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存在とは、肉体でなく記憶説

先週、前回の記事に書いた義母が
無事ベガスに帰還された。


日本の実家ですら、1日でも泊まるのが
はばかられるのに
( 気を遣う / 遣わないのバランスが下手すぎて
  どう振る舞っていいかわからない… )

義母と暮らした2週間は、貴重な経験だった。


夫が
「妻が最優先、母は二番目」
「普段通りにしてればいいよ」

と何度も念を押してくれたので
どうにか乗り切れた。

発熱、過呼吸、顔面痙攣、悪夢…

自分がストレスにとても弱いことがわかった笑


滞在中、義母が何度か泣いていた。

学生の頃からの親友が、
認知症で寝たきりになったとか。

彼女がハワイに来たのは、
その親友を訪ねるためでもある。

病院に行った際、親友は義母のことを覚えておらず
「あら、素敵なレディね。どちらさま?」と。


「 なぜもっと早く会いに行かなかったのか 」

「 昔話に花を咲かせるはずだったのに 」


そう言って、義母は泣いていた。



つらい時、共に支え合ってきたそう。

親友の肉体がそこにあっても、
共有できる記憶がなければ、

そこにいるのは、少なくとも、
義母の期待した
親友ではないのかもしれない。


身近な人に、忘れられたら
自分の一部が欠けるような、
そんな喪失感があるかもしれない。

場合によっては、相手が
亡くなってしまったような感覚にすら、
なるのでは。


存在の重さとは、
共通の思い出、それに伴う感情、それを共有できる安心感
その積み重ねと、感情の重さ、その記憶なのかなと。

素直な気持ちを出し合える関係ほど
お互い、自分を肯定できる。自分の存在を認識できる。
その安心感。一人だからこそ、つながる喜び。
与えること、与えられること。


それが、なくなってしまったら。


孤独とは、
気持ちを共有できる相手がいないこと
なのかなぁと。

共感してもらえなくてもいい。
「寂しいんだね」と
受けとめてもらえるだけでいい。

誰もいない森で木が倒れたら、音がしないと誰かが言うように
誰もいない、認識してくれる人がいない場所では
自分というものが薄れていく。

自分が認識されないと、不安になる。

思い出の品を捨てにくいのも、
頭の中でそれと感情を共有しているから。

その品が「認識者」だから。


…なのかなぁと思ったり。

違う世代の人と暮らすことは、
いろんな気づきをもらえる。


彼女たちや、介護する親族を見て

最期まで、自分の足で立つ努力をしようと。
( 義母は毎日40分歩いていた )

身体の動くうちに、したいことをする。

そしてできれば、70前後でコロリと卒業したい。
そう感じた。



murasaki_kairoさん、素敵な写真をありがとうございます。

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