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5分で読める某短篇の賞に応募した作品(原稿用紙換算枚数15枚)

読んだらどの賞に応募したか分かってしまうこと自体、失敗の原因であると思われる落選作です。でも、言葉遊びが好きだし、表現されるイメージが好きだから、自分は小説を書いているんだなと納得する作品でもありました。隙間時間にどうぞお読みください。

『 イチルの希望  』
  万条 由衣 
 
 白い花、白い大きな花がゆれてるみたいに帽子が上下に動きながらゆっくり離れていく。白いのにはば広いつばがあるからそれは麦わら帽子なのだ。かぶっている娘が、同じような白い色をしたワンピースのすそを、しがらみというものなど知らないといったふうにうらやましいほど自由にはためかせ、この腕にほんのわずかに、でもたしかにかすって玄関を出ていったのに気づいたわたしは、それを止めるのが自分の役目だった、と思い出したときはすでにおそく、白い色したワンピースのすそがドアが閉まる瞬間からのがれて消えた。なにかよくないものがため息をついて、よどんでかたまっていた影がよりいっそう密になる。ああまたすごすごと娘を外に出してしまった。象が頭からずしりとのしかかるのを下肢をつっぱって持ちあげ立ちあがり、自分としてはソファーからはねあがったつもりになって気をとりなおし、白い色を追いかける。左足、右足とサンダルに挿し入れたところまではよかったが、ドアを押しひらこうとした手はだらりとたれさがり、また象の重力につぶされそうになったとき「ママ、それ、青い花がついてるやつ?」娘の声がした。顔をぐるりと後ろに曲げると上がり框にすわっているイチルが笑う。やっぱりそのワンピースに麦わら帽子は合わない。それに、ひたいまで隠れてしまっている。大きすぎるのは、わたしの麦わら帽子だからだ。大人みたいな表情をはりつけ、すっとぼけているイチルもきっと可愛いだろう。顔を全部見たい。思わず麦わら帽子に伸ばしかけた手が止まる。「青い花がついてるサンダルなんて見たことない、すてき。でも青い花ってなんだろうねママ」イチルは考えているふりをするのだ。じつは学校に行きたくないから時間かせぎしていることをわたしは今ならちゃんと知っている。でもあのころだったらもたもたするイチルにいらいらして「いいから、はやく行きなさい」と登校をうながしたはずだ。「青ではないよ、青よりももっと濃いでしょう。藍色というのだよ」「あいいろ? あいのいろ?」「藍の葉っぱを腐らせてつくった染料にひたすと、こんな色になるんだよ。ママが十八のときに浴衣とそろいで、田舎のばあばが買ってくれたの」「ふうん。わたしのは?」「イチルのもあるよ。ちょっとこっちに来てごらん」和室にいざなって和箪笥のいちばん下の引き出しをあけた。初参りと三歳のときに着せた赤色や桃色の手まりが描かれた着物や、七歳のお祝いのために新調した竹色というのか薄いエメラルドグリーンの生地が折りたたまれて仕舞われた和紙をどかして、一番あざやかに発色している藍色のそれを引っ張り出す。こちらを身につけてやるべきだったかも知れない。でも白いワンピースを着てピアノの発表会に出るのをあの子はとても楽しみにしていた。長押に引っかけた衣装とわたしの顔を交互に見て、一回だけでいいから着たいと言い、しまいには、ただあててみるだけでいいから、そう懇願したのにもかかわらず、練習しなければ本番もこないよ! なんて鬼の形相でしりぞけていたのは誰だったか。わたしは自分の藍染めの浴衣の上にあの子のをのせて、右手のゆびでいつまでもいじくりまわしている。
「行ってくるよ」
声をかけられたのにぴくりとも反応しないわたしに近づく夫の気配がした。大きな手が肩にのって温かいと思う。
「なあ、そろそろいっしょにやらないか。これから出資者と大事なミーティングがあるんだ」
わたしはイチルのそばにいる、あの子を守ってやれるのはわたししかいないんだから。気持ちがいつのまにか口から漏れ出ていたらしい。
「まだそんなことを言うのか。いい加減にしてくれよ」
このところ夫はわたしをつきはなす作戦に方向転換したようだ。寄り添ってばかりでは進歩がないとでも先生にアドバイスされたのだろう。夫はそうすることでわたしのなかのイチルをもう一度殺そうとしているのだ。工学部の同級生だった夫とともに、かつてその名を世の中に知らしめた日本語変換ソフトとならぶアプリケーションソフトを開発して、同郷から発信しようとがんばってきた。健康状態や食事の栄養素を分析して翌日のメニューを提案し、さらには食材を届ける高齢者健康支援システムを作ろうとしているのだ。玄関の鍵が閉められ、だんだん小さくなっていく夫の靴音に代わって耳にしのびこんでくるのは水の音。しずくが水を打ち、しばらくしてひとつ、そしてひとつ、そのたびに鼓膜はふるえる。どうせ音をひろうなら、心地よい眠りに身をゆだねるイチルのゆったりとした息づかいを感じたい。もし青白い顔をして玄関に突っ立ったままランドセルの肩ベルトを爪でひっかいているなら、しっかりこの手で抱きしめてやらなければと思う。けれどわたしは和箪笥の引き出しを閉めて藍色と決別し、キッチンに向かう。