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【エッセイ】デスクワークから肉体労働に転職して

「同行援護従業者」という仕事を知ったのは、今から3ヵ月前のこと。教えてくれたのは、弱視(ロービジョン)のリコさんだった。文字どおり、援護しながら同行する仕事。同行するのは視覚障がい者の方。「ガイドヘルパー」とも呼ばれている。

詳しく調べてみると、探していた仕事の条件にピッタリだった。太陽の光を浴びながら、体を動かす仕事。そして、人様のお役にも立てる、今度はそんな仕事に就きたかった。

資格を必要とするため、専門学校で研修を受けた。修了すると、就職先を紹介してくれたので、面接を受けたら、即採用。さっそく面接の2日後に、実務者研修が始まった。

リコさんがこの仕事を教えてくれてから、ここまでの間、1ヵ月。濃密な1ヵ月だった。

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2年前まで、日本語教師をしていた。授業中以外は、ほぼデスクワーク。業務内容は、日々の授業準備はもちろんのこと、中間・期末試験の問題作成や採点。クラス担任になると、進学指導も加わる。入学願書のチェックから面接練習まで。大学院を受験する学生には、研究計画書の書き方から指導する。

一番苦手な業務は、小論文の添削だった。毎週金曜日の1時間目と2時間目は、作文や小論文の授業。上級クラスの学生には、2時間で400字詰め原稿用紙3枚以上のノルマを課した。当時の私は、学生に厳しく発破を掛けていた、自分のことは棚に上げて……。

「2時間で3枚書けないと進学できませんよ」

しかし、教務室に帰ってくると、回収した原稿用紙の厚みにぞっとするのだった。1クラスの学生は20人。20人が3枚ずつ書いた小論文を、次の金曜日の朝までに添削しなければならない。

一筋縄では行かなかった。中国の漢字がたくさん出てくる文や、漢字が極端に少ない、ひらがなばかりの文や、何を言いたいのか全くわからない文を精読し、推量する。そして、適切な文に直す。1人分が30分で終わることもあれば、1、2時間かかることもあった。平日の夜も週末も、自室に籠り続けた11年間だった。

そんな日々の中で、年に数回訪れる課外授業は、本当に楽しかった。秋の課外授業は、ネズミたちの夢の王国へ行くことが決まっていて、毎年、開園から閉園まで学生たちと楽しんだ。

夏と冬の課外授業は、クラス単位で行先を決めることが許された。授業時間をつぶして、みんなで何度も話し合った。当日のコースを考えることも楽しくて仕方がなかった。

旅は想像を超えるようなことが起こる。
普段は無口な学生が、目に入る看板や道路標識について何度も聞いてきた。自己中な学生だと思っていたのに、「先生、王さんがいません」と教えてくれて、早めに見つけることができた。学生たちをもっと好きになることができた。

誰かと一緒に出かけることが、こんなに楽しかったということを、この年で再認識した。

時間が30年前に戻るとしたら、添乗員か、バスガイドか、乗り鉄のユーチューバーになりたい。

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話を2ヵ月前の実務者研修に戻そう。

研修は3日間あって、サービス責任者の指導を受けながら、実際に視覚障がい者の支援を行う。しかし、この私にできるのか不安だった。一番の心配は、電車やバスやエレベーターの乗り降り。自分の不注意で大ケガをさせてしまったらどうしよう。

1日目の利用者は、20代の女性。左側は見える方なので、電車もエスカレーターも介助は不要だった。私に求められたのは、「見えない右側」の一歩前を歩き、障害物や通行人に気をつけること。そして、食べるのが大好きな彼女と、食の会話を楽しむことだった。

2日目は、80代の全盲の男性。近所の歯科医院へ行く前に、喫茶店でコーヒーをごちそうしてくれた。帰宅後もおしゃべりは続き、玄関先でしばらく立ち話してから支援終了。

3日目、いよいよ難関がやってきた。50代の全盲の女性。クリニックへは、バスと電車を乗り継いで向かう。駅のホームから電車に乗る際、「ここです」と声をかけると、彼女は白杖をコンコンと当てて、隙間の幅を確認した。そして右足を大きく一歩出して……、乗れた! よかった!

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その後、1人でサービス支援を続けて、2ヵ月がたった。1日の歩数は、1万6千歩になることもある、私にとっては肉体労働だ。回を重ねるごとに、楽しさも感じられるようになってきた。

そんな私に夫が言った。
「本当に大丈夫なの? 方向音痴だし、地図も読めないよね?」

そうだった! 3ヵ月目の難関は、間違いなくこれだ。
どうする私?
どうなる私?

最後まで読んでくださり、ありがとうございました m(__)m あなたの大切な時間を私の記事を読むために使ってくださったこと、本当に嬉しく有難く思っています。 また読んでいただけるように書き続けたいと思います。