたくさん観にきてくれたのは覚えているが、どんなライブだったかとか、内装とか、ほぼ思い出せない。演奏後に外に出たら先輩や友達が待ち受けていた。そういえば昼ライブだった。
 この日の夜、僕が個人的に愛聴(といっても毎回聴いていたわけではない)していたラジオ番組のメインパーソナリティーといきものがかりの水野良樹さんがmcで新人バンドの音源を流すコーナーがあり、「白い日」がオンエアされた。リアルタイムでmanentのアカウントを動かし、ラジオに対してコメントし、高畠の読み方を訂正した覚えがある。
 6月、サーキットイベントの出演権をめぐって演奏する日にライブをした。たしか、そもそも取り置きさえなかったので投票制ので勝てるわけがなかった。ライブハウスの人と、イベント運営をしている人たちに「これくらいの演奏できて私たちが知らないのはおかしい」(発言ママ)「SNSが下手くそなのだ」(発言ママ)みたいなことを言われる。
 6月末には新宿MARZのブッキングにも出られた。ひどく緊張したことと、uremaやDALLJUB STEP CLUBのポスターがトイレにあってテンションが上がったこと、ジオラマラジオがかっこよかったことは覚えている。
 7月から8月にかけて、前年出演した大会に再びエントリーした。スタジオ予選で優勝して、決勝大会の会場は下北沢GARDENだった。高校生バンドに混じってsoda girlだけを演奏した。そのときゲストバンドでステレオガールが出ており、自分より全然若いことはもちろん、立ち居振る舞い含めた雰囲気、楽曲のクオリティに心をズタズタにされた。「ひとごろし」という名曲を目の前で演奏された瞬間、完全に自意識を殺された。勝てない、と思った。
 ちなみに、決勝2年目だったのに準グランプリ止まりだった。結局、高校生バンドにしっかり敗北している。スタジオ予選は南無阿部陀仏が2年連続出ていたし、決勝大会にはいまやJ-WAVEでも流れるし、(残念ながら終わってしまったが)フジテレビのLOVE MUSICにも出たリュックと添い寝ごはんも出ていた。いずれも当時高校生。
 練馬区近辺の軽音部バンド青田買いエリアで、とっくに青がくすんだ年齢のおじさんたちが上位につけたところで、レーベルからオファーが来るはずもなかった。思えば、周りで演奏されているオリジナル楽曲の雰囲気も、自分たちだけしっかり浮いていた気がする。若い子たちが好きな今の流行りとは逆。でも、これはどのイベントに出てもそうだった。上手さも速さも情報量の多さも、manentは当時のトレンドに対して、足りていなかった。もしかしたら、いまのほうが聴きやすいと感じる人口が増えているのではないだろうか。
 いろいろ思うところはあるが、前述のように、いいイベントに呼ばれるきっかけみたいなものはもらっていた。それに程度はどうあれ、2つの大会でなにかしら受賞・入賞するバンドは、珍しかったと思う。
 7月に『宇宙の中で手をふって』を配信開始したようだが、レコーディングからラグがありすぎだ。オーディションに使っている音源を配信に回すのはまずいかも、と思ったのかもしれない。活動期間中、音源の配信に対する意識がかなり希薄なバンドだった。余談だが、衝撃的なことに、僕はこのころまだ音楽配信のサブスク未対応の人間だった。それも手伝って、当時は配信の重要性を理解していなかった可能性が高い。
 10月、大塚で行われたサーキットイベントのONYOKUに出て、個性も実力もある様々なバンドを目撃した。のちにbutohesで共演するHighlightも出ていて一目惚れというか、音源を聴いて惚れて生で観たら音がデカすぎるポップスに心底感動した。メンバーみんなで観ていたと思う。このイベント全体で最も音が小さかったらしく、それが悔しかったからとかではないが、以降さらに音が大きくなったと思う。おそらく一番音がデカかったLOOPRIDERの人に高畠が話しかけ、オレンジ色のビッグマフを使っている情報を得て、後日購入していた。
 この日のオファーをくれたブッカーさんのおかげで、自主企画もHearts +で行えることになった。YURAGI LANDSの方々がライブ後に優しく接してくださり、あまり対バンの方が親身になってくれる機会もなかったため、すごく印象に残っている。
 12月、渋谷のduoでRO JACKグランプリ発表イベント。この年のRO JACKはライブ審査がなく、ネットでライブ映像を公開してジャッジするという例年の形式と違っていた。本当に音源審査のみ。そして「発表イベント」でさえ、演奏の機会がなかった。バンドメンバーとして出向くのに、楽器を背負わずにライブハウスに行った。名前を呼ばれてステージに上がるリハーサルをした。本番、背後のスクリーンにはsoda girlのライブ映像(本来MVを撮るべきなのに無かったため)が流れ、芸人っぽい司会の人からほんの少し質問があって、答えて下がるだけだった。
 全入賞アーティストの紹介が終わってから、ゲストバンドのライブコーナーとなり、the quiet roomとニトロデイが爆音で演奏するのを最前列の指定席(パイプ椅子)で、巨大アンプの真ん前で聴いた。特にニトロデイに関しては年下のバンドでしっかり売れていたので、彼らが堂々と演奏しているのを前にして、ただ入賞しただけのアーティスト含めて総勢50人はなにを思えというのだろう、と、やるせない気持ちが脳を渦巻き、イラついていた。
 スピーカーが目の前にある状態で、そこまで興味のない他人の爆音を聴くのは、思ったよりもしんどい。たまに声をかけてライブに来てもらう友人たちが、同じ気持ちだったらどうしよう、と今でも不安になる。
 そして、当たり前のように入賞を逃し、CDJにも出られず、年内の活動が終わった。イベント後、関係者からコメントをもらう時間がセッティングされていた。お客さんが帰ったフロアに、大量のケータリングが出てきた。お酒や、運動会で出てきたら嬉しいけど受賞を逃した人が目の前にしても全くテンションが上がらないお惣菜たち。それらを片手に、講評をもらいつつ、ほかのバンドとも交流を深めてくださいみたいな時間がきた。
 僕たちは某編集長と話すことになっていたので、会いに行った。ステージの前に立っていたと思う。「バンプみたいな世界観があるかと思ったらそこまででもない」「歌をもっとよくしなければ」、ベース特になし(本当になにも言われなかった)、「ドラマーは二人をいい意味で無視してマイペースに叩けていてそれがいいのかもしれない」。そんな感じのことを言われた。一応、応募曲が「soda girl」と「予感」だったので、それらに対する講評だったはず。業界人がいる空気もバンドマンが浮き足立っている様子も気持ち悪く、鼓膜がやられていたのも相まって機嫌が悪かったので、「バンプ嫌いなんすよね」とか言ったような気がする。それに対して、「いやもっと色々ちゃんと音楽を聴いたほうがいいよ」と語気強めに返されたはずだ。とても正しい指摘だった。
 自分たちに実力が足りていなかったというのは大前提として、もし楽曲だけで評価されるのであれば、ファンなんてだれもいないけど、CDJでも演奏できるのではないか。そんな都合のいい妄想は確かにしていた。高いステージの上から演奏するイメージをしながらシャワーを浴びた日のことをなぜかまだ覚えている。だから落ち込むというよりは、シンプルに虚かった。
 審査基準はよくわからない。音源審査だけなのか、他の大会の受賞歴を加味してのツテコネ推薦が知らないうちにあったのか。お忍びで特派員(?)がライブを観にきていたのか。売り物として見たとしても、自分たちの曲は良いものなのだ、ということだけは信じられた。
 でも、もしもこんな変なミラクルがなかったら、もっとマイペースに音楽を続けて、たくさん曲を出せたかもしれない、と心のどこかで思っている自分もいる。ただし、これに関してはかなり希望的観測で、そういう活動方針になっていたら僕は(メンバーのペースに合わせるのが苦痛だったり、作ったところで誰が聴くのかという不安だったり、当時は自分だけの創作をできていたのもあり)脱退していただろうなとも思う。
 バンドとは本来、目的でも手段でもなく、ただ集まって演奏する時間を指していると思う。そんな当たり前のことを、当時は完全に忘れていた。


