女性を「守っていた」フロイスらの文化と女性を忌み嫌っていた同時代の日本、そして今のポリコレ

以下「男性が女性を守っている/守ってきた」と称するファンタジーについてのメモ。

日本には、俗に言う「男女の違い」がニセ科学とわかる有名な典型例がある。

平安貴族男性のように、すぐに感動し共感し泣く性質が「男らしさ」や貴族らしさとされることもある。その場合、理性や問題解決思考は「女や卑しい人々の性質」とされる。と。

これは古典を読解する上での基礎知識でもある。

反対に、近代の日本では西洋風の「理性的な男が感情的な女や子どもを守る」ファンタジーが流行した。実際には男性が女性と子どもを酷使する現実があってこそのファンタジーだった。

黒澤明『七人の侍』が身分制度のファンタジーであるのと同様である。(日本版タイトルではあたかも侍が社会を守ったようであるが、海外では主人公らが浪人者であることが強調され、「侍」や身分社会の邪悪さが際立つ)。

また、一般的に男児は女児より体が脆弱で育てにくく(親に聞いてみよう)、かつ、誰しも幼少期は非力で衝動的であるので、たいてい冷徹で問題解決思考の母親に反発しつつ守られて生きるしかない。

幼い男児には特に「理性的な男が感情的な女を守る話」は魅力的なファンタジーだろう。

所詮は「俺は良い支配者である。庶民の反発は感情論である。」と同種の中世的ファンタジーだが、「脳科学」や「心理学」でニセ科学が流行るほどには、そして一部ファンタジーオタクがアンチフェミ化して「男が女を守っているのに」と叫んでいるほどには切実な願望なのだろう。

「日本は元来男女平等、西洋の猿真似で男尊女卑になった」という説もただのニセ科学だ。

男尊女卑が凄まじい地域では一見「女性が自由で強く」みえることがよくある。

「釈迦のように、男たるもの女子供など蹴飛ばして俗世を捨てろ。」「男子たるもの、女子どもを構うなど男らしくない」

とみなす文化だとそうなる。

男性が出家しがちな男尊女卑社会の場合、残された女性が「強く自由に」みえることがある。

ただそれだけの事実だ。

他の文化圏でも男性の出家が流行ると時々見受けられる。おそらく、フロイスらがそういう文化と時代の人々ではなかったというだけで。

フロイスらの文化圏での男性の「憧れの男性像」「男らしさの手本」はイエス・キリストだった。

長血の女を癒し、マグダラのマリアに手を差し伸べるのがイエス・キリストならば、対照的に我らが伝統文化の凡夫は長血の女性をケガレと呼び、マグダラのマリアをさらに搾取し、あるいは彼女らの犠牲を男性の救いの資源として感謝するのがせいぜいだった。

「憧れの男性像」「男らしさの手本」も東アジアでは孔子や釈迦だった。シングルマザーを恨む孔子や、妻子を蹴飛ばした釈迦をロールモデルとし、自分ら男性たちの悪をすべて女性のせいにして済ますものだった。

人間の悪を女性や外国人のせいにするのは、「人は元々完全である」と称する思想によくある代償である。

記録に残る限り我々日本人も実際そういう行動を取ってきた。日本を愛する人間なら誰しも行き着く事実だろう。

注 日本の女性蔑視の基本をなす「(全員が尊い存在である)男性を、(全員が地獄行きで邪悪な存在である女性が自己犠牲で)煩悩から救う」という発想は、畜生とされた遊女から仏社への寄進が受け入れられた理由でもある。


出家や隠遁を重んじる仏教その他東洋哲学(神道も)が、女性を蔑視しつつ全面的に依存している矛盾は古くから男性のあいだでも散々指摘されてきた。

上代の斎宮への扱いをみても女性蔑視はかなり酷いと言わざるを得ないし、(おそらく当時の神道的世界観で尼を重視し)善信尼らを史上初の留学生として海外へ送った時代を最後に、ずっと日本では男尊女卑が激しかった。

実は日本でも昔から度々「貧困の連鎖を止めるためには女性に権利を」などの発想によって女性の労働を男性なみに保護する構想が繰り返し出てきたが、長続きしなかった。男尊女卑は身分制度の安定装置だからだ。

