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検討を怠ったつけ~『社会のなかの軍隊/軍隊という社会 シリーズ 戦争と社会2』(蘭信三ほか編)~

硬い本ではありますが、各章が多くても注を含め25ページ程度と短めなのもあり、意外と読みやすいです。

また、戦争や軍隊と聞くと、一見現在の私たちの日常とは直結しないように思ってしまいますが、実はそうではないことを痛感させられる本でもあります。


以下、各章で印象に残った部分を取り上げていきます。


『シリーズ 戦争と社会』刊行にあたって

現在のコロナ禍と戦時中の空襲を重ね合わせた、冒頭部分から、引きつけられました。

一九四五年三月の東京大空襲では、中小・零細企業と木造家屋が密集した下町地区の被害が明らかに甚大だった。結果的には、さほど豊かではない人々が多く暮らす地域に、被害が集中したことになる。(中略)地方に縁故がなく、都市部にとどまらざるを得なかった多くの人々は、四・五月の大規模空襲にさらされた。考えてみれば、「外出自粛」とは自宅への「疎開」にほかならない。空襲にせよ感染拡大にせよ、一見、あらゆる人々を平等に襲うように見えながら、「疎開先」で被害を最小限に食い止めうる人とそうでない人との格差は歴然としていた。

なぜこんなことになってしまったのか、それは以下の検討がなされなかったからです。

過去から現在に至る不平等や非効率、機能不全をもたらした日本の社会構造それ自体については、どれほど検討されてきただろうか。

検討がなされなかったのは、過去の過ちを振り返ることなく、日本がさっさと戦後に向けて歩き出してしまったからかもしれません。

日本本土において「冷戦」(cold war)意識ではなく「戦後」(post-war)意識が広まったのは、日本本土が――同じ敗戦国のドイツと異なって――米国の支援のもと、新たな「戦争」たる冷戦の軍事的前線を、朝鮮半島・台湾といった旧植民地(外地)、そして沖縄などの島々に担わせてしまった結果だった。


総説 軍隊と社会/軍隊という社会(一ノ瀬俊也、野上元)

ここでは軍隊、戦争、社会などについて考察しつつ、本書に収録されている研究成果が紹介されます。印象に残ったのは、以下の部分。

徴兵によって集められる市民たちは、市民社会から切り離されることで兵士となる。(中略)かれらが兵営に収容され元の生活と切り離されるのは、その空間において市民的な道徳や倫理を忘れ、兵士として軍隊独自の価値観や行動規範を身に着けるよう促されるからである。
兵営で生じる抑圧や不当な暴力、欲求不満は、暴力管理の失敗どころか実は暴力の巧妙な管理技術であるということである。(中略)過酷な訓練や理不尽な扱われ方によって蓄積された負の感情のエネルギーは、戦場において敵兵やときに敵国の住民に対して解放されたのだった。

何ともやりきれない話です。

また、「近代日本の軍隊」についての「西洋的な衣食住を社会に普及させていく組織」という表現も興味ぶかかったです。同じような指摘が、『組織としての生命――生命の教養学15』の中の、「生命体としての軍隊」でも見られました。


第1章 軍事エリートと戦前社会――陸海軍将校の「学歴主義的」選抜と教育を中心に(河野仁)

この論文は、何といっても結末が強烈でした。

陸軍幼年学校や陸軍士官学校、海軍兵学校の卒業生について、

ほとんどが、(中略)戦後社会のさまざまな分野に「拡散」した。(中略)陸海軍は解体されたが、彼らの陸海軍将校(あるいは将校生徒)としての「矜持(プライド)」と「絆」は終生消えることはなかった。ある意味で、戦後日本社会の「パワー・エリート」輩出の母体となったのが、社会集団としての旧軍エリート軍人とその養成機関の在校生であった。

うすうす分かっていたことではありましたが、はっきり言葉にまとめて突き付けられると、いろいろな思いがこみ上げます。


第2章 徴兵制と社会階層――戦争の社会的不平等(渡邊勉)