◆「done/はなして」、第2期の終わり

 年が明けて2019年からは、ノクターン、prewords、向こう側など、いくつかのバンドの自主企画(ツアーも含む)に呼んでもらえて、ここでの縁はいまだに残っている。年明けとはいえ、多少は講義が残っている時期だった気がするが、ドラマーが実家(静岡)に帰ったので、スタジオの予定などの調整が奇妙な感じになった。ライブと講義のあるタイミングで東京に出てきて、友人宅に泊まってやり過ごしていたらしい。ぼくは細々と就活し、全てでお祈りをいただき、ほとんど御神体になっていた。
 2月23日に「done/はなして」レコーディングがあった。最寄り駅にウルトラマンがいるスタジオの深夜パック。一発録りして、ダビングして、ミックスをして終了。録音で時間がかかりすぎてミックスを急いでやってもらった。結局、後日改めて時間を設けてもらった気もする。歌詞カードやリファレンス音源などの準備を全くして行かなかったせいで、かなり空気は悪かった。ほぼすべての事務的なやりとりが高畠個人のアドレスで行われていて僕は見られなかったので、必要だというのも聞いていなかった。たまたま手元にあったボアズとかuremaなどのiPodに入れてあった曲を流したらそっちに寄せた音源に近い感じになった、のだろう(実際にはそうでもない)。 
 大学生だというのに、とにかく深夜の行動、徹夜作業が苦手だったので結構しんどかった覚えがある。始発前にスタジオを出て、全身に寝不足由来の痺れやだるさを感じながら、なか卯かなんかで始発までの時間をやり過ごしていた気がする。
 そして、自主企画に間に合わせるために、時間がないなかで並行してジャケの撮影(元々はイラストになる予定だった)、手焼きのCD、印刷所で刷りたてのパッケージを手折りして糊付けして、まっさらな盤面に手書きで文字を入れて、自主企画に間に合わせた。間に合いこそしたが金銭関係で僕が知らないことが多々起こっていて、ただ一方的に高畠とデザイナーにキレる事案が発生したりもした。契約書とまではいかないが、一応仕事なのだから納期や金銭関係については事前に詰めて確認しておくべきだ(その後も、いろいろあった)。
 3月15日、manent初の自主企画「L」を開催。Chaton on the Note、kasa.、向こう側という3バンドを呼んだ。「最後」との語呂合わせというわけではない。「なんでLなの?」と聞いたら、「それぞれ考えてほしい、それに意味がある」という返しに笑ってしまった。「Last」のエルじゃなくてよかった。同じ軽音サークルの友人たちがやっていたSUPER BIKINI JOHNNYS(数年ぶりに思い出したけれど、どんなバンド名だよ)は1年前の同じ日に解散していたし、フラグは立っていた。最高か、最後か。
 全バンド、リリースパーティーという触れ込みですらない1番どのただの自主企画なのに、全力で演奏してくれたのでとてもいい日だった。その日のレポートは過去の自分がイキリ散らかしながらnoteに書き残してあるが、誰も読まないでください。
 計9曲、1時間近く演奏したが、1曲あたりの尺が長く繰り返しが多いからか、あっという間に終わった(論理的ではないか、でもこの感覚は最近より強まっている。短い曲が多い方が相対的に長く感じる)。就活を完全に諦めて自主企画に専念したため、自分の心身・未来ともに素寒貧状態だった。この日に初めて観に来た人は褒めてくれたが、何回か来てくれた人はあまり音が良くなかったと言っていた。曲と音の良さだけしか取り柄がないバンドだったのに。本当に哀しい話だが、たくさん人が入った状態でのライブに慣れていなかったのだ。
 そして、この日で第2期のドラマーが脱退した。折に触れて言っているが、結構僕のせいだったと思っている。脱退の理由は、熱量の差でたびたび揉めたのと、普通に僕が負荷をかけすぎたから、だと思われる。今もほとんど精神的に成長できておらず似たような思考回路のままだが、それでもLINEの履歴などを見返すと、さすがに酷すぎて悪寒がした。第2期manentは、メンバー全員LINE上で意見を言い合うことがあった。その火種を投げ込んでいたのはいつも自分だった。
 なにはともあれ、こうして実質「manent」の活動として公に認識されており、事実上の実績を残した期間である第2期が終了した。
 たった2年と少し。大学生活の大半を注いだからか、ひどく長い時間に思える。この時代の(いや、現在も)「バンドマン」は月に5本6本もライブするのが普通で、義理と人情(ルビ:ツテとコネ)が主体だったなか、第1期からここまで、ただの一度も金銭的にプラスになるような動きもできず、だからといって音楽のために人生を犠牲にもせず、ただ時間があるときに動いていただけ。道楽バンドだと思われていたとしても、強く否定できない状態だったかもしれない。ただし高畠自身はフリーターになって身を削っていただろうし、就活やら卒業制作やらで、心はメンバーそれぞれすり減らしていたはずだ。そうでなければ、脱退や休止は起こらない。

●9.done

 突然こんな暗い曲が送られてきて、驚きと同時に高畠、大丈夫か? と心配にもなった。絶望感やどん詰まり感を表現するアート自体は好きで、それなりに見聞きしてきたと思ったが、いざ、鴨居玲の絵のような、何層も何層も血を重ねて塗り固めたような表現に対して、どんなベースをつければいいのかよくわからなかった。ただルートを弾くだけでは芸がないし嫌だ、と最終的にはアルペジオと和音を多用し、リードベースをつけた。ほとんどuremaの影響だ。
 レコーディング中に突然高畠が「ハァ…ハァ…」みたいな息をレコーディングしはじめてなにやってんだこいつ、と仰天した。それが音源に入り、ちょっとしたビートっぽいシークエンスになったのがかなりおもしろい。歪んだギターの重なりが、なぜか地獄のコーラス隊が入っているようにも聴こえて、変な壮大さがあるのもちょっと笑える。極めつけは最後の怖いコーラスライン、これもレコーディングで急に増えた。
 前半でドラムが入らないのと、1本のギターから出るには大きすぎるうえ次第に輪郭がわかりづらくなる音。しかも3拍子なので、音に呑まれてしまうと自分がどこを弾いているのかわからなくなることがなんどもあった。ヒステリックな音に包み込まれすぎると、叫びたくなる。この曲もしくは水際の夢の演奏終わりでアンプに向かって叫び声をあげたことがあったはずだが、持ち前の声の低さと声量のなさで、口を開けて喉を枯らし、自主的に風邪をひきやすい体を作る謎の存在になっただけだった。再開後、なんどやってもなかなかリードフレーズの運指が思い出せず、音に飲まれる感覚も数年前と変わらずで、かなり苦しんだ。本番でミスしても、この曲に関しては気にしないことにしている。この曲のギターの音には聴く者のもつ狂気を増幅する作用がある。
 そういえば、SoundCloudに「done(bedroom)」という、アンビエントバージョンみたいな音源が上がっている。こちらは昔の歌詞のままで、「世界中を敵に回しても君だけを愛したかった」と終盤に出てくるので、ご存じなかった方は驚くかもしれない。

●10.はなして

 前述の通り、というにはかなり空いてしまったけれど、最初の音源からのリメイク版。第2期ドラマーは、『海へ.ep.』の頃の感じが好きだと言っていた。「どうせやるなら短くしたいな」と高畠が呟いていたので勝手に編曲することにした。新宿の高層ビルの上のほうで、採点のアルバイト(限られた3つのキーしか押さず8時間くらい拘束され、○×だけつけていく作業)のとき、脳内で編曲の妄想をしていた記憶がある。
 大学生にしてDAWなし、自分専用のパソコンもなしで生きていたので、家族共用のデスクトップPCでダウンロードしていたTux Guitarに全パートを打ち込む形で完成させた。各フレーズ各々のやりやすいように変更しているところはあるが、基本的にデモ通りで完成している。当初、2分ジャストくらいにしたいと要望があったので、アウトロのギターソロの箇所はなかった。最後のほうのスタジオで、ここでマレに叩きまくってほしいと伝えたので、どうなるか楽しみだ。
 直前までレコーディングすると決まっていなかったはずで、おそらく正月の休みとかまでの数ヶ月かけて作ったのではないかと思うが、そのデータのあったパソコンが壊れかけていたのをサルベージして、そのデータを入れたハードディスクが家のどこにあるかわからないので確認できない。
 おそらく、この頃すでにドラマーが実家メインだったのもあり、ほとんどスタジオで合わせないまま、アレンジだけ決まっていたのでドラムは練習しておいてくれと言ってレコーディングに臨んだ気がする。ギターとベースはレコーディングの時間短縮のためということでトイプラザ松田さんにお願いしてプリプロを兼ねた録音をしたのだが、書き出す形式が違って使えなかったため、当日その音源なしで一発録りすることになった。
 歌詞に関しては、当たり前のように大きく変更があった。主題も少し変わったように読めるが、「話して/放して」のニュアンスをより強めるような言葉選びに変わった。「レモンの果実がはじける前に出会えればよかった」というフレーズは完全に暗喩というか、含まれうる意味の幅の広さに(悔しさで)膝を(拳骨で)打たざるを得ない。「真夏の雨はいつも突然にやってくるから傘を持たない僕らはその度に濡れてばかりだった」という箇所は、散文的に書かれているけど、短歌でいうところの「切れ」がしっかりと働いていて、傘がないことで事実が比喩になり、比喩が事実になる感じがすごい。そのあとに結局「そんな言い訳ばっか」って言っちゃうあたりのバランス感が、高畠印だ。
 ベースは初めに作った頃よりもさらに全身全霊を込めており、各セクションに無理やり技をねじ込んでいるため、常に忙しい。一瞬も気を抜けないし、気を抜いていなくても間違える。解散に向けて練習で弾いていると、難しすぎて苦痛しか感じない。アドレナリンが出ているときしか弾ききれないような、棒立ちでノープレッシャーでないと弾けないような……。
 ドラムは打ち込み通りといえば打ち込み通りだが、マレがものすごくドラムロールがうまいのもあり、異様にドライブ感が増した。最後のほうの練習で、もっと叩きまくっていいと伝えたらアウトロで素晴らしい畳み掛けをしてくれた。
 正直、この曲があれば、めちゃくちゃたくさんの人に聴かれて、世界も変わると思っていた。それに見合うアレンジをして、ベースを弾いた。「どこだって 行けるような気がしていた/だけだった」という具合だ。音源が出たくらいでは、話題にならない。初速でどこまで伸びるかの勝負なら、プレイリストに入るかどうかで決まってしまうから、いい曲かどうかはもはや関係ない(それぞれの配信先の中での優先順位は曲の良さや知名度によるが)。もっとも、「はなして」が心に残った人がいるのであれば、ほんとうに嬉しい。アレンジを頑張ったから。
 余談だが、「done/はなして」も、他の音源同様、僕が気づかないうちに出ていたようだ。告知など、ちゃんとしようとしてもうまくできなかったり、手続きをした張本人が忘れていたりするバンド。まったくおなじことがラストシングル配信時にも起こったくらいなので、manentは生まれながらにして商業的な動きが向いていない人間の集まりだったことがわかる。

