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「情報発信」3ヶ月目を迎えた地域おこし協力隊員の頭の中|2024.立春・東風解凍

節分を迎えて、春がやってきた。

節分のお稽古でいただいたお菓子たち

■ 東風解凍(はるかぜこおりをとく)


このnoteを書いている【二十四節気七十二候】も、立春の初候であるこの「東風解凍(はるかぜこおりをとく)」が第一候。待ちわびていたが、わたしたちのもとへ。

【立春】一年のはじまり。春の兆しがところどころで見られる頃。
初侯:東風解凍(はるかぜこおりをとく) 2月4日~2月8日
次侯:黄鶯睍睆(うぐいすなく)2月9日~2月13日
末侯:魚上氷(うおこおりをいずる)2月14日~2月18日

茶道手帳2024

・季節ごとが、好きすぎて

そんな春の訪れを楽しみに、節分は毎年お茶のお稽古に行って気持ちを引き締めてくることにしている。お客さまとの一期一会の時間を大切に、季節の移ろいを楽しむ茶室は、わたしの心を元気にしてくれるので。

先生の手元、あたたかくて大好き

「ごきげんよう」と先生のもとへ向かい、水屋でお稽古の準備をしていると先生がぎゅっと背中を抱きしめて「おかえり」と言ってくれる。こうやって、帰りたい場所があるから、わたしは移住だって転職だってえいやっと踏み出すことができるんだろうなと思う。

Kurashiki Christmas Market 2023
我が家のおせち

クリスマスにはケーキを食べたいし、年越しには除夜の鐘を鳴らしたいし、お正月には初詣に行きたいし、節分には豆をまきたい。わたしは、季節の行事というものが好きすぎる。

・季節ごとと、前職「特別支援学校教員」

幼い頃から実家の母がこういう年中行事を大切にしてくれる人だったことも、影響しているのだろうか。そんな母は元幼稚園教諭で、そしてわたしもほんの数か月前までは特別支援学校の幼稚部・小学部で教員をしていた。

教員時代のほとんどを過ごしたろう学校幼稚部の子どもたちは、「言葉」の獲得が大きな課題になる。なぜなら、自然に誰かが話す言葉を聴き取ることが難しく、大人が意識的に言葉を見せないと言葉を知る機会がないから。

このときの「言葉」については諸説あるけれども、わたしは日本語だろうと手話だろうと、どちらでも良いと思っている。まずは、モノには名前があって、気持ちにも名前がつくということを「知りたい」と思うこと。

そういう、好奇心をくすぐりながら家族以外にも自分を愛してくれる人がいるということを感じてくれたらどんなに良いだろうと、常々思って仕事をしていた。

ひと昔前、わたしが幼い頃は「訓練」と呼ばれていた時間は「活動」へと名前を変えて、生活や遊びを通して言語活動を促している。その「生活」と年中行事は切っても切り離せないものなので、教員時代は常日頃から七夕にもハロウィンにもクリスマスにも全力で取り組んできた。

だから、転職をするにあたってもライターという、やっぱり季節のイベントを全力で楽しんで情報を発信する職種を選んでしまったみたい。おかげで、クリスマスマーケットに行けたり、春の訪れを楽しむウォーキングイベントに行く予定があったり、それらをとても楽しみにしている。

少なくとも地域おこし協力隊の任期中は、まだまだ年中行事を感じながら生活ができそう。我ながらよい仕事を見つけたなぁと思う。

■ そろそろ「書く」を仕事にしたくなって

最近「せっかく安定した公務員という仕事があったのに、なんでわざわざ任期がある地域おこし協力隊に転職したの?」と、よく尋ねられる。

そうなのです。

地域おこし協力隊は、自治体から委嘱を受けているだけで立場としては自営業のようなもの。わたしの場合は受け入れ先が一般社団法人のため、所属している組織はあるものの、任期は最大で3年で保険も国保になる。(わたしは、教員時代の保険を任意継続しているのだけれども)

それでも転職を決意したのは、ただただ文章を仕事にしたかったから。

・「書くことが好き」と思うようになったのは、いつからだろう

小学1年生の頃、学校の宿題に「日記」を書くことがあった。わたしの通っていた小学校は、毎年児童全員の作文を製本して文集を作るような、文を書くことに力を入れている学校だった。

そんな学校だったからだと思う。小学1年生の、ひらがなを全て習ったかどうかくらいのタイミングから、毎日「日記」を書いて担任の先生に提出することが当たり前になっていた。その日記帳には、毎日ひと言コメントが書かれていた。

「〇〇ちゃんと、公園であそんだよ」と書けば「楽しく遊べてよかったですね」、「妹と、ケンカをしたよ」と書けば「ちゃんと謝ることができて、えらかったですね」とかそんな感じ。こうやって毎日、先生が必ずわたしだけのためにコメントを書いてくれることが嬉しくて、ほぼ毎日書き続けた。