かつての日本における徴兵制が、「国民皆兵」と言いつつ、不平等なものであったことが、データをもとに明かされます。

徴兵されたのは、まずは「1937年から1945年の間に徴兵適齢期を迎えていた世代」。

そして学歴で言うと、高等小学校卒の人たち。

職業で言うと、事務・販売のホワイトカラー、農林、運輸・通信などのブルーカラー。

また戦死においても、そして復員後の生活においても、不平等があったことも指摘されます。

高学歴者は(中略)徴兵はされにくかったものの、一度徴兵されてしまうと戦後大きなハンデを負うことになり、徴兵されなかった高学歴者との間に大きな格差が生まれていた。

結論として、

アジア・太平洋戦争は、国家総動員体制のもと、建前上戦争負担の平等が喧伝されてきた。しかし本章の分析からは、必ずしも戦争負担は平等ではなかったといえる。

ということになります。上記の「刊行にあたって」で触れられている、エッセンシャルワーカーの問題にも重なっていきます。負担は一見平等なようで、平等ではないのです。


第3章 退屈な占領――占領期日本の米軍保養地と越境する遊興空間(阿部純一郎)

まず驚いたのは、「米軍内で兵士に様々な娯楽サービスを提供するスペシャルサービス局」というものの存在。兵士の士気を保つには、そういうものが重要だし、欠かせないということですね。

驚かされるのは当時米兵が楽しんだ娯楽の多様性とそれを可能した(注:可能「に」した、でしょう)軍の娯楽提供体制であり、その規模と華やかさは敗戦後の日本人に圧倒的な印象を残しただけでなく、現代の感覚からしても過剰に映る。太平洋オリンピックは最たる例だろう。

ちなみに米軍を戦闘部門とサービス部門に分けた場合、1946年11月にはサービス部門が過半数を占めるようになったそうです。

そして、なぜ1945年の年末から翌年初めにかけて開催された太平洋オリンピックに代表される、大々的な娯楽を提供しなければならなかったのか、という話になっていきます。

日本占領が始まってまもなく米軍内部では、戦争終結に伴う帰国願望の高まり、復員計画の遅れや不公平性に対する不満の蔓延、占領の必要性に関する無知・無理解など、兵士の士気(モラール)の低下が深刻化していた(中略)。この危機的状況に対処するための施策の一つが、兵士の余暇時間を埋める膨大なレクリエーションの提供だった(後略)。

なるほど、不満をそらすためでしたか。

軍への不満が噴出した要因の一つは、輸送船の調達が不安定な状況のなかで軍高官から早期帰国を約束するようなメッセージがたびたび発せられ、兵士の間に過度の期待が生じたことにある。(中略)
これらの発言により帰国への期待は一気に膨らんだが、それが叶わない兵士の間では、自分たちに与えられるべき権利が何者かに不当に妨害されているとの疑念が広がり、軍はその対応に追われた。

上層部が現場のことを無視して、出来もしない約束をする。今でもありがちですね。

気になるのは、以下の指摘。

歴史学者スーザン・L・カラザースは、アメリカの公的言説のなかで米軍の日独占領が「良き占領」と記憶され、後続する占領(例えばイラク占領)の正当化に利用されてきた点を批判し、この歴史観は、占領軍兵士の現地住民に対する(性)暴力や略奪行為を看過しているばかりか、戦中から終戦後にかけて占領軍兵士が抱いていた軍への不満や嫌悪感――兵役期間の延長に抗議する早期帰還促進運動はその一例――を忘却するものだと指摘する。