◆第3期の始まりと、「Waterlights/散弾が外れたら」

 2019年。僕は3ヶ月ほどで無職を脱したものの、労働に不慣れすぎて右も左もわからず、死ぬほど忙しかった気がする。上司に心の病気を疑われるくらい不注意によるミスを起こしたり、会社まで歩く道で毎朝吐きそうになったり、職場で流れるラジオから自分と同世代くらいのミュージシャンの楽曲が流れれば必要以上にヒステリックになったりした。でも仕事の内容については、まったく記憶がない。なんとなくやり過ごして5年目になる。入社と同時期からbutohesは動き始めた。それだけが心の支えだった。
 FRIENDSHIP.のサービスが始まったので高畠に知らせ、「done/はなして」の音源を送ったが、普通に審査で落ちた。落ちるもなにも、不採用ならメールは届かない。
 停滞している現状に焦ってリアレンジの案やデモを送ったが、その後の活動には繋がらなかった(そのくらいクオリティが低かった)。
 7月、マレに「manentのサポート、やってみたいと思う?」(原文ママ)とLINEしている。もっと言い方なかったのか。でも活動の目処が立たないから声をかけただけで、スタジオには入らなかった。ちなみにマレとは、僕が友人のバンドのサポートでライブに出たときに出会った。O-nestのブッキングライブに出たときにはその友人と2人で観に来てくれて、「モグワイぐらい音デカかった」と言っていた。大学卒業までで出会った人の中で一番音楽と映画に詳しい気がする。ほぼ毎年フジロックやサマソニにも行っている音楽フリークであり、映画フリークでもある。
 2020年、コロナウイルスの流行。3月に入って、7月開催のライブの誘いが来ていたが、状況は次第に悪化していき、イベント自体がなくなった。高畠から5月末に「EP作りたい」とLINEがきていた。結局、なぜ作らなかったのだろう。
 6月、マレとの初スタジオ。池袋ペンタがホームになった。7月、コロナ禍なりにできることを考えた結果、スタジオ(ペンタではなくノア)から演奏を配信してみた。いつもカメラを回してくれていた石川くんにオペレーターとして入ってもらった。ある程度配信周りを理解している人がいても、リハなしで突然普通のスタジオで配信をするのは難しかった。
 一応、第3期の初ライブになる。合計何人がみたのかもわからないが、SNSで数名が反応してくれた。ちなみにこの日の帰りにノリで新しいアー写を撮ってもらった。
 高畠からいくつかデモが届いていた。擬似ドラムンベースというか、同期ありきみたいな曲については、魅力的ではあったし、突然デモのレベルが上がって驚いたものの、人力しか手段のない自分たちには無理そうだなと思い、合わせもしないで消えた。あとメロディーもあんまり良くなかった。ノベンバのアルバムがそういうバッキバキのプログラミングを入れていた時期でもあった。かなり長いバラードも来ていたが、合わせなかった。
 9月、NEPOに出演。この時期までには、それぞれのライブハウスが工夫しながら配信ライブを始めていて、感染防止のために体温チェックや消毒やボーカルマイクなどにアクリル板をつけてフロアと遮断するなど、あらゆる対策を施されていた。NEPOの場合、そんな空間に照射されるVJが乱反射しており、『ブレードランナー』的な雰囲気があった。SFアニメとかで空中にスクリーンがたくさん出てくるあの感じもあった。
 この曲は、この日限りの演奏だったが、かなり大失敗だった。ライブハウスでの演奏は本当に久々で、気負いすぎたのかもしれない。また声をかけますと言ってくれた憧れのベーシスト兼当時の店長からの「また」はなかった。ひどいライブだったのに、復活したこと自体を祝ってくれるバンドマンの知り合いや、初めてライブを観た人からの肯定的な感想もあった。
 10月、「Waterlights/散弾が外れたら」のレコーディング。butohesのギターボーカルでエンジニアでもあるミチロウにお願いした。いままでのmanentのレコーディングは、技術不足はもちろんエンジニアさんとのコミュニケーションがうまくいかなかったりちょっと怒らせたり、というようなことばかりだったので、今回は友人だということもあって比較的スムーズに取り組めた気がする。butohesのレコーディングも経験したため、前より勝手がわかったのもあって気楽に取り組めた。ギターの音へのこだわりが異常な二人なので、きっと色々試したのだと思うが、リズム録りが終わったあとはちゃんと見ていなかった(あとでちょっと怒られた気がする)。マレが疲れて寝ていて、かと思えば自分でジャンパーの中にこもって暗室を作り出し、スマホで映画を観ていた。マレの個性、インプット過多。
 11月くらいからジャケの依頼を瀬戸さんにして、外回りは動きつつ、ことごとく音源は審査に落ち、もともとの配信先から出すことになった。このころの自分が送ったLINEもめちゃくちゃ感じが悪かった。色々調べていたら、2020年は僕以外無職だった期間があったようで衝撃だった。
 2021年もギスギスは続く。ジャケ関連のやりとりで返事がはっきりしないなど、なかなか要領を得ない。思い返してみると、高畠は割と重要な連絡をしても音信不通になるパターンが異常に多かった。そのたび、心配こそすれどだんだん苛立ちが蓄積して、汚い言葉を選んで催促した。
 バンドとしての活動は完全に止まった。マレはbutohesでライブをするときてくれて、manentやりたいねーという話を毎回していた。manentがどうというより、せっかく合わせられるリズム隊がいるのになにもできないのはもったいないなあというのが個人的な意見だった。
 2022年4月、高畠がLINEから消滅。すぐには気がつかなかった。少し経ってから、軽音部時代に使っていたアドレスを思い出し、連絡してみたらちゃんと返事が来た。それ以来、メールでのやりとりである。科学技術が一歩後退した状態でやりとりを続けるしかないのは結構な苦痛だったが、おもしろい。

◆2023年(解散までの日々)