日本史上ずっと、戦後ごく短期間の重工業を除いて(いや軽工業でも精密機械でも重工業でも)、日本文化と日本経済の基本は女性搾取であり、女性蔑視を除いたらほぼ何も残らない

20世紀後半でも農村から霞が関に至るまで、「女に楽をさせてはならない」が日本人のモットーだったことは、少しく歴史をたどれば知る事実だ。

科学が宗教より上の権威となったのは20世紀末のことで、それまでは、古代東洋政治哲学の「あらゆる施策を講じて女を虐げて男の下に置き、女を黙らせなければ平和にならない」という身分社会の発想と分断政策が正義で、日本の人々特に女性を苦しめてきた。

身分制度では「下の立場の者に楽をさせてはならない」という発想が全ての基本にある。そして男尊女卑は身分制度の要だ。

全て下に尻拭いさせ、最終的にはどんな悪政のしわ寄せも庶民の女性に行くので、発展性がないが上下関係だけは安定する。

身分制度の社会においては、うだつの上がらない庶民(役人含む)は上に文句を言わず、女性を叩くのが「わきまえ」なのだ。

注 男尊女卑が日本ほど酷いと、男性より女性の幸福度が高いのも自然に見える。古今東西、特権的集団は「悩み深い」ものである。つらい日々の中に喜びを見つけ出す庶民的スキルが身につきにくいこと等のほか、日々の「喜び」ですらしばしば「下」への虐待に依存するせいだろう。
注2 一般的に現代欧州の階級社会では、まず圧倒的多数である労働者階級が中流階級を「我々の労働から儲けを搾取する階級敵」とみて絶えず闘争している。資本家や国の首脳はたいてい中流(ホワイトカラー)である。上流(世襲貴族)は「義務教育をおえたら軍などで地道に働いて社会に尽くすだけ。人生は変えようがない」という社会の最下層に似た諦念を持ちやすく、昔から、最下層やアウトカースト的な人と物凄く気があう。中流は労働者階級や最下層を憎みつつ上流にあこがれ、ゆえに下からも上からも憎まれる。いずれにせよ、そういう仕組みに無自覚なまま女性を叩くやつはどうかしている。


閑話休題。

フロイスが来た頃、主流の日本文化では女性は全員が地獄行きだったし、女人成仏は例外的で、かつ女人成仏自体が女性蔑視的な思想だった。

注 科学が宗教より上の権威となった数十年前まで日本人も千年以上、その前提のもと、男性が俗世を捨てやすく、老若男女が女性に一方的に守られる社会を作ってきた。女人成仏思想の歴史は「女性は地獄行き確実な悪だが、善行をつめば男性に転生し、やがて成仏する可能性もなくもない」とする庶民派と、「男性は俗世を見捨ててよいし清いから仏になれるが、女性は人を世話するし、血のケガレがあるから男性に転生する可能性皆無。成仏の可能性も皆無。」とする主流派の議論の歴史である。

フロイスらの信仰するキリスト教の場合、イエスを思い出せばわかるように基本的に男女ともに天国に行ける。とはいえ今でも「全員が地獄行き」説で人をおどしがちだし、特に大航海時代以降や時々起きる復古思想とともに、「女性は全員地獄行き」とする昔の東洋のような文化が流行することもあった。

つまり

日本などの仏教地域の文化は「自称高尚な思考に専念しすぎる男たちと、八面六臂の働きをするしかない女たちの文化」であり、他地域の男らしさ/女らしさとは正反対

とも言える。

さらに言い換えると

日本の伝統的な男性は「傲慢なレディー」のよう、日本の伝統的な女性は世界の「男らしい男」のよう

とも言える。

このことは日本のポップカルチャーが海外でウケる理由でもあるし、ウケつつも当の日本の男性がバカにされがちな理由でもあるだろう。残念なことに。

東アジアの文化

好いた者同士が守り合うのは禽獣でも自然なことだが、人生自体を苦の源とみる仏教では結局「好きな人を守る」ことは悪である。

日本で「愛」が良い意味の単語になったきっかけのひとつがフロイスらの活動だったことはよく知られた歴史豆知識だ。

「愛する人を守ること」が悪だった東アジアでは「男性が女性や子供を守る」という発想は個人レベルでは存在しても抑制されたし、日本ではとりわけ、男性の精神安定や、身分制度のガス抜きのために女性を搾取する文化が、政策レベルで特に大々的に発達した。