不勉強なもので、日独占領が「良き占領」とされていることをそもそも知りませんでしたが、もっともな指摘です。

一九四五年十一月には(中略)、占領任務が許す限りにおいて、兵士は一日の(中略)半分は軍の教育プログラムを受講したり、スポーツや観光などの非軍事的活動(non-military activities)に費やしてよいとの方針が示された。約七年に及ぶ長期の占領期間に耐えた日本人の立場からは想像しづらいことだが、占領開始から数ヵ月も経つと、早くも米軍内部では、退屈な駐留生活をいかに快適にやり過ごすかが重大な関心事になっていたのである。
さらに注意したいのは、占領軍兵士が娯楽を楽しむ際に必要となる施設や道具類、各種サービスは、米側がすべて独自に用意したわけではなく、その大部分が日本政府への調達要求書(PD)を通じて確保され、調達にかかる費用も「終戦処理費」の名目で日本の国家予算から支払われていたことだ。

米兵の暇つぶしの費用は、「終戦処理費」ですか。戦争に負けるって、悲しいものですね。

途中からは、「日本経済の足かせとなるような過度の調達要求を抑制する動きがでてくる」のですが、例えば「運動・娯楽に必要な道具類(乗馬、ボーロ、釣具、運動器具)の費用はその利用者が支払う」って、当たり前でしょう、と言いたくなります。逆に言えばその前は、そういう費用すら「終戦処理費」だったということでしょうか。

そして悲しいを通り越し、唖然とする事実も明かされます。

米軍側は当然のように日本以外の米軍部隊にも施設を開放し、日本側もそれを止めることはなかった。(中略)
朝鮮戦争やベトナム戦争では、兵士を戦場から一時的に離脱させ、休養させて英気を養い、ふたたび戦場に送りこむという米軍の戦争支援のために使われることになる。

講和後は「終戦処理費」はなくなったものの、その後も「防衛分担金」として、「米軍の戦争支援」の費用が、日本の国家予算から支払われたわけです。何ともやりきれない思いに駆られます。


第4章 戦後日本における軍事精神医学の「遺産」とトラウマの抑圧(中村江里)

戦争神経症(戦時中に発生した心因性の神経症の総称)についての、アジア・太平洋戦争の最中の解釈が、戦後の日本にまで影響を与えた様があぶりだされます。

まずは「『皇軍将士の純忠の魂』が『戦争性ヒステリー』の発現を許さなかった」という感じで、その存在自体を否定します。戦争神経症の存在を否定できなくなると、「戦争そのものによって発生した精神病はほとんど認められず、もともと病気であったり、潜在的なものが発病したに過ぎない」といって、本人の素因のせいにします。挙句の果てに、「年金欲しさの外傷性神経症(事故や災害による受傷後に生じるとされた神経症の総称)」などと詐病のように言う始末で、読んでいて疲れました。

そして精神神経疾患を患った人は「『事故、災害を孕み、他人を不安、恐怖に導』く『職場の攪乱者』になるとして問題視」し、スクリーニングを行って排除しようとするようになるわけです。このやり方が「産業や大学といった組織の秩序を維持するための技法として戦後も生き延びることになった」わけです。

それこそ現在でも仕事を通じ精神を病んでしまったり、過労死に追い込まれたりしてしまった人々への視線が往々にして冷たいのは、ここに原点があるのかもしれません。


コラム① 重層的記録としての戦争体験記――東京空襲を記録する会・東京空襲体験記原稿コレクションを事例に(山本唯人)

東京大空襲を経験した著者の原稿と、刊行された『戦災誌』の違いから、様々なことを読み取ろうとする試みに触れたコラムなのですが、気になったのは、Aさんの原稿から編集で削除された部分。

「それにしても悲しく哀れな、私の人生の一頁である。/いま命あって二十六年、私は再びこのような思いを、誰にもさせることなく、平和な世界がいつまでも、つづいてくれることを、ひたすら願わずにはいられないのである」

とても良い文章なのに、『戦災誌』の編者はなぜ削ったんでしょうね。


コラム② 「癈兵」の戦争体験回顧(松田英里)