 2023年1月14日、突然高畠が「manentの今後について相談がある」とメールしてきた。土日どちらかはbutohesの練習などで他のことが全くできないので、オンラインで打ち合わせ、ということになった。
 相談がある、とだけ書いてその詳細を一切書いていないので、ネガティブなこと、つまり解散だろうと予想しつつも、どういう切り口で話し始めるのか、妄想癖を全開にして考えていた。
 前向きなパターンだとすれば活動再開、もしくは「このたび結婚することになりました」とか? 地方に転勤しますとか、録音してミックスまでやってもらっていた音源をようやく配信する気になったのかな、などとぐるぐる妄想した。
 翌日、変に気温が高くなったのにいつまでも日差しが見当たらない日曜日だった。ZOOMの画面に映る高畠のルックスは、ほとんど変わらない。知らないうちに引っ越していたようで背景の壁やカーテンはめっちゃ白で、すっきりしていた。なぜ背景を設定しないんだろう。生活の変化を露骨に感じて、ちょっと面食らってしまった。
 高畠は開口一番、「ちゃんと解散したい」と言った。「そっちか〜」と返した気がする。直接解散を伝えられたら、多少は抵抗感があるのではないか、と思ったものの、すんなり受け入れることができた自分に、かなり驚いていた。もうbutohesでの人生が長くなっていて、manentへの熱意がなかったのかといえばそうではない。恋人との別れ話でめちゃくちゃごねるタイプの人間だと思うので、なぜこんなにも抵抗感がないのか不思議だった。
「数年間、いろんな人と会って話すたびに、manentはどうするのか、みたいなことを聞かれつづけたけど、どうしようもなかった」というような話だった。「もう長い間ギター自体を触っていないし、音楽もあまり聴いていない。映画もあまり観ていない」とも言っていた。そういえば映画にも結構詳しかったな、と思い出した。最近一番食らったのはアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」と言っていた。意外とストレートな作品でちゃんと感動するタイプの人だったな、そういえば。
 じつは「解散するならちゃんとライブしたほうがいいと思います」と言ったのは僕だった。大体のことは感覚で、理由はちゃんとあって判断しているはずなのだが、言語化は相当後回しにする癖がある。でもその直感が間違っているとは全く思えない。見聞きして考えたものを総括しての結論だからだ。いや、論理的思考ができていない子供の言い訳か。
 振り返ってみると、全く関係のない場所で「バンドの活動休止はダサい、解散しろ」みたいな派閥の意見をなんどか耳にしていて、共感するけど同意できない、みたいなモヤモヤを抱えていた。解散するのはかっこいいことなのかと言われたら、別にそうでもないだろう。
 というか、最も多いのは自分たちのように、無言で止まり、SNSも更新せず、解散も休止も告知しないパターンだと思う。なにより、バンドは続いていること自体が奇跡だということをバンドをやりながら身をもって味わいつづけてきたから、理由は無数にあるだろうけど活休は聴く人に変な期待をさせてしまうので不誠実だ、みたいな意見は、わかるが、そのバンドがなければ楽曲は生まれないのだから、根本的にはメンバー意外がどう思うかはこれっぽっちも関係ない。人間、死ぬと宣言してちゃんと死んだら偉いというわけでもないし。
 そんな逆張りにさらに逆張りする形になるが、そもそもmanentは外部からの大きな流れのようなものがなければ成立しえなかったな、と思ったのも、ライブをしたいと思った大きな動機だった。しかもかなり俗っぽいオーディションやら大会やらによって発生した「流れ」のおかげで、たまたまいろんな人に聴かれたのだ。それから、せっかく生まれた楽曲にも失礼だ、というような気持ちは確実にあった。加えて、高畠はどうあれ、マレはきっとまだやりたいと思っているだろうし、僕自身もこのリズム隊でもう少しやってみたかった。manentきっかけでbutohesを聴いてくれた人で、いまだにつながりがある数人のことも脳裏に浮かんだ。
 結局、「解散するのはわかったからとりあえず数ヶ月ギター弾いたり、歌ったりしてみて、リハビリしてほしい」と伝えた。我ながら、高畠にプレッシャーや負荷をかけるのには慣れすぎているな、とも思った。とはいえ、心が追いつかないなら絶対にライブは無理だ。
「(せっかくいいメロディーが作れるのに)音楽作るのを辞めるのはもったいないから、次になにかをする可能性を作ってほしい」「もしデモとか作るなら手伝うから」という話もして、その日のZOOM会議は終わった。水を差すようだが、今は手伝おうとは思えていない。あまりネガティブに捉えないでほしいが、こうして振り返ってみてもこのバンドが終わってなお他の活動と並行してなにかをする能力や心の余裕、賢さが僕にはないというだけだ。
 このあと、manentに関する進捗は2ヶ月ほどなかった。何人かには、manentを解散することを伝えた。もう時間が空きすぎていて、残念という反応がほぼなく、お疲れさまと言われることが多かった。
 一応「リハビリしてみてライブできそうなら1ヶ月後くらいに連絡をください」と伝えていた。4月、しびれを切らした僕が「manentどうすんだー」とメールしたところ、「やりますか、ライブ」と返信があった。なんだその軽い返事は。と思ったけど、それくらいのほうがやりやすい。そして、マレも加わってZOOMで会議。改めて、自主企画で解散することを決めた。
 そこから、自分たちとつながりがあって、かつ今も活動しているバンドをいくつか思い浮かべて悩みつつ、ライブハウスを押さえるなどの指示を出したりして、はじめはbutohesの事務で手一杯だから全部は手伝いませんよと言ったものの、最終的にバンドや当日のタイムテーブルの調整と各バンドへのオファーと連絡、スタジオ予約などをやった。おい。
 Twitter(現X)の元々のアカウントには、登録したアドレスを使っていた端末を高畠が処分していたため、ログインできなくなっていた。最終的にインスタは高畠が、Twitterは僕が動かしていたので、更新時間も内容も少し違っていたと思う。
 6/17の20:30〜の2時間、池袋にて、もうかれこれ2年ぶりくらいのスタジオに入る。「散弾が外れたら」、「soda girl」、「水際の夢」、「はなして」を合わせた。普段、短くても3時間、長いと8時間スタジオ練習をするようになっていたので、2時間は一瞬だろうと思っていたが、意外と長かく感じた。数年ぶりに自分たちの曲を3人で演奏していると、なぜかずっとニヤニヤが収まらなかった。思い出し笑いと似ている。
 ただ、少なくとも第2期、楽しんでベースを弾けたのは自主企画の日くらいで、基本的に絶え間なく苦しかった(だからこそbutohesの初ライブがあまりに楽しく、嬉しく、ニヤニヤしてしまい、このバンドなら大丈夫だと思えた)。
 純粋に、この3人で音を出せたこと、そして思ったよりも演奏が成立していたことが、嬉しかったのかもしれない。脳内では、数年前の自分が作ったフレーズを必死に再現しようと、フル回転していた。そういえば、あのギターは、マレのビートは、自分のベースは、こんな音を鳴らすんだったな、と確認する。
 数曲合わせたあと、高畠から「butohesの人とスタジオに入っているみたい」と言われ、マレもなんとなく同意していた。それはおそらく僕はmanentのない間にちゃんとバンドでライブをしていたから、その差を言いたかったのだろうが、わずかながら確実に、断絶が存在しているのだと思い知った。マレの場合は、フロアからbutohesを観ていた時間のほうが長いので仕方ないだろう。以降のスタジオでの練習は、この溝を音で埋めていく作業だったのだろう。
 なんども言うが、本当にmanentのベースは難しい。難しくしてある。自分が極度の怠け者でベースのコピーをしないため、発想するベースラインをなるべく難しくして、それを弾けるようになれば上手くなるだろうという設定で考えていたから、というのはひとつの理由だ。楽曲に対するリード不足を補わないといけないという義務感もあった。「いいフレーズだと思った場合、それが手に負荷がかかればかかるほど良いもの」という謎の持論に基づいて、無理をしすぎていた。 
 butohesではもう5弦のジャズベースに替えていたのもあり、10年近く愛用してきた4弦プレシジョンベースだというのに手に馴染まず、こんなに弾きにくい楽器でずっと演奏していたら上手くなるものもならないだろう、とイライラすることも多かった。これを書いている現在、流石に慣れて、5弦より操りやすい部分があるとわかっている。弦は少ないほうが楽だ。単体の音でいえば、こちらのほうがわかりやすくて好きだ。
 変な高揚感とともに、あっという間とはいえ物凄い情報量と疲労でスタジオを出た。butohesが(僕がスケジュールを組んだとはいえ)2ndEPリリース後から信じられないくらいの頻度で自主企画を打っていたせいもあって、8月くらいまでは月1回程度になりそうだったが、実際にはもう少し多めに入った。butohes関西ツアーの数日前も入った。というのも、マレは土日休みの仕事ではなく、労働後にわざわざ池袋まで来てくれていたのだが、20時には間に合わない確率が高かったので、22:30くらいまで2時間練習して僕は23時頃の終電で帰るというのが、お決まりのパターンになった。
 1曲1曲を振り返って、自分たちの曲だったことを体に思い出させる。でも場数があったからか、リズム隊は案外すんなりと形ができていった。高畠は、ギターボーカルとしてのブランクは間違いなくあった。1回目のスタジオでうまく音が出てこない感じがあったため、そのあとでG&Lのストラトを売って新しいストラトを買いたいとメールが来た。クリーム色のG&Lストラトは、正直トレードマークみたいなところがあったし、あのギターでしか出ない音があったので売らないでほしかったのだが、売ったうえで新しくブラッドオレンジみたいな色味のストラトを購入した。じつはG &Lのストラトも、ある日突然買い替えてスタジオに持ってきた。元々は黒いストラトだった。そして、新しいストラトになってからは、それ以前はレコーディング以外JC一筋だったのに、ツインリバーブを使うようになった。
 manentの音が出なくなるのではないかという懸念は、結局喜憂に終わる。大きく出音に変化がなかったので、音作りのセンス(もしくは耳?)の良さと、ピッキングが高畠のギターの音を形作っていたのだ、とわかった。
 練習に入るたび、少しずつピースはハマり、逆にリズム隊はニュアンスの得意不得意がどんどん如実に現れるようになった。
 特にマレにとっては「soda girl」の難曲具合は尋常ではなかったようで、最後の最後のスタジオまで苦労させられていた。音源でのBPMは指標でしかなく、最適解でもない(本来、その辺まで詰めてレコーディングするもんだろと言われたら、ぐうの音も出ない)。セクションごとでもBPMは変わるものだし、同期やBPM固定のディレイフレーズがあるわけでもないので、速度の変化が許される楽曲しかない。だからこそ、曲ごとにあてがうほんの少しのニュアンス、メンタルが違うだけで、気持ちのいい流れが掴めなくなる。
 manentのベースは土台だけでなくリードも弾いているから、同じように弾かなくても全部正解にできて、のびのびと演奏できた。年々、本来音楽をやる上では基本とはいえ、シビアな演奏を求められるようになっていて、心も手も疲れていた。なにをやっても許される時間があることで、いくらか心が救われたのは事実だ。そういう場がなくなるのは、じつは僕にとってはかなり痛手なのではないか、と今になって気づいた。いや、言い逃れできないところで上手くなるしかない。
 結局、スタジオは毎回、曲を合わせるとき以外は、だれかの発言に爆笑したり、仕事などの近況報告を交わしたりしながら、ただただ楽しく過ごした。そして、ライブができるのであればどうしてもやりたい、と僕が主張していた曲があり、今の3人でできるアレンジをして、披露することになった。

