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第8話 後悔だらけで初印刷

 「リソグラフって印刷機、結構安くなってて……欲しいんだけれど……」と僕は妻の裕美に相談していました。再びセルフパブリッシングへの興味が高まってきていた2010年の夏前くらいだったと思います。
 「何言っとるん、どこに置くつもりやの。それよりも、そんなもの買ってどうするの!」と彼女は産まれたばかりの子供をあやしながら、少し苛立ちながらこう続けました。「いつか、子供が大きくなって、それでもまだ本が作りたいんだったら買ったらええやん。まだまだ焦らんでも、いつでも大丈夫やって。そのころにはもっと安くなってるかもよ」と。「そうやね。今すぐに作りたいものがあるわけじゃないし。ちゃんと働くわー」と僕。
 しかし、僕は子供もまだ小さかった4年後の6月に、初めてのリソグラフを手に入れることになりました。それは、いつも突っ走る自分の行動を諌めてくれた彼女がこの世界からいなくなってしまったからなのです。

ヤフオクでうっかり落としてしまった

 2011年の東日本大震災、そして裕美の病気の介護もあって、「再び本を作る」なんて余裕は、自分の中に何ひとつなくなっていました。そして、2014年の春、彼女を失って以降、心の中に大きな穴が空き、まだ小さい2人の子供たちとの生活さえままならぬほど、すべてに対しても無気力になってしまっていたと思います。それ以前の生活と同じことをしようとしてもできない、というよりもさまざまな過去の楽しかった出来事を思い出してしまうことが何よりも辛くて、なんとか店に立って料理を作りつつも、文章を書くことも、レーベルをやることも、音楽を聴くことさえもできない状態でした。そんな状態で、自分で「本を作る」なんていうめちゃくちゃ気合いが入らなくちゃできないことを考えることさえできなかったのです。

 妻の四十九日が過ぎたころ、ぼんやりとYahoo! オークションを眺めていると、以前検索ワードに登録していたと思われる「RISOGRAPH」に引っかかったのか、

「2色機:RISOGRAPH MD-5650」
「現在 120,000円」

の文字が目に入ったのです。10年後の今でこそその価格は珍しくはないけれど、当時はリソグラフの中古と言えば、それ以前の機種MZ-770が中心で、かつ25万は軽く越えていました。また、OAの中古販売でもMD-5650は40万前後はしていたアイテムだっただけに、「ま、どうせ落札できないだろうけどネ」と安易な考えでポチッと入札。こういうのを「タガが外れた状態」と言うのだろうね、きっと。裕美がいたならば、こんな馬鹿なことするはずはなかった。で、すっかり忘れていた数日後、メールを開くと「おめでとうございます。商品を落札しました!」の文字が届……ぅえぇええええええ!
 12万のお値段にビビったのではなく(もちろん大金ですが)、そんなでかいものをどこに運び込めば良いのか、それ以上にそんなもの買ってどうするのか、今のお前に印刷だの出版だの、夢見る余裕があるのか、その「おめでとうございます」の文字を横目で見ながら、じわじわと驚きと後悔が津波のように押し寄せてくるわけです。なんで、あのときポチっとしちゃったんだろう、と。俺の馬鹿、馬鹿の俺。当時はスタジオをやるなんてこと頭の片隅にもなかったし、印刷したいもののアイディアすらなかった。それゆえに、何かしらキャンセルの方法はないかしらん、と思いながらも時は刻々と過ぎていき、配送方法についてどうしますか、との連絡が。

 こんなとき、悪運だけはいいのが、自分の常々の無計画さを助長してしまうのだけれど、ちょうどその少し前に、自分が渋谷でやっているヴィーガン・レストラン「なぎ食堂」の斜め向かいのマンションの一室を仕込み/在庫管理/休憩所として借りていたのでした。決して広いわけではないけれど、機材を置くだけには十二分な場所。また、わずかに7段ほどの階段がある1階に位置していたので、重い機材でも搬入はできるはず。とりあえず、ちゃんとした場所が見つかるまで、ここに入れておこう、と思ったのでした。それで、「マンションの1階です!」と連絡をしてみると、「入り口まで段差が1段でもある場合は詳細を教えてください」と丁寧な連絡を受けることに。聞けば、ヤフオクで手に入れたにもかかわらず、リソグラフ専門の配達業者を通してくれて、ちゃんと設置までしてくれるとのこと。ただ、たった7段でも運搬に2名人員が必要、それゆえにお値段も東京都内→都内なのに30,000円以上かかったと記憶しています。お値段12万なのに……送料30,000円って、なんだよ、これ。
 ただ、今考えてみれば、このとき理想科学が取引している運送業者Hさんが来てくれて本当に良かったと思っています。もし、何も考えずに「入り口で下ろしておいてもらえれば大丈夫ですから」なんて言った日にゃ、渋谷の桜ヶ丘の坂の途中で、大きな機材を目の前にしてどうすればいいのか途方にくれていたはず。そう、この機材、なんと170kgの超巨漢、幕内力士の平均体重が162kgらしいので、それよりもちょいと重量級だったのです。

