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「仲間と手を取りこの世を生き抜いていく」ことをしたいかもしれない

ある夜、仲間からこう聴かれた。

「(はやしは)死ぬの怖くない?なんで生きてるの?」

正直、いま自信をもって「このために生きている!」と胸を張って言えるものはない。けれど、「生きてるのもわるくない、生きてみよう」と思うきっかけはあった。


「自分の軸」はなかった

ずっとやりたいことがなかった。すきなものもなかった。常に周りの目を伺って物事を選択し、平均点以上の結果を出す。でも本気で何かに熱中したことがなくて、長く続けてきたものはほとんどない。

そんな自分を変えたくて、やっと世界を広げ始めるようになった大学時代。社交性もないくせに、とにかく色んな人に会い、話を聴きまくった。「神出鬼没」と呼ぶに相応しく、コミュニティや団体のイベントによく顔を出した。

結局俺は「他者・社会軸」で支えたいことは見つかってきたけど、「自分軸」で「これがすき・譲れない」みたいなものは見つからなかった。多分それは今も変わってない。

自分という源から「こういうことを成したい」という原動力で駆動していく仲間たちをたくさん見てきた。眩しかったし、うらやましかった。

「自分には夢とかやりたいことはないけど、素敵な志を持つ仲間たちの心の炎が燃え続け、幸せになってほしい」

という願いが、いつしか自分の生きる理由になった。生きる理由を見出せなかった俺は、生きる理由を強く持つ仲間に自分の命を託せるようになりたいと。


託した想いが、芽吹き始める

コミュニティマネージャー、イベント企画、インタビューライティング、コーチング、ファシリテーション、大学教員、ワークショップデザイン

これらはすべて、仲間(先輩・知人・友人など直接の知り合い)からのお誘いで共創させてもらってきたもの。

意外と、あの時に託した想い、叶ってるかもやん。って思った。

別のところでも触れたが、ここ1年くらいずっと悩んでいる。働くことも、大切な誰かと過ごすことも、自分を生きることも。

やっと幸せの形を手にしたと思ったら、また次の新たな壁が立ちはだかり、うまく乗りこなせずに手からするりと離れていくことを繰り返してきた。社会の流動性、自分の複雑さ、他者とうまく付き合っていく関係性の、歯車がいつもかみあわない。だいぶ社不みが強いことにやっと気づいた。


過程そのものに、尊さと愛おしさを

自分という人間を観察し、生き心地を実感するような向き合い方や関係性を築くには、あまりにも今の社会の流れは早すぎる。大切なものはこんなに近くにあるはずなのに、降りかかってくるものに立ち向かうばかりに、いつの間にか無かったことになってしまう。

かく言う自分も、仕事や選択肢を選ぶうえで、「それにはどんな目的があるか・どんな価値があるのか・どれくらい割ける時間があるか」などと合理的に考えることがほとんどだ。

それでいいのだろうか。

本当に大切なものほどわかりにくく、目に見えない。外に見出す必要はない、答えは自分がもっている。理由なんてない、直感は論理を超越する。

***

「死ぬの怖くない?なんで生きてるの?」

「仲間と手を取りこの世を生き抜いていきたいから」

想いが共鳴する仲間と分かち合い、自分のできることを尽くして共創する。自分たち・力になりたい人・社会へ何かしら願い、この世を生きていく恵みをもたらしていく。

その過程そのものが尊く、愛おしく、なによりたのしい。

これが自分の生きる養分、になるかもしれないとひとつ仮定を置いて走ってみるか。違ったらまた編みなおせばいい。

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