●11.Waterlights

 RO JACKが終わるから最後にもう1回応募してみてもいいのではないか、みたいな、結構俗っぽい理由で生まれた曲だったはずだ。友達と神奈川県の海に遊びに行って、砂浜で釘を踏んで正常に歩けなくなった日に、デモが届いた。これは数年ぶりにいい曲だな、と思った。
 当初からmanentはシューゲイザーみたいな触れ込みで紹介されることがあったが、綺麗な音をでかくしたいスリーピースのバンドであるという前提ありきであの音像だった。なので、今まで直接的にリファレンスに上がってきたことはほとんどなかったのだが、この曲に関してはPELICAN FANCLUB「Chilico」をイントロのイメージで提示してきた。それに、ドラムも考えようによってはMy Bloody Valentineの「You made me realize」っぽい。
 忌避してきたわけでもなかったが、露骨に轟音が参考音源になったのに対し、ベースはどう出るか、と考えた結果、こちらも露骨にポストパンクの名曲Joy Division「Love will tear us apart」のように、2弦は解放を鳴らしながら1弦でメロディーを弾く、というのを入れ込んでみた。デモにリードフレーズがなかったから、というだけでもある。
 レコーディングではベースにコーラスをかけたうえ、(ピックではなく)爪でガンガン弾きすぎたので、鉄を打ち付けるような音になった。偶然だが、最後に配信したシングル2曲のイントロでは、本来なら鳴らせる一番低いルートが鳴っていないことになる。
この曲が第3期manentとして作り上げる最初の曲だったことや、最後のRO JACK用になるのならば、とにかくハードなベースラインを捩じ込みまくって、曲に勢いをつけたかった。結果、ライブではちゃんと演奏できなかった。リファレンスというか、SuiseiNoboAzはリードベースを弾くときの憧れ。その憧れのベーシストの前でちゃんと弾けなかったのは一生の恥だと思う。
 突き抜けるような曲調に合わせてか、かなり肯定的に受け取れる言葉が目立つ。とはいえ、見るからに空元気というか、実情とだいぶ異なる感じがしたのが正直なところだ。こういう前向きな言葉を何回も唱えて、どんどん前に進むことで、嘘を本当にするのがロックバンドなのかもしれない。音楽はそういう意味ではプラシーボ効果なのかサブリミナル効果なのか、刷り込んで嘘を本当にする可能性がある。けれど、残念ながらmanentはそうあれないバンドだった。
 以上の要素を鑑みて、ラストライブでは演奏しないことになった。最後にシングルとして配信したのにやらないのか、好きだったのに、と言われると謝ることしかできない。
 プラス要素で締める。まず最後のドラムソロのような箇所は、手打ち込みのメチャクチャなフレーズを聴いたマレが、やるならこんな感じかなと人力に変換したものだが、デモより遥かにかっこよく、初めて合わせたとき度肝を抜かれた。ライブでも普通に叩けていた。
 そして歌詞も、バンドの状態と合っていたことは一度もなかったかもしれないが、「幻を信じてたいから」という部分だけは、心の底から共感する。
 リアリティのない現実でずっと不安で、でも幻に縋り、信じたいと願い、音楽を演奏していたのがmanentというバンドだったのかもしれない。

●12.散弾が外れたら

 正規の楽曲紹介はこれで最後になる。第2期、この曲がライブで演奏されるのを観たミチロウが「バンドマジック起きてる」と評してくれたり、the Stillのやさしささんがかなり好きで毎回反応してくれたりと、長くmanentを知っている人ほどピンとくる楽曲なのかもしれない。2017年にはスタジオで合わせた形跡があり、意外と古くから存在する曲だった。
 音源では、アウトロに知らないコーラスが増えた。そういえば第2期のとき、SOSの部分でドラムもコーラス的に歌っていた時期もあったな、と懐かしくなった。ギターも何本も重なっていると思うし、ちょっと豪華版という感じもする。レコーディングしてから掴めるようになったノリが確かにあって、活動終盤に向かうにつれて特にリズム隊の演奏のクオリティが上がっていった気がする。
 もともと、イントロの前に「ああ 雨だ/誰かが言った/それで 全て終わった」(表記未確認)という語りと共にコードをかき鳴らすパートのあと、本編に入っていた。このフレーズがないと楽曲の意味合いが変わるので入れてほしかったのだが音源には残らなかった。ただYouTubeにあるライブ映像には残っているので、ニヤニヤしながら確認してほしい。僕は今、やってきました。
 歌詞に出てこない「散弾」と、本来あったイントロの「雨」をちゃんと示さないと、楽曲の魅力というか描写の効果が半減すると思う。ちなみに、デモではそこの部分にAメロと同じギターのバッキングに、似たようなメロディーがついている部分がイントロの前に楽曲として入っていた。どんな経緯で現状の始まり方になったのかは忘れてしまった。あと、ART-SCHOOL 「ニーナの為に」の歌詞とメロディーを大胆にサンプリングしている。一人称を変えて引用するのは地味にテクニカルなのかもしれない。あと余計な話だが、イントロのギターと「散弾」という言葉も、身近なところにルーツがあるような、無いような(真偽不明なうえ、開示すると怒られるので、明言は避ける)。
 ベースはシンプルめだが、2番にあたる箇所からはむずかしく、第2期のときは一度も演奏が成立していなかった気がする。マレはこういうビートを正確に叩くのが得意なドラマーなので、そこに乗せる形で演奏するようになって無駄なゴーストノートを減らし、成立するようになった。イントロの和音はコーラスとディレイをかけて、爪を当てるようにして鳴らしている。ディレイタイムを「予感」から変更していないのに、返ってくる音がいい感じにフレーズになっている。ただ、音源や第3期のライブでは分かりづらくなっていて、BPMが変わった可能性がある。偶然とはいえディレイでたどり着いた境地のひとつだが、音域の問題で今後の音楽活動で使える日が来ないかもしれない。そもそもベースのやることではない。あとベースは4弦だけ半音下げだ。明らかに変なので他の弦も下げればよかったのに。
 本質的にはかなり絶望のニュアンスが強い楽曲だが、コードはそこまで暗くないため、歌詞を知らなければ爽やかだと思うかもしれない。ビートと一体化しているベースのギターの静と動のバランスが行間のように、本来の意味合いを増幅している感じもする。
 もう終わりだよ、と言われたら笑うしかない。「どこか遠くへ行きたい」とうわごとのように繰り返した果て、いびつな遭難信号を発して助けを求めているあたり、往生際が悪い。死ぬ手前で大切なことを思い出したのだろうか。僕たちは最後の演奏が終わる手前で、なにか大切なことを思い出したりするのだろうか。

●13.未音源化楽曲について

 ライブで結構披露したのに触れないで終わるのももったいないと思う曲があるのと、あとはいくつかある1回だけライブでやった曲など、どんな曲だったか覚えていれば書き残そうと思いますが、そもそも忘れている曲もありそうなので、あまり期待はしないでください。
 あと、昔は好きなバンドの未発表曲がどんな感じだったか、情報を漁って妄想することが楽しかったので、昔の自分が好きそうなことはやっておこうというだけです。読み飛ばすのが吉。


・或る日の夕暮れ

いきなりルール違反だが、正確には未音源化楽曲ではなく、おそらくGarageBandのピアノだけのインストで、SoundCloudに上がっている。入場SEとして使ったことがあったかなかったか。※追記:実はdemo音源として「no side」というものを配ってきた時期があり、そこに入っていた。たしか大学に施設を勝手に使ってとった「soda girl」「水際の夢」も入っていたはずだ。

