見出し画像

「女の子への差別解消」を訴えるラジオの声に潜んでいた、根深い差別意識

※アメリカ映画『リサの瞳のなかに』(1962年)は、障害児施設で、知的障害の少女と、知能は飛びぬけて高いけれど病的な潔癖症の少年が出逢って、互いに心惹かれ合い生きる喜びを見出す物語です


善意から発せられた、誤ったメッセージ

 今(この稿を書き始めた1923年12月)、ラジオからよく聞こえてくるメッセージに下のようなものがあります。
 優しく柔らかな口調で語りかけるのは長澤まさみさん。長澤さんは私のお気に入りの女優さんのひとりです。『ロボコン』(2003年)は良かったなあ。まだ16歳でしたが、可愛いだけでなく俳味(はいみ)のある演技で楽しませてくれました。
 そのメッセージの内容は、こうでした。


わたしに違う人生があることすら知らなかった。

世界にはそんな女の子たちが大勢いる。
早すぎる結婚をし
家事や育児のために学校に通わせてもらえない。

でも
学ぶ機会がなければ
それが女の子に対する差別であり
チャンスを奪われているということもわからない。

自分の可能性を知ることすらできない
すべての女の子たちへ。
人生を切り拓くための学びを。

プラン・インターナショナル

※この後に男性の声で「ACジャパンはこの活動を支援しています」というナレーションがあって、このメッセージは終わります。



 プラン・インターナショナルとは、子どもの権利を擁護し、子どもたちが貧困や差別に苦しむことのない社会を実現することを目的とする国際NGO(非政府組織)のことで、世界70カ国以上で活動しています(ACジャパンは日本広告機構のこと)。
 プラン・インターナショナルの目的は、疑念の余地なく正しいことであり、私はこの団体の活動を応援したいと思っています。

プラン・インターナショナルジャパンの皆さん。この
組織の目的は素晴らしい、と私は思っています


 しかし、あえて言います。
 プラン・インターナショナルは、このメッセージで、明らかに間違ったことを訴えています。
 そのために、ほとんど無意識のうちに間違った価値観を刷り込まれてしまった聴取者は、決して少なくはないでしょう。
 なぜ間違っているのか。
「どんな人生が良い人生なのか」という途轍(とてつ)もなく難しい(はっきり言えば「唯一の正解」などあるはずがない)問題に、あまりにも短絡的な答えを出し、その乱暴に単一化してしまった価値基準を押し付けようとしているからです。世界中の女の子たちに。
 紛れもなく真摯(しんし)な善意から発した言葉であることは認めますが、動機が善意であることは、誤った表現や広報宣伝を正当化する理由にはなり得ません。


「早過ぎる結婚」が意味するもの

>わたしに違う人生があることすら知らなかった。

 世界にはそんな女の子たちが大勢いる。
 早すぎる結婚をし
 家事や育児のために学校に通わせてもらえない。

 ここで言う「早過ぎる結婚」とは何を指しているのでしょうか。
 お気づきのとおり、ここでは結婚と〈出産・育児〉がセットとなって捉えられています。いろいろな事情でそうしたケースに当てはまらない方も多くいらっしゃるのは当然のこととして、セットとして捉えること自体は不自然でも不合理でもないでしょう。わが国の民法条文の多くもそうした前提の下に構成されています。
 医学的に、女性が「妊娠可能になる時期」と「出産可能になる時期」は明らかに異なります。
 前者は、個人差はありますが、ほぼ10歳~15歳頃。9歳でそうなる子もいます。しかし、あまりに早い時期の妊娠・出産は母体にとって危険が大き過ぎます。
 身体が成長しきっておらず、臓器もまだ小さいので母体に強過ぎる負荷がかかるからです。
 1933年にペルーのリナ・メディナさんという女性が5歳7ヵ月で男児を出産したという記録がありますが、骨盤が小さすぎて通常分娩が不可能だったため、帝王切開が行なわれました。
 わが国の戦国時代には、大名家間における政略結婚の場合、花嫁の年齢が8歳とか、ときには5歳といったことも珍しくありませんでしたが、身体的成熟を待ってしかるべき年齢に初めて生殖行為を行なう、という暗黙のルールはしっかり守られてきました。
 別に戦国時代のわが国に限ったことではありません。人類は愚かな生き物ですが、ごく希な少数の異常者を除けば、その程度の分別は自然に体得しているものです。

