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感情の役割

「感情は、個々の行動の違いを大きくする仕組みの一部を担っているのではないか。」という仮定の話

まずはじめに、なんの根拠もなく実感で書いていることをお伝えしておく。

感情は下図のような働きの中で作用しているのではないだろうか。


1、なにかしらの感情がでた(感情)
2、感情の一部を拾い上げる(動機)
3、拾い上げた感情に反応する(行動)
4、状況での行動を知覚する(把握)
そして、1に戻る 。
たとえ同じ状況だったとしても1で出てくる感情は少しずつ変化する。 それが、2、3と連鎖的に変化していき、最終的に4で多様な作用が生まれる。 これによって多様な行動、多様な思考が生まれる。それを全体で共有することによってさまざまな環境で生きていける可能性が生まれたのではないか。 一般に、だれもが知覚できるようになったもの「個性」呼んでいるが 、実際は個々の変化を生み、その差異を大きくしていく「どんな感情がでてきて、どこを拾い上げて、どう反応するか。」その無意識的選択、上図でいうところの①②③合わせたものを種全体として大事にするべきもの、これを「個性」呼ぶべきではないだろうか。

人それぞれが違ったものを積み上げていることにより、違ったものがでてきて、それを2段階運用してから知覚できるようになる。たまに、他人の行動から感情が読み取れないことがある。そういう行動に対しては「理解できない」という意味も込めて「個性的」と読んだりするが、実は本人にとっては感情と行動が完全に一致しているのかもしれない。
感情は可能性を生み出す原動力、仕組みそのものなのではないだろうか。
だとすると、このあたりをわざと繋げずに行動し「アート」として価値をつけるのには違和感を覚える。 ある感情から、ある行動に、たとえひとりでもたどり着いたのならそれは人間全体にとっての可能性で価値あることだが、ただ脈絡もなく行動、表現したのであったなら、全く同じカタチをしていたとしても、それは地続きではないので、なんの可能性ももたらしていない。

ちなみに 1から4の感情に目を向けず、同じ行動をとり続けることで意図的に一定の感情を生み出すことができる。
正の方向に使えば「ルーティン」。
負の方向に使うと「洗脳」
と呼ばれているのだろうと思う。

対象が一人であっても、搾取のために多様性を生み出すのを阻害するのは許されることではない。
大多数の人が同じ行動を取るように仕向けるのは種全体を危険に晒すので到底いいとは思えない。

仮定してみて、本人であっても感情に明確な輪郭線はつけられないし、つけようとしない方がいいのではないかと思われた。


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