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がんばっても報われないときこそは

なんだかすごくいろんなことがあった。
参議院選挙やら、その投票日直前の「安倍晋三暗殺事件」やら、ほかにも、子どもの小学校でのなんだかなあと思うできごととか、いろいろ。

「暗殺事件」の被害者が英雄だったのかそれとも諸悪の象徴だったのかについてはきっと立場によっていろんな見えかたがある。歴史はきっとずっとそんなふうにして紡がれてきたと思う。

こんなとき、わがまち福知山の英雄、明智光秀のことが思い出される。私は小中高校時代、歴史の授業ってめちゃめちゃ苦手だったのでうる覚えだけれど、平成の日本史教育ではたぶん明智光秀ってめちゃめちゃださめのカッコ悪めのありえなめのしょぼめのキャラとしてぞんざいに扱われていたように思う。(ちがったらごめんなさい、あるいは地域差があるのかも。)それは織田信長が最強イケメン超英雄という視点がメインストリームだったからだ。そんな時代にあっても明智光秀を慕い続けた(たぶん)福知山の人々はきっと悔しい思いをしてきたんじゃないかなと思う(たぶん)。・・・たぶん・・・と曖昧なことばかり書いてしまったけれど、要は、歴史は語り手の立場によっていかようにも見えかたが変わるということ。とくに政治家にまつわるあれこれは。。。大河ドラマってあんまり観たことがないけれども、あれは概ね、政治家にまつわる悲喜こもごもの物語だよね?いや、政治って・・・ドラマチックよね!

政治家のイメージってだいたい「カネと権力」みたいなところがあるけれど、ほんとうにカネと権力のために人生を賭けれる政治家ってそんなにたくさんいるのかしら?お商売が好きで好きで、金勘定が大好き、というひとがビジネスでお金を儲けていくのはなんとなくわかる。でも、政治家の仕事ってちょっとそういうのと違うよね。ほんとに「カネと権力」がほしい人が、そのためにわざわざ政治家っていう職業を選ぶかな?

私はそうじゃないんじゃないかと思い始めている。

思うに、多くの政治家は、「それが正しいと思って」やっているんじゃないかと思うんだよね。「カネのため」とか「権力のため」というよりも、「正義のために」「それが世の中のためになっていると信じて」やっているんじゃないかと思うのだ。
「いやいや、そんなわけないだろ」と思うようなことをやっている政治家はとても多い。茶の間から見ればそうだ。でも、その人の視点でその人なりには、それは正義のためなんじゃないかと思うんだよね。「正しさ」はそんなにも、何百通りも何万通りもある、つまりはまあまあ脆いものだということなんじゃないかと思う。

ならば、「よい政治家=正しい」じゃ、ないような気がする。決めたことにむかって一定期間突き進む潔さはきっと大切。でも時々は立ち止まって「もしかしてこれが正しくないのではないか」という逆の視点を忘れずにいること、逆の意見にも耳を傾けること、それがきっと、大切なんじゃないのか・・・・。

そんなことを思ったりする。(最近、「この人はよい政治家だったんだろうな」と思える「元政治家」のおじいちゃんに出会ったことも大きい。)

世の中って理不尽だ。
世の中は、がんばればそのがんばりに比例して今すぐ報われるというようなシンプルなしくみにはできていない、と、思う。

個人的には、今回の「暗殺事件」の加害者にとってはこの世があまりにも理不尽で、もしかしたら通りすがりの何者でもない誰かに対してさえ殺意を抱いたかもしれないのだから、ましてやその理不尽さをつくりあげてきた象徴みたいな張本人が目の前に現れたら、それは、そうなってしまうこともあっただろう、と思う。それが人を殺していい理由にならないとしても、いつも思うのは、加害者が加害者になってしまうしかなかったその道のりは軽視してはならないということ。

そのあたりは妻夫木聡主演の映画『悪人』をぜひ。そして「あなたどうせ茶の間でおせんべい食べながらそういう映画観て泣いてるだけでしょ」って思われるかもしれないけど、そうじゃない。20代の海外生活時代、私の身近には、この世の理不尽をすべて引き受けて悪人になった人がいて、私はそういう現実から立ち直ることができなかった。理不尽な現実にいちど触れると、それを知る前の無邪気な子どもには戻ることができない。そうやって理不尽さに絡め取られてしまいそうになるけれど、そんなとき私は中島みゆきの『ファイト!』を歌う。

ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴らが笑うだろう
ファイト!冷たい水の中を
震えながらのぼってゆけ

「ファイト!」という言葉でいいのだろうかと一瞬迷うけど、一周回って「ファイト!」でいいんだと思う。がんばってない人ががんばってる人に向けて放つ「ファイト!」ではきっとダメだけれど、がんばっても報われない自分やそれと同じようにどこかでがんばっている誰かに向ける言葉はやっぱり「ファイト!」でいいんだと思う。

世の中はほんとうに理不尽だから、がんばればそのがんばりに比例して今すぐ報われるというようなシンプルなしくみにはできていない。でも、がんばってもがんばっても報われないと思えてしまうときこそ、違う方角へ走ってみたり、違う方角へ耳をすましてみたり、そのための気力体力を養ったりすることが大事なんじゃないかと思う。それでもほんとうにほんとうにほんとうにほんとうに報われないということは、最終的には、ないんじゃないかと私は思う。この世の中はそこまでいじわるにできていないと、私は信じてる。がんばってもがんばっても報われない人、今は報われていなくても、そういう人を神さまとか仏さまは、見放してはいない。

別の方角に、耳を澄ませ。


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