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「3.11」とわたし Vol.8 「いずれ」が来た時も、私が知っている飯舘で

綿津見神社禰宜 多田 仁彦 さん

震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前この先の10年

今日の主人公は、飯舘村の中心的な神社である
綿津見神社の禰宜 多田 仁彦(ただ きみひこ) さん。

綿津見神社は1200年の歴史ある神社。
震災前から地域とそこに暮らす人々と共に飯舘村の歴史を刻んできました。

多田さんは宮司であるお父さんと共に、禰宜として神社を支えながら
人手不足の神社さんがあれば助太刀にいき、相馬と飯舘を行き来する日々。

空いた時間があれば、村の小さな神社を見回り、
石碑や祠を探して村を散策しています。

温かい笑顔が印象的な多田さん。
地域の人たち、そして自身の、飯舘の地と神社という場への想い。


普段と変わらない東京

震災のときは飯舘村にいました。
3月11日は忘れもしません。
この日の全ての行動を記憶しています。
激しく長い揺れ、大きくしなる電柱、崩れた壁、津波を逃れ毛布を被る人たち。
そして翌日の原発の1号機爆発。
信じられないような事が次々に起こりました。

その後成田に避難し、途中上野駅周辺で買い物をしました。
普段と変わらない東京。
そのギャップに驚きました。

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「いずれ」のその時

今は相馬市に住んでいます。
飯舘にいた頃は季節を感じて暮らしていました。
春にはタラの芽・ウド・フキノトウなどを味わい、
初夏には庭から取った山椒の葉を材料に山椒味噌を作ったり、
秋には木の子をとり、
冬には凍み餅を作ったりしていました。
相馬に住んでからはそういうことがなくなり、寂しく思っています。
それ以外は普段通りの日常です。
ただただ家族や神社こと、村の安寧を思っています。
家庭や仕事、居住の問題で飯舘に帰れていないのが残念です。

いずれ帰ります。
その「いずれ」がきた時も、緑豊で水清らかな、
私の知っている飯舘村であって欲しい。
自分も努力して、せめて神社や家の周辺くらいは
もっと手入れをして綺麗にしていきたいです。

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いつまでもそうあるように

神社の復興・再建は自分ではどうしようもないことが多かったです。
地域の人たちの神社を大事にする志と、
支援の手を差し伸べてくれた県内外の神社関係者に感謝することしかできない。

その気持ちを抱えながら出会った人たちと話している中で、
前に進めない人たち(自分自身も進んでいるのかどうかわからないけれど)や、
避難を悔いている人たち、
慣れない生活で体調を崩している人がたくさんいる事を知りました。
「ご先祖さまに申し訳ない」という言葉もたくさん聞きました。

よく神社は心の拠り所と言われますが、いつまでもそうあるように、
神社の整備等を地域の人たちと一緒にやって行きたいです。
信仰の場としては勿論だけれど、祭事や参拝などを通して
人々の交流の場となってくれればといいなと考えています。
まずはいつ来ても綺麗な神社であるように。
最近は移住者の若い人たちと、正月にみんなが座れるベンチを作ろうなんて話もしています。

今の私があるのは、この10年本当に多くの人たちに支えてもらったからだと思っています。
その人たちに「よかったね」と言ってもらえるような生き方をしたい。
できるかぎり共に行動して行きたい。そして飯舘村と共にありたい。

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ここにみんながお茶や甘酒を飲めるベンチを、と話す多田さん


綿津見神社
鎮座地 福島県相馬郡飯舘村草野字宮内156
電話 0244-42-0108

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