インドの若いお母さんと、その赤ちゃん


 15歳を過ぎれば大体において、16歳を過ぎれば特別な身体的事情がない限り確実に、出産可能と見なして良いでしょう。15歳くらいで身長の伸びが止まった女性は、そうでない女性よりも多いことと思います。
 プラン・インターナショナルのおっしゃる「早過ぎる」とは、上述のような「母体にとって危険だから」と言う意味ではありません。
 明らかに15歳前後(わが国では義務教育終了前後)の年代のことを意味し、「結婚なんかしないでその年頃は学校で勉強することが正しい」と主張しているのだと思います。

産婦人科医の応援メッセージに共感

 どうしてそんな価値基準を地球的基準(グローバル・スタンダード)として決めつけることができるのですか。
 TVドラマ『3年B組金八先生』で、杉田かおるさんが15歳で妊娠してしまった中学生を演じたとき、作中の関係者たちは想像もしなかった事態に慌てふためき、動揺が走りました。しかし、そんな中で、おばあちゃん世代に当る女性(明治生まれと思います)が、女子中生に、優しく語りかけます。
「昔は15歳で子どもを生むのは普通のことだったのよ」と。
 童謡『赤とんぼ』(三木露風作詞、山田耕作作曲)にも、
「十五でねえやは嫁に行き」
 とあるとおりです。
 アメリカ映画『ゆきすぎた遊び』(1959年)も、15歳の少女の妊娠をセンセーショナルに扱った作品でした。

キャロル・リンレーさんも私のお気に入りの女優です。とても清楚な雰囲気があって、日本人好みの顔立ちをされていたと思います。製作のチャールズ・ブラケットは、私の心の師ビリー・ワイルダーとコンビを組んで『サンセット大通り』(1950年)などの脚本を書いてきたシナリオ・ライターでした
キャロル・リンレーさん


 ここでも事件化のもととなったのは「医学的な母体の危険」ではなく、「社会的に早過ぎる」ということでした。ドラマ展開を論理的に見れば、問題は母親のほうではなく父親の年齢(その責を果たせるのかという点)にありました。
 当時も今も、こうしたことがらについて「社会的に許容され得るか否か」という基準は、その地域や文化や慣習によって異なります。世界的に統一された基準などありません。無理に統一しようとすることは間違っています。
  むしろ世界に通ずる一般論としては、こういうことが言えると思います。
 産婦人科医の柴田綾子先生の言葉です。
「若年妊娠・出産は決して悪いことではありません。新たな生命を宿し、母親になるということは素晴らしいことです。ただし、体も心も大人になる準備をしている中での妊娠・出産は、色々な危険や困難があることを、ぜひお子さんに伝えてあげてほしいのです。」(「医師専門家×クリエイターによる家庭でできる性教育サイト」から)
 ここで言う「若年妊娠・出産」とは、20歳未満のそれのことを指しています。
 柴田先生のおっしゃることに私も強く共感します。

誰しもが「他の可能性」を知らずに生きている

 冒頭の言葉について考えてみましょう。
 私だって、自分に違う人生があること(ここではイコール「あるという可能性」とみなして良いでしょう)を知っていません。
 地球人類はみな、ひとりの例外もなく、それを知ることなく生涯を閉じます。
 あたり前です。
 人はみな、ひとつの人生しか生きることができないのですから。
 ジェフリー・アーチャーの小説『運命のコイン』は、ロシア国家の弾圧を逃れてアメリカに渡った青年アレックスと、同じくイギリスに渡った青年サーシャを主人公とした物語ですが、この二人は同一人物です。ひとりの人間が同時代に二つの人生を生きるというファンタジックな(「多元宇宙論」的視点から見ればSF的な)設定の下に描かれていた作品です。

作者のジェフリー・アーチャーは、貴族院議員を経て、保守党代表としてロンドン市長の座を目指していたときに偽証罪と司法妨害罪の罪に問われ、3年間の刑務所生活を送った人です。小説家として多数のエンタメ作品を出版しており、『運命のコイン』は出所から15~16年後の作品です