蛇口のレバーハンドルをきちんと下ろさなかったか、もしかしたらパッキンが劣化しているのだろう。シンクに夫のマグカップが置かれていて、中に満たされた水の表面へ、蛇口からしずくが落ちているのだった。夫は詰めが甘いのだ。最終チェックを怠るべからずは徹底されず、システムのバグを発見するのはいつもわたしだ。蛇口のレバーを上から押さえつけたら、水音が止んだ。カーテンが中途半端にあけられて、布と布のすきまから朝の陽が差しこみ、リビングの床に光の帯をつくっていた。熱を発しているように見えたので手のひらを置いてみたけれど、少しも温度を感じず裏切られた気がした。まぶしいのはたまらない。でも温度がほしいのだ。この手からじわじわと血流のように全身に行きわたる心地よい温度がほしい。先生は、ぬくもりでしょうと言った。ぬくもりを与えるものはイチルしかないんですと応えたら、先生はモニターの中で表情を変えずにだまっていた。テーブルに積まれたAI関連の専門書のうち、真新しいものを一冊手にとった。人工知能の第三次ブームが加速して勢いづき、製品開発は佳境に入っていた。動くものがあるのを感じてはっとした。和室へ視線を向けたら、鎮座する紫檀の表面にわたしがぼんやりと映りこんでいた。イチルちゃんの話すことばが変、ふざけてるみたいだねって言ってみんな笑ってた―紫檀に囲われた灯りに後押しされたのか、あの日ヒナちゃんが小さい声で教えてくれた。いっしょにピアノ教室に通っていたイチルの同級生。システム開発のノウハウを盗むためこの都会に引っ越してきたのは、イチルが小学校三年生になったばかりの春だった。こちらで暮らしはじめて三か月がすぎたころから、イチルは登校をしぶるようになっていた。三年生のヒナちゃんは言葉をつないだ。イチルちゃんはだれともしゃべりたくないって、いつも保健室にいた―「あの子の人生は散々だったってことね」吐き出さずにはいられなかった。泣き叫びたいのはわたしのほうなのに、ヒナちゃんのママが泣き崩れていくのだった。「いいよね。どんだけ泣いたって、あなたにはヒナちゃんがいるんだから」とわたしが言い捨てたからだった。それ以来あの人たちと世界が分かたれてしまった。だれもわるくないのに。いやちがう。わるいのは大型トラックと運転手。タイミングを合わせるようにあの子を送り出したわたしも……この春三月に小学校の卒業式にさそわれ、三年と半年が過ぎたことを知らされた。イチルをさしおいてわたしだけが足を運ぶことはできなかった。専門書が手から滑り落ちた。挟まっていたらしい一枚のメモを手に取った。製品名を決める、の文字に赤で二重線が引かれていた。
 夕方、夫に抱えられてわたしのところに届いた宅急便は田舎の母からで、あけたら段ボールの、紙にしみついた排気ガスみたいな匂いがして、それから土と甘やかな香りが立ちのぼった。天然わかめ、魚の干物や野菜といっしょに詰められていたのは、濃い緑色の葉と白い小さな花をたくさんつけたすだちの枝だった。
「届いたよ、ありがとう」
「元気でやっとるかい?」
 スマホを耳に押しつけた。電波状況が安定しないのかフィルターがかかったように声は遠い。ほおに押しつけるようにして両手で端末を支える。
「うん。母さん、うちの声が聞こえとるか?」
「ああ、聞こえとるでよ。あんたの好きな春ニンジンも入れといた、あまっとったけん」
「春ニンジンのレシピ、ためしてみた? オイルソースで炒めるってやつ。ベータカロチンがよおけ取れるけん、ニンジンは火ぃ通して食べたほうがええんでよ」
「ああ、やってみた。なかなかうまかったよ。いろんなこと知っとるんやな」
箱からすだちの枝をとり、厚みのある白い花びらに鼻をよせる。とても淡いけど甘やかだ。
「すだちの花、かわいいね」
「すだちってなんか?」
「なにを言いよるんか、すだちじょ」
「すだちはもちっとせな、ならんでよ」
「枝が入っとったよ。花がいっぱいついとった」
「そうなん? それはおかしなことやなあ」
なかに枝を一本しのばせるなど、母にしては洒落たことをすると思ったがやはりちがったようだ。畑の野菜を収穫したとき、まぎれたのだろうか。
「実がなったら、また送るけんね」
スマホから聞こえていた母の声が耳のあたりで渦を巻く。土地が産んだ言葉をどうして憎むことができよう。花がいっぱいついていると思ったすだちの枝をじっと見れば、開き切ったのに混じって、まだかたくなに固まっているのもある。せっかくのつぼみが、ふくらまないまま終わってしまうのは切ない。洗面所の戸棚から花びんを出してきて水をそそぎ、挿してみた。生殖器をあらわにした花より、白いつぶつぶに目が移る。
魚の干物を焼いて、サラダにわかめを盛りつけた。夫が豚汁を作った。
「しばらく外に出てないだろう。明日は土曜日だし、クリニックに行こう、つきあうよ」
うながされたが、大丈夫だからもう行かないとことわった。なんでもオンラインで済まそうとする世の中の流れにしたがっていたのに、今さらクリニックに出かけるのはおっくうだった。信用できないといったふうにわたしの顔をじっと見ていたが、
「まあ、それならいいや」
夫はかすれた声を出し、食事のあとさっそくノートパソコンを開いた。その身体はひとまわりもふたまわりも縮んだみたいだった。
 