西洋、特にイベリア

さて、よく知られたとおり、宣教師フロイスらの頃のスペインやポルトガルでは女性は夫や父親の許可なしでは自由に出歩けなかった。

反面、同時代の日本では女性が父親や夫の断りもなしにあちこち旅をしていた。

これも

日本は「男が女に構うのは卑しい」とする文化、スペインやポルトガルは「男は女を守る」文化という違い

に起因する。

残念ながら古今東西、男性は一般的に女性に守られてばかりのまま生まれ育って生きて死ぬし、戦争や災害でも結局はお上を守ってばかり、女性に尻拭いされてばかりだし、女性や子どもを鉱山でも土木工事でも工場でも搾取しがちである。「俺らは、せめて個人レベルで戦う以外ずっと役立たずじゃないのか」と自虐しかねない。

それはフロイスらの文化でもあまり変わらなかった。

だからこそフロイスらの故郷では、昔も今も男たるものはそのへんの女性が言葉で侮辱されただけでも即座に見知らぬ男性に決闘を挑んでなんぼだったし、

はたまた身辺の女が強姦されたりなんぞした日には、

男たるもの、女の名誉のためなら地の果てまでも加害者を追いつめて殺し、復讐するものだった。それがマチズモの美学で、フロイスらはそういう文化圏から来た。

その「女」が恋人でも姉妹でもおばでも、女のために復讐しにいかない男は一族もろとも村八分同然。周辺の全ての男から腰抜けの家呼ばわりされ、仕事でも仲間外れ。

現代のイベリアでも、南米からイスラム圏でも、こういう文化がかなり残存している。

イスラム圏で妙に人気の『ベルセルク』あたりの読まれ方もこんな感じだ。ダークファンタジーをそういう正統派ヒーローもの風に読むのはだいぶ違うんじゃないかと思うがそう言われるとそんな気もするのが面白い。

ともあれそういう復讐は、世界中の刑務所で性犯罪者が殺されやすい一因でもある。

被害者家族の依頼も多いと考えられるが、

誰もが「人は名誉のために復讐するものだし、見知らぬ女のためにも復讐するぐらいでこそ男」と思っている

ので単に他人のしわざだったりもする。

彼らにとってフェミニズムは「そこまで戦っても結局、ぼくら男性は女性を守ってなどいなかった」という現実を直視する活動

であり、日本とはスタート地点がだいぶ違う。

実在の事件への女性蔑視的な問題ともども、ノーベル賞作家ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』などは近現代のマチズモの好例だ。

とある女性を何年も前に暴行したことである男性が殺されるのだが、その男本人以外は、身辺の誰もが、彼がいつ、誰の手で、どう殺されるか知っていたし、復讐を温かく見守っていた。

かれらにとって人間は、特に男たるものは、どこかの女性の名誉のために復讐すること※は当然の義務なので。

※ ちなみに今の日本の刑事訴訟で、性暴力事件ですら「被害者」側の素性が「加害者側」へ開示される原則も、直接の原因のひとつは紳士の決闘の代わりだったためだ。これをむしろ女性を矢面に立たせて男性を守るために悪用する日本などの例は男尊女卑のお家芸とはいえ、だいぶ恥ずかしい

ジャパニーズポルノやNetflix『全裸監督』なども、オリエンタリズ厶というよりそういう文脈で珍重されてきた面がある。

つまり、

「もし女性が傷つけられたなら、どこかの任意の男性が、地の底までも追い詰めて監督を殺しているはず監督が生きているってことは問題はないのだろう。」「女性が自由なのだろう。」

と考える。

よもや

よもや「日本では中世以降は女性蔑視文化が主流で、身分制安定のため女性を半ば奴隷化し、成人男性による女性虐待や児童虐待を身分制安定の道具として認めてきた」
実はあの人は裁判でも負けていて、以下ry