・赤と青

  2016年の時点でボイスメモにスタジオ練習の記録が残っており、第1期からライブで披露していた比較的古い楽曲。Eggsにライブ音源、YouTubeにもライブ映像が残っている。ざっくりいうと、これぞNUMBER GIRL以降の邦ロック、という感じだろうか。一番速い。さらに第2期のドラマーが速かったので、BPM200くらいになっているときもあったかもしれない。
「僕は君に起こされた/さあ僕は誰を起こす」(表記など不明)という歌詞の印象が強い。シンプルで速いので、高校生が多いイベントに披露する機会などは結構喜ばれていた気がする。
 スタジオの店長主催の内輪イベントでこの曲を弾いていたら弦が切れたのを思い出した。ギターの、ではなくベースの弦である。スタジオのときに切れたことも確かあったと思うので、どれだけ錆びた弦のまま演奏していたかバレてしまう。この曲のベースはピック弾き。思い切り歪ませたり、ショートディレイをかけてみたり、いろいろ試した。この曲はレコーディングしておけば普通にリリースできたと思うので、もったいなかった。ただ、活動当時のスタンスと微妙にあっていなかった。
 完全に忘れていたが、リアレンジバージョンでメロディーをまるまる変えたものが届いていた。よくなってなくて却下したんだろうな。これも調べるまで忘れていたが、2016年の時点でボイスメモにスタジオ練習の記録が残っており、ライブで数回披露していた。
 第2期のドラマーはこの曲が好きだったので、毎回ではないがぶちかましたい日には入れていた。彼への餞として、第2期ラストライブでは最後に演奏した。第3期でまったく演奏しなかったのは、なんとなく前の3人の曲という印象が強かったからでもある。第3期でもやってみたら、案外おもしろかっただろうなと思う。

・見つけた

 解散当日のみ演奏される新曲。こういうところはSyrup16gイズムということにおいてほしい。元々「見つけた」というタイトルの曲があり、おそらく1回はライブで演奏している。どうやら第1期時点ですでに存在していたようだ。ちょっとだけGRAPEVINEの「風待ち」っぽくて、メロディーはmanentらしさがあった。「さあ 吹き消して/かき消して/今までもこれからも/愛してる/そう言えるさ」(表記など不明)というサビだった。
 メロディーと歌詞が好きで、バンド最後の演奏にぴったりだと思ったからやりたいと言ったのに、イントロとコード以外は構成も含めてほとんど変わったので、ちょっと笑ってしまった。高畠が「今歌うならこのメロディー」と言っていたので、仕方ない。アレンジの出来栄え含めて、これで才能が無くなったと判断するかどうかは、当日ライブに来た人次第だ。
 正真正銘、最後の新曲。正直、もう良い曲なのかどうかはわからないが、アレンジを3人でほぼゼロから考えるというのも久しぶりで、こんなに楽しかったっけ、こんな頭の使い方したっけ。ゼロから構築する感覚が数年なかったので、アレンジを提案して周りが試してくれるみたいな状況だけでもなぜか嬉しかった。
 ベースラインは正直ちゃんと決まっていない。なにも考えなくてもルートの指定があれば、手癖とはいえアドリブが効くようになったと気づいた。Syrup16gのキタダさんやPeople In The Boxの福井さんのように、ライブごとにフレーズやアプローチを変えている、と好意的に捉えることもできるが、アドリブでその場での正解を鳴らすのと、答えが見つかっていないのとでは大違いだ。言うまでもなく、僕は後者だ。
 歌詞を送ってくれ、と伝えたはずなのだが、送られてこない。確定していないだけかもしれない。なんとなく聴こえてきたワードを拾うと失恋っぽい内容なのか? そういえば編曲版でデモ作るって言ってたけど送られてこなかった。
 ミニマルテクノやR&Bとかが好きなマレだが、ドラマーとしては歌があるポップスに寄り添うのが意外と得意なタイプで、このスローバラードっぽい曲調も合う。ラストライブで演奏しなかったけれど、なんどかライブで披露した未音源化楽曲も、きっと良い方向に進化できたに違いないが、全曲長いのもそうだが、思った以上に1曲ごとに消耗してしまうので、時間も考えると8曲が限界だった。可能性がある曲でいえば、あと3曲(「赤と青」「おとしび」「Waterlights」)はあった。

・赤い風船

「あの赤い風船と同じなんだと」みたいな歌詞がサビ終わりにあったことくらいしか覚えていない。くるり路線というと安易だが、シンプルな曲だったと記憶している。

・残暑、そして

 かなりBPMが遅めで、静かで、淡々と進む。くるり路線と勝手にくくっているスローバラード。「映画を作ったらエンドロールで使わせてください」と第1期ドラマーが言っていた曲。先日、5年ぶりくらいに連絡したら、いまだに聴いているとのことだった。第1期ラストライブでは最後に披露。お客さんも多分いなかったので、知っている人は存在しないだろう。描写がちゃんとしていて、「仲良しごっこが終わって/新しい季節が巡って/そうして僕はまた一人になった」という歌い出し。サビで「僕たちは言葉よりも大切なことがあるって/ただそれだけを/伝えたいだけなんだ」というメッセージっぽい内容が入る。ボイスメモが何本も残っていたので、僕も相当気に入っていたのかもしれない。

・手、傷口or名前のない海

 多分同じ曲のはず、ということで2つタイトルを並べたが、違ったらすみません。この曲はかなり好きで、今思うと「散弾が外れたら」の原型とも言えるような、アンサンブル全体でビートになっているタイプの楽曲だった。リメイクしたかったし、そう伝えたこともあった気がする。ちなみに記念すべき初ライブの1曲目だった。「出口のない裏庭で」みたいな歌い出しだった。なんで残さなかったのか不思議だが、「何回も傷口に塩を塗り込みあう僕ら」みたいな歌詞だったので、今思うとそのフレーズに僕が文句を言った可能性がある。2017年に入って個人LINEでリアレンジしたいと伝えた形跡があった。

・たとえば、明日

 これもBPM速めで、2代目ドラマーが好きだった。第2期に入って序盤に披露していたが、僕が好きじゃなかったので遠回しにお蔵入りさせた可能性が高い。最低だ。「たとえば明日この世界が終わるとしても驚かないよ」という歌い出し、あとは「もういいかいもういいよ」「かくれんぼ」「地下鉄に降る雨」みたいなワードがサビにあった。ボイスメモを発掘して聴き直すまで完全に忘れていたが、ギターのバッキングがキメっぽく、本人がカバーしているのをみたことがあるから連想しただけだがSAKANAMON「ミュージックプランクトン」の簡単版、というと近いかもしれない。2Bのあとにほとんど「はなして」のドラムロールのところみたいなアレンジが入っていた。好きじゃなかった割に、全体的な構成まで覚えている。

・Sunday

 第1期。スタジオで合わせたことはあったはずだが、ライブで演奏した記憶はない。ミドルテンポの歌モノで、イントロのギターは比較的キャッチーめなフレーズ。

・音楽たち

「Sunday」と同じメールに添付されていたデモ。タイトルがいい。長い曲。スローバラードで3拍子。メロディーというか録音時の喉の状態がかなり良くなかった。サビで高域を地声で攻め過ぎていた。もしかしたら、活動前半は3拍子や6/8拍子がピンとこなくて合わせる気にならなかったのだろうか。結局解散までに生まれた3拍子の楽曲は、「done」のみだった。

・alusel

 同期ありで、ドリームポップっぽい曲(5人のころのガリレオ感もある)。聴き直したらかなりいい曲だったのでなぜやらなかったのか。多分3人でやれない同期ありのデモが届いても、どうしていいかわからなかったのだろう。こういう曲だとデモでベースがルートを刻んでいるだけだったりするので、退屈だから拒否した可能性もある。

・asae,ae,strobo(?)

 上記のタイトル全て同じ曲だったはずだ。THE NOVEMBERSの初期曲っぽいカッティングと疾走感がある曲があったのをボイスメモで思い出した。これはライブでなんどかやっている。歌い出しが「まだそこにいたいの」みたいな歌詞のメロから入り、そこがかなりノベンバっぽかった。メロを大きく変えて「青白い夢から醒めたのに」に変わったが、それもノベンバっぽかった。余談だが第2期のころ、別にルックスなどは全然ノーベンバーズっぽくないけど、彼らみたいな楽曲を演奏したいバンドが、実は結構いた時期だった気がする。逆に全身ヨウジヤマモトだぜ、高身長で服は全部黒いぜ、みたいなバンドもいたにはいた。機材にも服にもお金をかけているタイプ。サビは「何をして/どうやって僕たちは息をすればいいの」みたいな歌詞。曲の終わり方は「dnim」っぽい。
 裏話だが、間に合わせの新曲を無理やり演奏していた時期の曲は、大体僕が拒否したせいで消えた気はする。あるとき、意図的に「スーパーカーっぽい曲を量産していた時期があった」と言っていた。ライブハウスのブッカーなどから「初期スーパーカーみたいな曲良かった」みたいなことを延々と言われ続けた時期があり、だったらそういう曲をたくさん作ればいいんだろ、と自暴自棄になっていたと、いつだったか本人の口から聞いたと思う。売れる曲というか、ウケる曲を作らなきゃいけないという義務感があったのか、相当焦っていたのだと思う。
 僕は送られてきた楽曲が〇〇っぽいと感じたら、全く違うバンドがやりそうなアプローチで原曲を破壊しよう、そして歌よりもいいメロディーのベースラインを弾いてやろう、というのがmanentで活動するうえでの命題だった。まあ、それができたのはメロディーが良かったからに他ならない。このころから、だれかに〇〇っぽいと言われること自体に拒絶反応が出るようになってしまい、いかにオリジナルに聴こえるかだけを重じてベースのアレンジを考えたり、世の楽曲を聴いたりする習慣ができてしまった。そのせいでmanentにおいても元ネタというか、明らかに特定のバンドを彷彿とさせすぎる楽曲については、演奏を拒否した。オマージュ、リスペクト、サンプリング、総じてパクリだろ、みたいな、非常に無益な尖り方。今もちょっと「引用とその発見による連帯は、最も浅い共感」だと思っているところがある。演奏を極めた人、音楽の知識が深い人ほどこの逆のことを言うし、そちらが間違いなく正しい。 

・dida!

