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逡巡のための風景12/たぶん、忘れてしまう

たぶん忘れてしまうから書いておこうと思う。

3歳の息子は寝る前に必ず、

「ユニコーンのお話して」

と言う。そのあとの下りは決まっている。

私「あるところにユニコーンの兄弟がいました。兄弟が歩いていると、向こうから仮面ライダーとウルトラマンがやってきました。みんなで力を合わせて戦ったので、悪者は逃げていきました。ユニコーンたちは家に帰ると、手を洗って、ごはんを食べて、おやつを食べて、お風呂に入って、歯を磨いて、お布団に入って眠りました。おやすみなさい、また明日。」

息子「いいお話だった。」

私「おやすみ。」

ちなみにこれは消え入るようなウィスパーヴォイス(ささやき声)で言わなければダメで、たまに間違えて普通の音量で言うと「いいお話だった」の返答がなく、しばらくしてから「・・・・聞こえなかった」(逆に?)と言われてやり直しさせられる。

そういえば娘が3歳くらいの時も、何かこれに近い謎のルーティーンがあったような気もするが、そういうことも、6歳になった今では忘れてしまった。たしか「ココちゃん馬うま」という名前の馬の話をさせられていたような・・・。(ごっこ遊びにせよ何にせよ娘のほうが演出が厳しく、演出家の言うとおりにしないと激怒されたのを思えば息子はわりと寛容だと思う。)

子育て日記的なものは他人から見ればどうでもよいことだと思うし、私もあまりマメではないのであまり記録が残っていない。だけど、こういう、ある一時期にはあまりにも習慣になりすぎて飽ききったものを、しばらくしたらすっかり忘れてしまう。目の前にどんどんどんどん、新しいいろんなことが現れて、覚えておかなくちゃいけないことばかり、てんこ盛りに人生は進む。

ここ数年、お年寄りと話すことにずいぶん慣れてきた。お年寄りは認知症といわれる状態だったり、そうでもないけどいろんなことを忘れやすくなったりしているけれど、そんなの当たり前だと思う。何十年と、どれだけたくさんのことをてんこ盛りに記憶し対応しながら人生を歩んできたのだろう。思いつきで何か質問してみると「忘れちゃった、そんな昔のこと」と笑われたりするけれど、そりゃ、そうだよな、と思う。

覚えてるか忘れてるか、は、だけど、そんなに大事なことでもない気がする。たとえ忘れてしまっていたとしても、そんな幾千万のものごとの積み重ねがあって今がある。尊いことだなあと思う。

今ではそこそこ認知症の進んでいる父が、かれこれたったの2年前くらいだろうか、もっと最近かもしれない、公園で無邪気に遊ぶ孫たち(私の娘と息子)を眺めながら、

「こういうのも忘れちゃうのかなあ・・・」

と呟いた。その時の父はまだ「忘れてしまう」という感じではなかったけれど、状況にあらがうような幾多の言動とは裏腹に、自分の身に迫りくる老いを噛み締めてわかっていたんだと思う。

記録に残すことが私は苦手だ。記録からこぼれ落ちながら輝く幾多のものごとを、私たちはどんなふうに抱きしめていればいいんだろう。

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