とは思わないのだ。

世界の大半は男尊女卑ではあっても女性を侮蔑する文化はない(ことになっている)し、「見知らぬ女性の名誉のために、不届きな男を殺せてこその男」とすら思っている。

なので知ると態度を変える。

「あいつらは、男としての貧弱さと身分制の強さゆえに、女性や少年を犠牲に、変態的な性文化が発達しただけなのだ。」

と考えれば理解しやすいからだ。残念ながら。

くどいようだが、欧米のリベラルな人以外、世界の大半は「女性の名誉を傷つける男を殺せてこその男」という文化なので、実態を知ったら女優のために復讐を志すであろう元ファンの男性たちも世界中にゴマンと発生する、と考えておいたほうがいい。

日本以外の男尊女卑社会でも、そもそも「女性を蔑視する」ということ自体が理解困難だ。「男たるものが、なぜ女性を蔑視しないとならないのか。」という別のレベルの男尊女卑があるためだ。

説明するにも

「アジアでもモンスーン地域は農耕に適し過ぎていて、古代の文明の曙光以来、慢性的な人口過剰で女性蔑視が発達。中世以降の仏教では「女は全員地獄行き」が主流ですらあり、日本は特に島国で人口の行き場がなかった。性産業では近代まで女性を犬畜生扱いする文化や儀式があったほどで、擬似夫婦とみなす西洋やイスラムとかとは全く違う」

あたりまで遡って説明しないと、日本の男尊女卑は理解しにくい。

日本の名作に見られる輸入文化

20世紀後半までの西洋は男尊女卑とともに

「母も妻も初恋の人も偉大なり。ひたすら女に守られて生まれて育って老いて死ぬ俺ら男は、せめて有事に戦うぐらいしか能がないんじゃねえの。」

が文化のベースだったとも言える。日本はこれを戦後に輸入した。

その思い込みから外れる女性(や男性)を殺人的勢いで叩くからこその彼らの男尊女卑であるし、「男が女を守っているのに」という被害妄想が極まるからこそ、ルソーからニーチェまでの男性礼賛と女性蔑視の哲学に至るとも言える。

ともあれ「男が女を守る」という外来の文化に日本人が名作文学やポップカルチャー経由で追いついたのが20世紀後半である。

西洋の名作を読みまくり観まくった世代であろう宮崎駿氏などのアニメが古臭いとされると同時に世界中で広くウケる理由だろう。

今は

「戦いを男らしさだと思うのはもうやめよう。女性蔑視につながるし結局、いつだって大事な戦いは女の人だのみじゃないか」(この事実は前にも記事に書いた)

くらいの考え方がモダンな男じゃなかろうか。


まとめ

フロイスたちの文化では男が女を守る以上、一緒に行動するか、せめて許可を得た先にしか外出してほしくなかった。

女性が攻撃を受けたら身内の男性が復讐しないと一族全体が腰抜け呼ばわりされ、名誉に関わる※のだから、相手の顔や名前がわからないと困る。

日本的な「男たるもの、女や子や親なんぞへの執着を捨てるべし」文化の土地で女性が自由に旅行できたのは蔑視の結果であり、「女性が守られていた」とみるのは見当違いも甚だしい。

結局、女性を守る文化など元々個人レベルでしかない日本人が近現代になって海外製ファンタジーに浸った挙げ句、「自分らも社会ぐるみで女性を守ってきた」と思い上がる人も出てきたのだろう。

選択的夫婦別姓反対にみるように、アンチフェミは男でも少数派である。オタクの大多数でもないだろう。男が女を守る伝統がない日本において、一部ファンタジーヲタクが紛い物の西洋騎士道ファンタジーにすがる程度の、か細いものだ。

そのようにアンチフェミは滅びつつあるし、徹底的に滅びなければならない。


※昔の西洋と日本の女性の平均寿命は単純には比較できない。生まれた子供には洗礼を受けさせ住民登録の代わりとし、史料ともする文化と、公儀に届け出する前に口減らしする文化では女性の平均寿命の統計も大いに違うだろう。