まず印象的だったのは、日露戦争の「癈兵」(いわゆる傷痍軍人)の一人の言葉。

「社会は帰還一、二年の間は名誉の軍人だとか何とか謂って呉れたが其後は癈物同様な待遇より与へないではないか」

比べるのは少し変かもしれませんが、現代でも災害の被災者や紛争などの犠牲者について、発生直後こそ注目が集まり支援の手が差し伸べられても、あっという間に忘れられてしまうことと重なりました。

もう一つ考えさせられたのは、以下の一節。

癈兵にとって満州「権益」は、戦死した戦友や自分たちが払った犠牲の対価そのものであった。(中略)満州の「権益」が危機に瀕した際、戦死した戦友と自己の犠牲の「代償」として得られた土地である満州を手放せないという思いから、癈兵は対中国強硬路線を支持するに至ったのである。

満州は「日本の生命線」と言ったのは軍部ですが、本当に国外に生命線があるようなら、もはやその国は終わりだと思います。ただ、そのような筋の通らない主張を支持した人の中には、日露戦争を生き延びた癈兵たちがいたのだと気づきました。だからと言って、軍部の主張が理解できるわけではありませんが。


第5章 自衛隊と市民社会――戦後社会史のなかの自衛隊(佐々木知行)

戦後の自衛隊の民生支援についての説明が、まず興味深かったです。道路建設などを自衛隊が担うことですが、「訓練の目的」で行われるため、「料金は民間事業のそれと比較すると良心的」なので、「財政的な問題を抱えた地方の自治体にとって非常に魅力的」だったそうです。

今でも道路建設などを、自治体が自衛隊にお願いしている例はあるのでしょうか。もしそうなら、談合とかとは無縁かもしれません。でもあまりやりすぎると、自衛隊だか建設会社だか分からなくなりそうですが。

一九六〇年代後半、(中略)「基地公害」という言葉がメディアに現れ、基地対策の拡充を求める人々は、基地問題と産業公害問題との共通点、つまり、両者ともに国民の健康を顧みない過剰な経済的・軍事的活動を原因とする人災である点を強調した。政府・自民党と経済界にとって、基地と企業が戦後日本に平和と繁栄をもたらしたことは疑う余地がなかったが、その一方で、国民は両者に対する懐疑的態度を深め、これは、戦後日本の政治経済制度、さらに言えば、日本の近代化そのものに対する異議申し立てであった。

この異議申し立てが政治に反映されていれば、日本の歩む道は変わったかもしれません。しかし1970年制定の公害紛争処理法で基地公害が取り扱われなかったことに象徴されるように、異議申し立ては無視されたわけです。

環境整備法(中略)と防衛施設庁による関連事業を通じて国が行ったのは、あくまで経済的支援の強化であり、被害の原因となっている問題の完全な除去ではない(中略)。基地問題を主に経済的問題へと転換し、交付金を引き換えに自治体に基地の承認を求めることを意味した。つまり、基地周辺の住民を基地のもたらす経済的利益の直接的・間接的受給者にすることで、軍事基地と軍事活動に対する組織的な批判・抵抗を困難にし、基地を日常生活の一部として受け入れざるをえない社会構造を作り上げようとしたわけだ。

自衛隊基地だけでなく、米軍基地周辺に対しても、同じことが行われた、そして行われているわけですね。「基地という制度が特定の住民に忍従をしい、彼らの犠牲の上に成り立っている」ことだけは、せめて忘れたくないです。

犠牲については、以下の記事をご覧ください。


第6章 自衛隊基地と地域社会――誘致における旧軍の記憶から(清水亮)

第5章でも自衛隊基地について同じことが触れられていましたが、「警察予備隊・保安隊は工場や学校と同じく人口を増やし地域の『復興』に資する施設として認識されて」いたというのが、ちょっと驚きでした。

ただしもちろん「警察予備隊・保安隊から自衛隊への重装備化と相俟って、様々な補償によって損害を埋め合わせることを要する『迷惑施設』としての意味合いが強まっていく」わけですが。