 上記のスーパーカー路線量産期に生まれた曲だった気がするが、聴き直してみるとこの時期の新曲、1曲もスーパーカーじゃなかった。おそらくメロディーの影響だ。この曲のイントロだけは若干オマージュっぽいような気もする。メロディーだけは覚えていて、つまりアレンジしなおせばレコーディングなどできたと思うのだが、2回くらいやってから僕が拒絶した気がする。ライブで2回演奏しているが、僕が「サビがキャッチーじゃない」みたいな最低の小言を言ったせいで、サビが2バージョンある。ちなみに今聴くと、明らかに、圧倒的に最初のメロディのほうがいい。本当に申し訳ない。

・真っ白な灰

 音のイメージがグレーなTHE NOVEMBERS路線。もっというと「Flower of life」っぽい雰囲気。ポストパンクっぽさもあったかもしれない。ただし、最初に来たデモだとイントロのアルペジオがカーレースでよく流れているT-SQUARE「TRUTH」っぽすぎる、とリズム隊が指摘して若干変わった。かなりメロディーや疾走感が良かったので、この曲はリメイクして出したいと思っていたが叶わず終わった。「裸足で駆け出す」とか「あなたはどうしたい/答えなどいらない/その目がすべてを僕に語りかける」みたいな歌詞だった。

・xulfer(リフラクス)

 タイトルは、refluxという英単語を逆さにしたもの。ノーベンバーズの「dnim」方式だろうか。意味は「逆流」なので、逆流を逆流させたら意味なくなっちゃいませんか? と直接伝えた記憶がある。「まあみてな」みたいなニュアンスの返しをされた記憶がある。ラウドなTHE NOVEMBERS路線。赤い照明が似合う、つまり基本のセットリストで寒色系の楽曲が多くなるmanentとしては、差し色にあたる楽曲だった。DIIV「Doused」のリフのオマージュっぽいギターが入る(というかボツになった曲の大半が、2音の反復みたいなリードギターが入りがちだった気がする)。「裏切って/罵って/嘘ついて/誰を殺すと言うんだ」みたいな歌詞で怖い。じつは大会みたいなイベントでは、攻撃力が高いという理由だけでセトリに入れていた。演奏回数は多めだったが、第2期ラストライブではやらなかった。ピック弾きも指弾きも試した。manentの昔のツイッター(現X)アカウントに上がっているライブ映像を掘り返すと出てくると思う。演奏回数からして、これもレコーディングして良かった気はするのだが、個性がないなと思って僕からは推薦できなかった。

・?

 タイトル不明ではなく、これがタイトルだった気がする。違うタイトルをつけていた気もするのだが思い出せない。メロディー以外が踊ってばかりの国「evergreen」っぽい曲。当時3人編成だったノクターンと初めて対バンした日の1曲目だったはず。そういえば高畠は踊ってばかりの国の影響も強く受けていた。あの感じのビートが続くのは芸がない気がして、後半から疾走感を出したいと伝え、倍テンにしてボアズの速い曲の感じを目指したが、全然よくならなかった。例を示しても、各メンバーにそのリファレンスに対する理解がなかったら、あんまり意味がない。

・サイレンの鳴る海で

 かなり好きだった。ギターサウンドは意図的にシューゲイザーっぽくしていたのかなと思うが、早送りしたbloodthirsty butchersとも言えるような。BPMは比較的速めでドライブ感がある。ギターのストロークとベースがかなり細かく刻む(多分正しい表現ではない)感じだったので、指でもピックでも弾くのが難しかった。フルーの自主企画の最後に演奏した。
「お別れのときが何も言わずに来たんだ/小さな手のひらを僕は思い出していた/さよならリーシャ/愛してるよ僕は/サイレンの鳴る海の中/花束を投げるよ」(表記など未確認)というサビ。ほぼ歌詞を覚えているあたり、かなり気に入っていたらしい。

・呼億

 タイトルがいい。ダークノベンバみたいな感じで、ベースとドラムは入ってないデモあり。doneを過剰にした感じ。

・Nostalgia

 どこかでふれた、ドラムンベース×ロックバンドみたいな曲。おそらくデモの中では一番作り込まれていた。

・誰かの魔法

 タイトルがいい。7分ある。ハチロクで、メロディとか今聴いたら某君島さんの曲みたいでびっくりした。2020年なので影響を受けていた可能性はある。逆に当時の僕はなぜ気が付かなかったんだろう。

・重力と朝

 タイトルがいい。エイトビートで普通の歌物。歌詞は多分よかった。今思うと「Sunday」も同じ基軸の曲だ。


 他にもいくつか曲があった気がするのですが、流石にやめておきます。
どのように提案して楽曲アレンジを進めたらいいのか、当時はわかっていなかった気がします。そのせいで、何曲も犠牲になっていたのだとすれば、かなり悔やまれます。お金がなくてスタジオに入る時間をケチっていたのも要因だと思うけど、じっくりアレンジを考えて進んでいったら、もう少し曲を残しておけただろうなあ。
 あと、ライブの前々日にデモが来て、前日スタジオで合わせて、当日披露するという数回さえ回避できたらよかった。当時、「ライブで毎回新しいことをやることには意味があると思うんだよね」みたいなことを言われた気もするが、まず自分たちの実力を鑑みて取り組まないと、全部無駄になってしまうこともある。どちらかといえば毎回別の挑戦やテーマをプラスアルファで設定しないでライブするとろくなことにならないな、と言うのは今も感じているので、考え方は間違っていないのだが。
 振り返ったせいではあるが、流石にこのままお蔵入りはもったいないので、もしボイスメモなどを掘り返してライブやスタジオでの音源が見つかるようであれば、なるべくSoundCloudなどに放出できないか、高畠に交渉してみようかなと考えています。叶わないかもしれませんが。

◆(本当の)おわりに

 お楽しみいただけたでしょうか。苦痛になって読み飛ばした方もいるかもしれませんが、まったく問題ありません。むしろちょっとでも読んでみようとしてくださって、ありがとうございました。
 これを書き終えるまでに半月以上かかりました。だったら、もっと練習しろ、その通りです。その間にmanentとbutohes両方のスタジオに連日入って、未来と過去に向き合ってきました。解散のちょうど1週間前には、なんの因果かストレイテナー25周年の武道館公演にも行きました。長く続けて、人に愛されて、お金も稼いで広い会場で演奏するバンドもいますし、じつは25周年だけど大きなライブハウスでは演奏していないという人たちもいると思います。ただ、どちらにも言えることは、続いているだけで奇跡だということです。その奇跡を起こすことはできませんでした。

 みなさんにとって、manentはどんなバンドだったでしょうか。僕にとっては、なんだったのでしょうか。ここまで3万字もかけて振り返ってきた歴史の総括をしてみます。

 まず、俯瞰してバンドの総評を述べるとすれば、とても無学で、不器用なバンドだった、と言わざるを得ません。作曲・ライブに限らず、すべての「音楽活動」に対する知識が希薄で、かつ終始下手くそでした。見つかった欠点を改善せず、ただなんとなく前とされている方向へ進むことでしか、形を保ち続けられなかったバンドだと思います。
 そして、高畠翔という人間の作った楽曲は、間違いなく素晴らしいものばかりでした。力不足で殺してしまった楽曲がたくさんありましたが、今もなおなにかしらの形で残っている楽曲たちについては、おそらくこれからも残るのではないかと思います。それはバンドの汗と涙の結晶などでは決してなく、たまたまmanentという共同体の摂理から外れなかった。つまりメンバー全員にとって不自然でなかっただけなのです。「純粋」に生み出され、この世に止まったのだと思います。この純粋とは、生まれたままの、脆弱で、大人になれた人にとっては醜いものでしょう。
 高畠翔のギターは、ただのバッキングのひと振りでさえ、瞬く間にその楽曲の情景を描き出す。ピッキングのニュアンスと、ディレイとリバーブと歪みのバランス。ちょっと古めかしいリードフレーズがノスタルジックに響く。言葉は、抽象的なほど現実を意識させ、具体的な言葉が別の言葉と響き合う。ベースは主張し、コーラスやディレイを用いて高域にも食い込みながら、その情景を撹乱し、のたうちまわる。ドラムは楽曲が聴きやすいようにひたすら支えながら、1ページずつめくるように、物語を展開させる。全員難しいことはできず、限られた選択肢から最適解を選んで、決して複雑になりえなかった。そんな、どこにでもいる3ピースバンドでした。 

