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「寄り添う」をデザインしたらどうなる?


今日は阪神淡路大人災から29年となる日です。元旦早々に起きた能登半島地震の生々しさがかなり残っている時点で過去の震災に向き合うことになったので、多くの人が複雑な心境になっているのではないでしょうか?

このような時、よく「寄り添う」という言葉が飛び交います。私は余りこの言葉が好きではありません。言葉自体はとても大事な意味を持っていますが、昨今では、大きな不幸に見舞われた人に対して、余りにも軽々しく使ってしまう風潮があるので、軽々しく使ってしまっている「寄り添う」という言葉を聞くときに、「その寄り添うは好きではない」と思ってしまいます。

さて、この「(大きな不幸に見舞われた人に)寄り添う」をキーワードにしたポスターをデザインしてくださいというお題が出された場合、みなさんならどのようにポスターを作成されるでしょうか?質問の仕方に注意してください。「どんなポスターを作成するか」ではなくて、「どのようにパスタ―を作成するか」と質問しています。

なぜこんなことを話題にしているかというと、街を歩いていて、ふと「(大きな不幸に見舞われた人に)寄り添うをデザインするとしたら、どうなるだろう?」という変な疑問が出てきたからです。その時、すぐに思ったのは、「抽象的な言葉なのでアートの領域で表現した方が良いのか」ということでしたが、「いやデザインで表現するとすればどうなるかを考えてみよう」と思い直しました。

ここで、デザインとアートの違いが頭をよぎりました。デザインは、明確な目的を設定したうえで、受け手が主体で課題解決のために用いられるものです。 アートは、創作者自身が主体であり、自己表現を行うことで受け手に影響を与えます。簡単に言えば、受け手主体で目的がはっきりした表現がデザインで、自身が主体の自己表現がアートです。

この観点で言えば、とりあえず、「(大きな不幸に見舞われた人に)寄り添う」を何かで表現するとすれば、デザイン的な表現が良いのか知れません。(ただ、思考を深めればアート的な「寄り添う」表現というものもあるだろうと思います。)

「(大きな不幸に見舞われた人に)寄り添う」をデザインで表現するとすれば、何を目的にすれば良いでしょうか?その前に、受け手が誰になるかを決めなくてはいけません。

能登半島地震で被災された方なのか、29年前の阪神淡路大震災を今日思い起こしている人や東日本大震災から立ち直れていない人なのか?あるいは、震災の被災者だけでなく、あらゆる不幸に見舞われた人々なのか?または、不幸に見舞われた訳でなく、普通の生活を送っている人に送るメッセージとしてのデザインなのか?

このように、誰を受け手にするのかによって、デザインの内容も違ってくるでしょう。そして、その受け手によって何を目的にデザインするのかも違ってくるはずです。

ただ、デザインされたポスターは、「”(大きな不幸に見舞われた人に)寄り添う”ことについて深く考えることができた」と、受け手に思わせられるようなものが欲しい気がします。そのようなポスターを創作する場合、創り手が「(大きな不幸に見舞われた人に)寄り添う」ことに対して生半可な理解をしていたのでは無理ですね。

このように考えると、徹底して「強く寄り添いを欲しがっている人」へのヒアリングが大切になってくるでしょう。さらに言えば、それをヒアリングする人も、過去に強烈な不幸に遭って「強く寄り添いを欲しがった体験」を持っている人の方が良いかも知れません。そのような体験がある人とそうでない人とでは、理解の次元が違うと思うからです。

そういう意味で、私がもし、「(大きな不幸に見舞われた人に)寄り添う」をキーワードにしたポスターをデザインするとしたら、次のようにするだろうと想像してみました。

過去の大震災を経験し、その時、「強く寄り添いを欲しがった体験」を持っている人に、能登半島地震の被災者の方々の声を聞いてもらった上で、「被災者の方々に寄り添うをテーマにしたポスターをどのようにするのが良いか」と問いかけ、彼らと一緒にポスターを作成していきたいと考えます。この問いかけを、今の段階で能登半島地震の被災者の方々にできるはずもないので、過去に大震災を経験した人の力を借りたいと思った訳です。

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