サーマルヘッドのロック

 後に知ったのですが、新製品で購入、もしくはリースしたとしても、この「納入設置料金」に約40,000円程度かかるようです。それは、基本、揚重手数料は別で、配送して設置してチェックするのでこの価格。それを考えれば、何を30,000円で文句をたれていたのか、です。また、170kgの重量を階段7段とはいえ持ち上げるに際して、ちゃんとモッコと専用の運搬用フレームを用意していただいて、ほぼピアノの配送並の技術で一気に運び込んで設置してもらいました。
 このとき、前章で述べた通り、この運送業者Hさんは、サーマルヘッドを保護するようにネジでロックを施しているか確認をしていました。ただ、それを見たあとに、「あぁ……ロックしてなかったですね」とポツリ。この部分をロックするのは配送会社ではなく、送り先でやるべき作業、そして残念なことに販売元のOA中古販売メーカーはそれをご存知ではなかったようです。個人はもとより、OA中古機器会社から中古を買ったとしても、ほぼこの部分に関しての知識がないので何のチェックもなしに「らくらく家財宅急便」で送ってきたりします。実際、自分もちゃんと「ここをこうやってロックしてください」とコレによって到着したリソグラフのサーマルヘッドに細かく傷ついていたこともあります。また、「近所の不動産屋がいらないリソグラフくれるってよー。軽トラで運ぼうぜ!」ってときでも、本当にこの部分をちゃんとロックしないと大変なことになるのでご注意を。実際にリソグラフを運ぶ場合は、

① 中のインクドラムが壊れないように、一度電源を入れてドラムを抜き出して別梱包する。
②中のマスター/サーマルヘッド部分が配送中に動かないように、中についているネジで固定。固定の方法は、機種によって異なるので説明が難しいのですが、マスター部手前の左右に付いているネジ2箇所を一度外して、別のところに固定してください。一度マスターの製版ローラー部を抜いてみると分かると思います。

 実際、このときは、配送の距離が短かった&専門の配送会社Hさんだったこともあってか、サーマルヘッドは無事、それから10年経った今でも、東京のhand saw pressでまだ現役で頑張っています。

とにかくまずは印刷してみよう!

 と、いうことで(大事な)リソグラフが到着……と書いているけれど、そこから3日間、僕は印刷はおろか何も触ることはなかったのです。なぜ触らなかったのか、と言えば、何をしたらいいのか、何を刷ったらいいのか分からないから。正直、心の奥底で「やっちまったなぁ、やっちまったなぁ」と小さな自分がつぶやいていました。だって、以前のように本を作りたい気持ちは、そのときには欠片もなかったのですから。 
 ふと振り返るのです。そう、自分はいつもそうだった。昔から「これが欲しい! あれがしたい!」と思っている間のエネルギーだったりパワーだったりっていうのは人一倍強く、手に入れるためにバイトを増やしたり、なんとか安く手に入れるために人脈や情報網を広げてみたりと必死でやったりするのです。で、手に入れた瞬間に感動のピーク、ちょっと「ほっ」としてしまって、箱から出した瞬間に満足してしまう。それが今回は、目的もなくうっかり落札しちゃったわけですから、ねぇ。
 もともとデザイナーでもないし、イラストレーターでもない。アーティストであるわけもない。そんな輩の部屋にドーンと置かれた関取クラスの憎いやつ。「やっちまったなぁ」と思いながら、スイッチをパチパチと。「ちゃんと動くな。少なくとも不良品じゃないな」と確認してるだけで3日ほどの時間が過ぎていったのです。

 しかし、その巨体を眺めていると、不思議に印刷したい欲は高まっていくもの。心が少しずつ無気力からリハビリしはじめていたのかもしれません。ちょうどオモチャ好きのトクマルシューゴくんから、「リソグラフ買ったんだったら一度印刷させてください!」とのメールが来たこともあり、よし、試しにやってみよう、とようやく重い腰を上げることに。もちろん、使い方に関しては、これまで公民館やボランティアセンターでイヤというほど使ってきたから分かる。2色印刷に関してはこれが初めてだけれど、2色って言われても、まぁ、そんなに大した違いはない、のかな、どうなのかな? そんなことを思いながら、電源をパチリ。クゥーンという機械音とともに、美しく立ち上がる。①の方のドラムにはブラック、②の方にはブライトレッドのドラムが入ってる……え、なんだ、ブライトレッドって? 普通のレッドとは何が違うのか? よく分からんがブライトなんだろうな……と思うほど、このころは、カラーに関しても本当に無知でした。 
 ブラックに関しては、配達してくれた方が「一度印刷確認しますので……」と到着したその日に一度製版/印刷をしてくれているので大丈夫のはず。それじゃ、このブライトレッドっていうヤツを使ってみよう。一応、ブライトレッドのインクドラムを①に入れなくちゃ、っと。これのやり方はもちろん知ってる。フロントカバーをパカっと開けて、真ん中にある少し光ってるボタンをペコっと押したら……グゥイーーン、カチっ。これで取り出せるんだよな。
 むむ、結構重い。ドラム、重いぞ。こうしてブラックとブライトレッドを入れ替えてぇの……なんかそこらにある紙をこのスキャナー部に載せてっと。コピーをする要領でまずは製版、よいしょっと……ガコンガコンガコンガコン……動いてる動いてる。結構ウルサイな。これ、近所からクレームとか出ないかな、どうなんだろ……ガコンガコン……(無音)……ピーーーーー!……あれ、なんだ、なんかエラーメッセージが出てる? 

「04/T44-513」

 な、なんですか、そりゃ? いや、とにかく製版はできたみたいなんだけれど、動かない。えー、なんだよそれ、困るわぁ。とにかく、動かない。ブライトレッドが印刷できない。えー、困る、困るんだよ! おい、関取、どうしてくれるんだ! 早くも廃業なのか? そんなぁ……。

 何も知らずに印刷を志した人間の最初の一枚は、悲しいかな、謎のエラーメッセージで始まったのでした。






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