第7章 防衛大学校の社会学――市民の「鏡」に映る現代の士官(野上元)

本筋とはちょっとずれた部分でまず印象的だったのが、以下の部分です。

2006年から一四年にかけてアメリカ軍によってイラクで実施された人文社会科学研究者の軍事協力、つまり部隊に人類学者や言語学者、宗教学者を同行させるというヒューマン・テレイン・システム

ナポレオンがエジプト遠征に様々な分野の学者を同行させたのと同じことを、今でもやっているのだなと思ったもので。ちなみにその時の成果が、ロゼッタストーンの発見や『エジプト誌』の編纂です。

以下の一節には、なるほどと思いました。

フィリピンにおいて(中略))士官学校教育がたんに士官の選抜・所得の上昇だけでなく、自分の生活を地位に見合うよう見直してゆくこと、すなわち上流・中流階級として暮らし、再生産してゆくようにすることを可能にする「文化資本」「象徴資本」の獲得機会を提供している(中略)。社会のエリート形成・再生産を士官教育が媒介している(後略)。

吉田茂の言葉も、印象的でした。

自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが国民や日本は幸せなのだ。

防衛大学校では現在、「卒業後即戦力として使えるように軍事学や訓練を重視した教育ではなく、アカデミックな一般教養を重視して、その知的な器を構築するような教育が施されている」そうです。確かにかえって一般の大学より多くの、人文社会科学専攻でも自然科学系科目の、理工学専攻でも人文社会科学系科目の単位の取得が求められているようです。

なぜならカリキュラムの見直しにあたって、

防大に対する要望として、社会現象間の複雑な因果関係や「人間性」に関する理解、歴史を始めとする一般的な知識の重要性が指摘された

からです。うーん、産業界からの要請に屈して、一般教養がないがしろにされている普通の大学より、防大の方が理想的な教育が行われているのかもしれません。


第8章 自衛隊と組織アイデンティティの形成――沖縄戦の教訓化をめぐって(一ノ瀬俊也)

この章では自衛隊による沖縄戦史研究について述べているのですが、唖然とするのは、それが結局「有事研究の一環であった」こと。つまり「かつての陸軍による住民への非遺行為」については、文字通りの反省は行われていないのです。

そして自衛隊内では、「最後まで軍民一致で戦い抜き『玉砕』を称揚する精神」を育むための材料として使われたようです。また、「成功体験としての戦史研究こそが軍事上合理的」という発想で行われるため、沖縄現地研修に参加したとある幹部学校の学生は、沖縄戦は軍官民が一体となって「美事な作戦が実行できた」という感想を持つことになります。呆れて、物も言えません。

まぁ、自衛隊の幹部学校の教官で、以下のような指摘をした人もいなくはありませんが。

沖縄戦の教訓の一つに「非武装・中立地区の宣言」を挙げ、「大東京以下多数の大都市については、状況によってはこのようなことも考えられるのではあるまいか」、「今日の国際情勢下における侵略対処を考える以上、心ある人々の深刻に考えておくべき一事項であろう」と指摘する。


第9章 「自衛官になること/であること」――男性自衛官の語りから(佐藤文香)

第5章に出てきた戦後の自衛隊の民生支援について、たまたまこの章でも触れられていました。

自衛隊は「国土建設隊」として土木工事を請け負い、農作業の手伝いや除雪作業などを通じて人々の役に立とうとしてきた。

何せ「一九五〇年代・六〇年代のスローガンは『愛される自衛隊』」なので。

ちょっと気になったのは、本書で言う「冷戦期世代の自衛官たち」が、「『全部訓練のための訓練みたい』で役立つという実感が持てない虚しさ」を抱えていたこと。また、冷戦期とポスト冷戦期世代の間にあたる「移行期世代の自衛官」の中に、「『報われない世界が自衛隊」なのだ」、「自衛隊は民間の世界に比べて『成果』が見えにくく、たとえ報われなくとも認められなくともよいと『自分を納得させる』必要があるのだと語っ」ている人もいます。そんな彼らが「やりがい」を感じるのは、例えば災害派遣で救助に出た際に人々から感謝を受けた」時だそうです。やはり「外から評価して」ほしいという気持ちを、強く持っているのですね。