 さて、僕個人にとって、manentとはなんだったのか。
 まず、manentに参加しなかったとしたら、今バンドをやっていなかったと思われます。もしかしたらなにか文章を書いたり、落書きをたくさんしたりして「何者か」ではあろうとしたかもしれません(だれかに言わせれば今もその域を出ていないかもしれませんが)。この事実は、本当に致命的なものです。
 名前をもつ集団のうちのひとりとして、舞台に上がり、演奏する。自分の人生における行動のうちのひとつに、こんな非日常的な選択肢が加わったことが、そもそも非常に大きなことでした。そして、いわば完全な素人(だれかに言わせれば今もその域を出ていないかもしれませんが2)だった僕が、(多額のマイナスを発生させながら)人前で演奏して無理やり経験を積むことで、なんとか今もバンドを続け、ベースの音を出している。これも、manentがなければ、起こり得なかった。
 ベースを弾く人間としては、前述の通り、数年ぶりのスタジオで「すべてが許される場所」だったと、ようやく気づきました。そのベースラインはやめてくれ、みたいなことはほぼ言われたことがありませんでした(もしかしたら、こいつは人にいちいち意見するくせにプライドが高くて人の意見に耳を貸さない幼稚な後輩だから放っておこう、と諦められていた可能性もある)。manentが3ピースバンドであり、そしてほとんどの曲中の8割がギターのバッキングとシンプルなドラムのみだったから、余白だらけの上にどうベースを乗せるか自由に考えて、脳内でイメージした通りのメロディーを勝手につけられた。切ったり繋げたり、どのように弾くかも、自分次第でした。歌のメロディーがよければ裏でどんなアレンジをしても成立してしまう、というだけの話かもしれないですが。この自由には功罪があるなと思うものの、ベースラインを考えることの楽しさをとっておいてくれなければ、「なにかを作ること」だけに関心があった僕は音楽を続けられなかったと思います。

 manentというバンド自体について改めて振り返ります。ところどころでたまに言っていたのですが、manentは幽霊船だったのではないか、と思います。かつてブッカーの方に「走馬灯の中にいるみたいな音だった」と評されたことがあり、走馬灯という言葉に引っ張られて出てきた言葉です。「幽霊が操っている船」というのが通常の意味らしく、そのニュアンスもありますが、「船そのものの幽霊」だという感覚のほうが、イメージに近いです。操舵したいと思っても、舵が掴めない。舵が目の前にあるのに、触れない。自分の体がないのか、船が存在しないのか、わからなくなる。コントロールができないので、いつ進んで、いつ止まるのかもわからない。この状態、場、空間は、きっと高畠の人間性に由来するところであり、かつメンバーそれぞれが抱える曖昧さや、不注意みたいなものによって生み出されたのだろうな。こうなってくると、全員がマイペースでプライドがまったくないくらいでないと、前には進みません(逆にこの状態にならないために、別の音楽活動をする際、できる舵取りを必死にやってきたのですが、それもやっぱり無駄で、どうしたらいいのか、かなり卑屈になっている最中でもあります。というか、manentがそうだったからなおのこと、回避しようと努力したのだろうと思います)。つまるところ、「魂が欲しい どんなものでもいい」という歌詞以上に、manentを正確に描写した言葉はないかもしれません。

 ただ、原点に立ち返ってみると、船がただ沈まずに海を漂っていること自体が、本来は奇跡に近いことだという前提を、忘れていたのです。バンドをやるには、バンドがなければならない、という絶対条件、楽曲がなければならないという必要条件が、すでに当たり前ではない。これらの事実に対して、無自覚ではいけなかったのだと思います。
 そして、バンドをやっている当事者以外の人も、これに対して無自覚な場合が多く、むしろ振るいにかけるようなことを平気で実行します。それを掻い潜って、ようやく手に入る平穏や、金銭、立場などがあるとは身をもって体験してきました。
 ただ、そういったある種のルールに適応する強さがあっては、おそらく認識しづらくなる美しさというものは間違いなく存在し、それこそが本来すべてのひとが生まれながらに持っていた感覚なのではないでしょうか。俗っぽい夢を抱えながらも、同時にその弱さを表現している人を厳選する、淘汰するシステムは、確実に存在します。
 それらのトラップを潜り抜けるために必要なのは、メンバーが信じ切ることのできる楽曲・メンバー・指標の存在です。ただ波の上に漂わせても、どこにもたどり着かない。目的地があっても実像がなければ、座礁すらできない。レーダーでは探知できなくなるまでさまよって、忘れられたら死んだことになる。無数の遭難船と変わらない。そして、いずれはこの幽霊船も同じようになるのだと思います。
 ああ、つまり僕は色々言い訳を並べ立てたうえ、前書きでこの行為を茶化していたけれど、結局はこのバンドをなにかしらの形で残したい、と思っていたのだ、とようやくわかりました。
 また、極端に言えばmanentがなければbutohesは存在しませんでした。つまり、21歳以降の人生を生きながらえたのは、この両バンドを構成するメンバーと素晴らしい楽曲たちのおかげということになります。最後のイベントで共演を選んだのは、manentの存在に対するリスペクトであり、僕自身がこれからbutohesで弾き続けることを、すべての人に知ってほしかったからです。
 僕は今後、少なくとも数年は新しいバンドを始める気はなく、基本的にはbutohesのみで活動していく予定です。それは、自分の基本的な状況やキャパシティの小ささなどが要因なので、胸を張って言えるようなことではありません(逆に、これだけ長文を書く変なやつにこそなんか頼みたい、という場合はお声がけください)。
 このレポートを書き切って、振り返った過去をすべて演奏に乗せ、10/22を終えれば、manentに関するすべての未練から解放されるかもしれない。そんな期待があったかもしれません。……いや、こんなにかっこつけた動機を振りかざしつつ、遠回りをして、単なる私怨を振り撒くように、何かを不用意に攻撃しながら過去を振り返ってきましたが、もっと誰にでもわかる単語に置き換えられる、ということにたった今、気付きました。自分の過去を穿り返すことで、「原点」を掘り当てて、ちゃっかり自分だけの糧にできれば、という下心しかなかったはずなのに。こんな言葉を思い出すために、わざわざ4万字書いてきたわけじゃなかったはずなのになあ。それほどに気恥ずかしく、ありふれた言葉です。どんなバンドの解散でも用いられる、どんな作品のテーマにもしやすい、人によって発生のタイミングが異なるある期間です。もうその言葉がなにか、聡明なみなさんはわかったと思います。その通りです。

 manentとは、青春だった。
 幽霊船は沈み、春が終わる。
 そして、夏が始まればいい!
  

◆あとがき

  ……あ、「海へ還ろう。」って、そういうこと?
 manentに関わってくださったすべての皆様、心よりありがとうございました。10/21、つまり本番以降は手を加えないという前提で書き進めてきたので、最終日についてこのような文章を残す気は今のところありません。
 もっとあっさり、読みやすい分量を、と思ったのですが、気づけば自分で読み返すのも苦痛な文字数に達していました。露悪的な饒舌さと、語彙力不足によりたいへん読みづらかったかと思います。ここまで1文字も読み飛ばさず辿り着いた人は、もっと別のことに時間を使ってください。少しでもネタにできそうなら、よかったです。
 というか、曲も書いてないのによくもまあ、上から目線で偉そうに書き連ねているな、読んでいられないな、と思った方も多かったかもしれません。恨み言なしで書けるほどには、まだ成長できていないので、その事実ごとアーカイブし、数年後赤っ恥をかこうと思います。
 10/22にきっちりと未練を絶って、次の季節に旅立ちたかったのですが、2曲くらいミュージックビデオを制作中らしいです。僕は撮影などにも参加していませんし、いつ完成するかも知りません。ちなみにライブの模様は、どんなにヘタクソでも全編公開する予定で、撮影が入ります。たまに思い返しながら、ゆっくりと呪いが解けるのを待とうと思います。
 なにかの終わりに対して、こんな文章をこしらえる必要がない未来を望みます。
 そして、manentに関わってくださったすべての人が過去のしがらみを昇華しどこかへ向かう未来を、みなさまが幸せを感覚できる瞬間の多からんことを、僭越ながら、祈っております。
  

2023年10月21日

Naoto Fujii


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