 タイトルは、主人公の運命の枝分かれを決めたコイントスを意味したものです。両者はその後まったく異なる人生の軌跡をたどります。
 この小説が逆説的に図式化しているように、人がどんな人生を歩むか、ということには、生まれた場所、両親がどんな人か、育った・暮した地域、そして時代等々といったことが、決定的に大きな要因として作用します。
 個々人の自由意志は、これらの要因をも超克するほど大きなパワーとなることはあり得ません。なぜならば、自由意志そのものが、例外なくこれら諸要因の中で形成されるものだからです。


「わからない」ことを確定するパラドックス

>でも
 学ぶ機会がなければ
 それが女の子に対する差別であり
 チャンスを奪われているということもわからない。
 
 この4行は、私たちのように日本社会に生きる人間がサラリと読めば、ごく常識的な正しいことを言っているように受け取れるものです。
 しかし、前後の文脈に照らし、注意深く読んでみれば、明らかにパラドックス(逆理)を含んだ文章です。 

このSF小説は「タイム・パラドックス」を最も良く具象化した作品と思います


 3行目の「それ」が何を指すのかと言えば、前段に記された「早過ぎる結婚・家事・育児のために学校に通わせてもらえない」状態であることは明らかです。
 しかし私は、日本社会では高校や大学に進学してあたり前の時期に結婚・出産し、日々育児や家事に努めている、異なる文化の国に生まれた女の子たちの状態を一律に「差別」と呼ぶのは間違いだと思います。
 良いですか。
 この文中にいみじくも示されているように、その女の子たちは「わかっていない」のです。すなわち、自分が置かれている状態を「差別」とは思わず、あたり前のこととして受け容れています。
「通わせてあげなかった」親たちも、圧倒的大多数は意図あってそう強制したわけではなく、ごく当たり前に、その共同体やその文化の人たちがそうしているような生き方を子どもに指し示しているだけです。
 論理的に言えば、確かにそうした10代の母親たちは「学校で学ぶ機会を奪われている」と言えます。しかし、同じく日本の女の子たちだって奪われています。10代で母親となり子育てする喜びを。また、確率的に玄孫(やしゃご=孫の孫)の顔を見る喜びを得る可能性を。
 

差別とは何か

 日本社会とは異なる共同体や文化の中で、10代半ばで結婚し、学校に通っていない女の子たちは、同時期に高校に通っている日本の女の子たちより劣った存在なのでしょうか。
 そうした社会は、日本よりも劣った社会であると言いきれるのでしょうか。
 私は、そうした決めつけこそ差別であると思います。
 差別とは何でしょうか。
 私は、それは「劣っていない人を劣っているとすること」だと思います(この定義は別に私の創見ではありません)。
 もちろん、「多くの人が自分の置かれた状況を受け容れ、差別だなどと思ってもいない状態」が差別であることはあり得ます。
 南北戦争前後のアメリカ南部を舞台としたマーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』には、多くの黒人奴隷が登場します。しかし奴隷制度に反発したり疑問をもったりするキャラクターはひとりもいません。みなが白人に従うべく位置づけられた自分の境遇を、醇風美俗(じゅんぷうびぞく)として受け容れ、満足していました。むしろ激しく憤ったのは、黒人解放のために進軍してきた北軍兵の露骨な黒人蔑視のほうでした(そのような事例も、おそらく現実にあったのでしょう)。
 南部における黒人奴隷のすべてがそうであったわけなどないのですが、現実に、一度も鞭打ちなど課せられず、貧困も味わわず屈辱感もなく、主観的には幸福な生涯を送った黒人奴隷も、確かにいたのだろうと私は思います。

ミッチェルの小説を映画化した『風と共に去りぬ』(1939年)の一場面。主人公スカーレット・オハラを演じるヴィヴィアン・リー(左)と、そのメイドのマミーに扮したハティ・マクダニエル(右)。マクダニエルはこの役でアカデミー助演女優賞を受賞しました。黒人がオスカーを得たのは、男女・部門を問わず、彼女が初めてのことです


 けれども、そのような黒人奴隷の場合、本人が無自覚であったとしても、差別の中で生きている、差別され続けている存在です。
 奴隷制度そのものが、人工的に設計された悪の差別的構造に外ならないからです。
 では、世界に数多くいる〈早くに結婚しそのために学校に通っていない〉女の子たちは、人工的な悪の制度によってその状態に置かれているのでしょうか。
 具体例を私は知らないのですが、そのようなことも論理的にはあり得る、と思います。
 しかし、大多数の女の子たちはそうではないはずです。彼女たちの状態は、気候風土、風俗習慣、歴史的経緯、宗教、そしてもちろん経済環境など、ひとつの根本原因を指し示すことなど不可能な、さまざまな要因が絡まりあった結果として、今現に存在しているのです。