第7章に出てきたフィリピンの話と重なるのが、以下の一節。

一般に、軍隊で勤務することは、民間市場において不利な立場にあるマイノリティにとっては利益をもたらす「架け橋となる環境」であると言われてきた。なかでも教育は、志願制下においても若者の入隊の主要な動機の一つであり続けている。

次のコラム③とつながりますが、以下の一節には、何となく涙ぐましいものを感じました。

少子高齢化で定年延長や募集年齢のひきあげを迫られている自衛隊は、二〇一七年に「二五万人広報官作戦」を打ち出した。募集業務を広報官任せにせず、全隊員が「自衛官の魅力を伝え、厳しい募集環境を総員の力で乗り越えよう」という一大キャンペーンである。

ちなみに本章の注によれば、「親が自衛官という自衛官は八.六三人に一人というデータもある」そうです。多いような少ないような、微妙な数字です。


コラム③ 「萌え」と「映え」による自衛隊広報の変容(須藤遙子)

このコラムは萌えキャラを含む「自衛隊|の≪、≫キャラクターに加え、自衛隊自身|が≪、≫キャラクター=「萌え」対象となって広報が行われている現状」に目を向けたもので、それらを合わせて「萌え広報」と呼んでいます。

問題の根底は、第9章にあったとおり、「少子高齢化で定年延長や募集年齢のひきあげを迫られている」ことです。だからこそ、時に批判を浴びつつも萌えキャラを使った自衛官募集ポスターを作ったり、人が集まるようなイベントをやったりしているわけです。

その結果、いわゆるオタクの皆さんだけでなく、多くの人がスマホでばしばし写真を撮ってSNSにアップし、自衛隊のイメージアップに貢献しているわけです。でもその結果はというと、「二〇年三月現在の自衛官充足率は九二%に留まり、減少傾向は止まっていない」そうで、やはり第9章の「二五万人広報官作戦」が、地道かつ着実なのではと思ってしまいます。


コラム④ 自衛隊と地域社会を繋ぐ防衛博覧会――小松市「伸びゆく日本 産業と防衛大博覧会」(一九六二年)を中心に(松田ヒロ子)

このコラムでは、「自衛隊の一般客向けのイベントのさきがけとも考えられる『防衛博覧会』」、特に小松防衛博に着目しています。

そもそも「一九五〇ー六〇年代にかけて全国各地で大小様々な防衛博覧会が開催された」ということを知りませんでした。防衛博覧会という名称もすごいですが、もっとすごいのは「自衛隊が所有する武器や兵器は、人間を殺戮する道具機械というよりは、むしろ進化する日本の科学技術を象徴するものとして展示された」ということ。

更に小松防衛博については、以下のように説明されています。

防衛館に展示されている車輛や銃器、戦闘機は、産業館で展示されている農業機械や電化製品と同様に、科学技術の進歩の成果物であり、それは消費者の生活を、地域社会を、そして国家を「明るい未来」へと導くものとして提示されたのである。

農業機械や電化製品と並列、かつ「明るい未来」へ導くものですか……。


全体を読み終わって思うのは、冒頭の「『シリーズ 戦争と社会』刊行にあたって」で指摘された、日本の社会構造についての検討を怠ったつけが、今出ているのだということ。今ならまだ検討すれば、遅ればせながら間に合うはずですが、しないんだろうと思うと、暗い気持ちになります。


見出し画像は、「コラム②」で触れられている日露戦争の「癈兵」たちが、戦跡旅行で訪れた場所の1つであろう、旅順の水師営の外観です。




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