朝起きて、むうっと鼻についたのはすだちの花の匂いだった。さわやかだった香りも数日経ったら鼻についてうっとうしい。家の内側に膜が張られたようになって、息苦しいほどだ。耐えられなくなってカーテンと窓を一気に開けた。テーブルにのっていた本のページがすばやくめくられ、書類が飛び散った。夫とふたりあわてて拾い集める。匂いのもとをたどって廊下を歩き、下駄箱の上に活けた枝をじっと見る。白かった花びらの縁がちぢんで茶色に変わっていた。腐ったものが発する毒に思わず鼻と口を押えた。もはや鑑賞に値するものではない。役に立たないただの木の棒に成りさがってしまった。捨てようと思い、花びんに手を伸ばしたときだった。枝がさっと引きぬかれ、こちらに突き出した固いものが鼻先に触れた。それは黒くて長いから鳥のくちばしみたいだった。視界の隅でゆれているのは白い大きな麦わら帽子、ではなくて、真っ白なシーツをざばっと広げたような羽根だったので、こちらも負けてたまるかと気負って両腕を広げ、しっしっと外へ追いやろうとするが、びくともしない。枝をくわえたまま、あたかもぶんどられた者のふてくされた態度を示している。よしそれなら、と重心をやや下にしてかまえ抱えこもうとしたがかなわない。腕がまわらないほど大きい。ぐっと近寄ったら、ペンライトみたいに集中した光を放つするどい眼球がわたしをにらむ。ひるんだ拍子に肩が花びんに当たった。落ちて床にぶつかる鈍い音、おい大丈夫か、の声、ばっさばっさとふりはらわれるシーツ、いや、ひとふりふたふりした羽根を白く大きな図体に収納して、この鳥らしきものはずずずーっと何かを引きずって出ていこうとしている。家中に広がっていた黒っぽい膜のようなものが天井から壁から剥がされていくのだった。充満している腐敗の臭いによってできたものか、それはしまいには漬物石ほどの大きさのゼリー状になり、自在に形を変えながら引っ張られていく。そのとき、早う! 早う! こっちじょ! イチルが外から鬼ごっこの鬼よろしくわたしを呼ぶのだった。意を決して、ドアを力いっぱい押しひらいた。風が一気に吹きぬける。ころころと軽快な幼いものの笑い声が、だんだん小さくなっていく。なぜだか、イチルの声を聞くことができるのはこれが最後だと悟った。待って、行かないで、と言うためにわたしの口がひらいて、息を吸った。まだ温度が上がり切らない、すっきりと感じられる午前の空気が鼻から口から入ってきて、身の内側が洗われるようであった。気持ちがいい。外の空気を吸うなんて久しぶりではないか。ゆっくりと歩をすすめる。足もとには自分が植えた記憶のない名も知らない草や花がいつのまにか隆々と生え、切られずに自由奔放に枝を広げた常緑樹はわたしの顔に葉をなでつけてくる。放りっぱなしにしていた庭の土の匂いが湿り気とともにわたしの身体を取り巻いた。この身のすべてを口にしてそれらをむさぼるように食らう。
「あれ、しらさぎが飛んでるよ。ほら見て」
 いつのまにか背後にいた夫が中空を指さした。見あげれば大きな白い鳥が長い首をSの字型におりたたみ、人の背たけほどもあるのではないかと思われる羽根をゆうゆうと上下させている。
「イチルノキボウっていうのはどうかな?」
 何のことだかわからないといったふうに眉をひそめた夫に、上気した顔を向けた。
「ソフトウエアの名まえ」
「……すごくいいアイデアだ」 
肺をいっぱいにした空気に、わたしはおぼれそうになっていた。きびすを返して玄関のドアを開けた。ころがった花びんの横に、今にも弾けそうな小さいつぶつぶが散らばっている。枝はどこにもなかった。                       
〈 了 〉


万条由衣

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