何を以て〈良い・優れた生き方〉とするのか

 日本の女の子たちはなぜ高校へ行くのか。
 これは女の子に限らず男の子だって同じことですが、「みんなが行くので私も行くのがあたり前」と思っているからです。行かせる親の意識も同様でしょう。
 少し古いデータですが、令和元年のわが国の高校進学率は98.8%です。大学(短大も含む)の進学率は女子が男子を上回っています。
 ずいぶん昔のことになりますが、私だってこれといった目的意識もなく義務教育終了後は高校に進学しました。

明治政府高官黒田清隆のはからいにより、日本初の女子留学生として渡米した津田梅子。帰国後女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設します。黒田清隆は初代伊藤博文に次いで第2代内閣総理大臣となった人ですが、妻を日本刀で斬殺したという有力な説があります(中公文庫版『日本の歴史』では、その事件を確定した事実としていました)


 もちろん、世の中には、私みたいにものごとを深く考えない人間ばかりでなく、(ラジオ・メッセージの後段の文のように)「人生を切り拓こう」という勁(つよ)い意志をもって進学する女の子も(もちろん男の子も)数多くいたと思いますし、今もいると思います。
 それは素晴らしいことです。
 しかし、世界に数多くいる10代で結婚・出産した女の子(というより母親)の「この子を素晴らしい人間に育てたい」という思いは、「学校教育を受けることによって人生を切り拓きたい」という思いよりも劣るものなのでしょうか。


「世界を良くする」ことには時間がかかる

 巨視的に見れば、私も、世界中の女の子たちに高等教育を受ける機会が増えて行くこと、教育を受ける権利を確かなものとする女の子たちが増えて行くことは、明らかに良いことだと思います。
 それは、私がこれまでに述べてきたことと矛盾しません。
 なぜならば、それは貧困の解消と、正比例ではなくとも強い正の相関関係にあるからです。
 貧困は、悪です。
 その悪を地上からなくそうとするのは、もちろん良いことです。しかしそれは、貧困の一掃こそが目的なのであって、男女を問わず「教育」のほうを主目的とするのは主客転倒の沙汰です。もちろん、教育の普及や高度化は、貧困解消のための大きな道筋のひとつとなります。
 しかし、それを実現するのは、希望の種子を丹念に蒔いて行くことによってなされるべきことで、性急な価値観の押しつけは、むしろしてはならないことです。種蒔は、何世代にもわたる作業になるかも知れませんが。

ミレーの名画『種蒔く人』は、わが国では岩波文庫のシンボルマークとして知られてきました 

「可能性」は学校教育だけではない

>自分の可能性を知ることすらできない
 すべての女の子たちへ。
 人生を切り拓くための学びを。

 プラン・インターナショナル


 この3行は、(世界中の)すべての女の子を対象とした言葉です。
 と言うことは。
 ここでは、既述のような学校教育による学びを得られなかった、しなかった女の子たちの人生は、可能性が切り拓かれない(=閉ざされた)人生である、と言いきっていることになります。それは「不幸な・暗い人生」に置き換えても何ら差しつかえないでしょう。
 はっきり申し上げます。
 その決めつけは、疑念の余地なく差別です。
 このメッセージのナレーターを務められた長澤まさみさんの最終学歴は高校卒業です。しかし、長澤さんの人生が、4年制大学に進んだり、その後さらにアメリカに留学してMBA(経営学修士号)を取得したりした同年代の女の子たちより、可能性を閉ざされた「不幸な・暗い人生」だなんて思う人は、誰もいません。 

数々の映画賞を受賞されてきた長澤まさみさん


#リサの瞳のなかに #知的障害#長澤まさみ#プラン・インターナショナル#国際NGO#早すぎる結婚#学校教育#グローバル・スタンダード
#金八先生 #赤とんぼ#キャロル・リンレー#若年妊娠#若年出産
#ジェフリー・アーチャー #運命のコイン#自由意志#パラドックス
#玄孫 #風と共に去りぬ#ハティ・マクダニエル#奴隷制度#黒人奴隷
#人生を切り拓く #高校進学率#津田梅子#貧困の解消#差別とは何か

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?