倉敷珈琲館のアンティーク家具が素敵すぎるのです。

当時のわたしの日記は、難聴児特有の「きこえにくい音が多い助詞が抜けている」文だったり「聞き間違いをしてしまったせいか、正しくない単語」で書かれたものも少なくなかった。

例えば、「妹泣きました」と書きたかったのに「妹泣きました」と書いてあったり、「オルゴール」と書きたかったのに「オムゴオル」と書いてあったり。今読み返してみると、わたしでも自分が何を言いたかったのかよく分からないものも、たくさんある

それでも担任の先生は、わたしの日記に大きなまるを書いてくれた。そして、わたしの文章に二重線を引いて訂正するなんてことはせずに、一言欄で「妹が泣いたんですね」とか「オルゴールを買ってもらえてよかったですね」とかサラッと正しい見本を示してくれた

そんなこともあって、当時6歳のわたしは自分は書きたいことをある程度なんでも文章に書くことができると思っていたし、文を書くことはむしろ得意だとさえ思っていた。だから、毎日「日記を書く」という宿題は、好きな宿題のひとつだった。

・文を書く才能はなくても「書いたものを読んでもらうことが好きな子」にはなれる

多分、わたしが今このnoteのように自分以外の誰かが読める媒体で文章を書くようなオトナに育ったのは、初めて書いた文章をそのまんま受け止めてくれる人がいたからなんじゃないかと思う。否定されずに受け止めてもらうって、本当に大切なことなんだな

おかげで、文章を書くことは相変わらず好きだし、自分の書いた文章を誰かに受け取ってもらえると嬉しいなと思う。多分それは、日記を書き始めた頃に必ずわたしの文章を読んでリアクションをくれた担任の先生がいたから。

そして、文章を通して温かい出会いがたくさんあって。そのうちのひとつが、この倉敷市地域おこし協力隊だった。

教員という仕事もそれなりに楽しくしていたけれども、大学院時代に修士論文を書いたり人の論文を添削したりする経験を通して漠然と「書くこと」が仕事になったらいいのにな……と思うようになっていた。

・障がいのある当事者のことを市民に知ってもらうことが、わたしたちの生きやすくなる術のひとつだと思っていて

たまたまろう学校という同じ障がいのある後輩たちを指導する機会に恵まれたけれども、当事者の大人を目にしたことのない聴覚障がい児はこの世界にごまんといるだろうと。

わたしもそのうちの一人だったので、ろう学校という狭い世界で数人の子どもたちと密にかかわる当事者と同じくらい、お耳の仲間のことをたくさんの人に知ってもらおうとする活動をする当事者も必要なんじゃないかと思い始めていて。

市役所行くたびに、空を見上げてしまう

わたしにとってそれはきっと文章なのだろうと。それで「書く」を仕事にしようと思っていたタイミングで友人に「倉敷で、情報発信の仕事をしてみない?」と誘ってもらって、今ここにわたしがいる。

■ 「第35回倉敷っ子なかよし作品展」の取材及びレポート記事を執筆しました

「書く」を仕事にする日々は想像以上に楽しくて、今のところ「挑戦してみてよかった!」の気持ちが勝っている。でもときどき、子どもたちと密に言葉を交わしながら過ごしていた日々も懐かしくて。

素敵な作品展だったな

懐かしさあまりに、倉敷っ子なかよし作品展の取材に行くなど。

こういう、活動を設定した教員のねらいを汲んだり、活動中の子どもたちの様子に思いを馳せながらレポートを書けるのは、教員時代に日々をがむしゃらに生きていたわたしがいたからで。

「 感じたことを、障がいのある当事者やその支援者たちの思いを文章で届けたい!」と思えるのは、わたしの「書くこと・読んでもらうことが好き」を育ててくれた人たちがいるからで。

児島から臨む瀬戸大橋の夕焼け

今までのわたしのおかげで、今ここにいるわたしがいるんだなぁと思うと、なんだかくすぐったい。

■ 最近は、来年度に向けてわたしの発信の軸をどんなものにしていくかを考える日々

わたしの関心事である

【季節の移ろい】 【障がいのある当事者の暮らし】 【障がいのある当事者を支援する人たち】 【音の世界と音のない世界の狭間でわたしが感じていること】

このあたりをまるっと網羅できるような、わたしを育ててくれた人たちからもらったわたしらしさのあるコンテンツを作っていけたらいいなぁ。

相変わらず日々朗らかに生きています

なんていう、長い長い独り言のような、地域おこし協力隊3ヶ月目の頭の中なのでした。


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