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新興写真とモダニズム建築

 白黒の陰影と曲線、直線、規則正しく打たれた複数のドットが目に入る。画面上部にはなんの装飾もない広い鉄板がばあんと存在していて質感が伝わってきそうなくらいに近いが、下部に行くにつれ遠近法で小さく写っている。その鉄板の両側には奥の方へぐわあんと延びた曲線が2本ある。その2本を繋ぐ梯子段のように横にまっすぐな鉄骨が一定間隔に平行に取り付けてある。左側の曲線が作る半円の中にも同じく横にまっすぐな鉄骨が一定間隔に並ぶ。それらの梯子段は何本も続くが奥の方では小さくなってしまい数えることができない。鉄板の表面には大量のネジがきれいに整列して留められている。大型建築であろうか? このダイナミックな曲線を見る限りアーチのように見える。色は白黒写真だから判断できないが、ただ明るく写っているので真っ黒ではないだろう。左下は影で黒くなってしまっている。右下の真っ白な背景は空かもしれない。
 これは写真家堀野正雄が撮影したある一枚の写真の説明である。堀野は美術評論家板垣鷹穂の指導のもと機械的建造物の撮影実験を行い、その報告を雑誌『フォトタイムス』で「新しきカメラへの途」として1930年から31年にわたって連載した。後にこの成果を写真集『カメラ・眼×鉄・構成』として出版した。そこに収録されたうちの永代橋を撮影した一枚である。

【図版 堀野、『カメラ・眼×鉄・構成』、2005、p. 28】


 この堀野の撮影した永代橋の写真は端的に美しい。広く堅牢な鉄板からは迫力が、長い2本の曲線からは躍動感が感じられる。この写真の美しさは、写真として切り取られ表現されるからこそより際立って感じられる、写真家の技術が可能にしているものである。では、堀野はどのような美学をもってこの写真を撮影したのであろうか。
 堀野は1907年に東京で印刷会社を営む両親のもとに生まれた。中学校に進級する頃に写真に興味を持ち始め、撮影や暗室での作業を始める。関東大震災の翌年、東京高等学校(現東京工業大学)応用化学科に通う傍ら、舞台写真の撮影をするようになった。大学卒業後、撮りためていた舞台写真で構成された初めての個展「堀野正雄個人演劇写真展覧会」を開催する。そして松竹キネマに入社し、広報用のスチル写真の撮影を行う。1929年、村山知義らと「国際光画協会」を、翌年には木村専一らと「新興写真研究会」を結成する。1930年、研究会の顧問となった板垣鷹穂のもとで機械的建造物の撮影を行い、31年にはグラフ・モンタージュを写真雑誌に発表するようになる。1936年以降は朝鮮、満州、中国各地で国策の宣伝広告の仕事を担うようになる。上海で終戦を迎え、戦後日本に帰国するも写真家としての活動することはなく、ストロボ会社を経営した。(金子、「堀野正雄略年譜」、1997、pp. 68-69)
 機械的建造物の撮影は堀野にとって新興写真からグラフ・モンタージュへ繋がる途上の方法であった。金子隆一によれば、写真の本来的な機械性への回帰が1920年代後半からヨーロッパで起こり、日本でもピクトリアリズムを否定しながら、写真の機械性に基づくリアリズムの表現を追求する新興写真の運動が展開された。その運動の旗手となったのが堀野らの「国際光画協会」である。同協会は「社会の生きた姿の視覚的手段に依る正確、迅速な指導者、記録者としての可能性をはっきりと認識すべきこと」と主張して、大量複製によるメディアとしての写真のあり方を模索したとのことである。(金子、「グラフ・モンタージュの成立 『犯罪科学』誌を中心に」、2003、pp. 157-158)
 堀野が機械的建造物の写真についてどのように考えていたのかを見ていきたい。ここで言う機械的建造物とはモダニズム建築のことであるが、東京では関東大震災後の復興で登場した建築群である。モダニズム建築は近代建築とも言い換えられ、『日本国語大辞典』には「産業革命後の工業の発展を背景に、過去の様式からの独立、機能主義などを主唱した近代建築運動によってもたらされた建築。科学的な工学技術を駆使し、工業生産による材料を用いて、機能的、経済的に設計される。」とある。また、『現代用語の基礎知識』には「20世紀初頭に生まれた機械の美学による建築のこと。装飾を排したシンプルな造形、抽象的なボリュームの構成、構造を強調したデザインなどを特徴とし、世界中に広がった。」とある。
 堀野は舞台写真を撮っていたため、当然その写真の被写体には人物が含まれる。人物は絵画でも定番のモチーフであり、人物にレンズを向ければピクトリアリズム的写真となりうるであろうことは想像に難くない。しかし、堀野は撮影実験と称し、機械的建造物にレンズを向けた。伝統的な人物という被写体から、関東大震災という大きな社会的出来事の後突如として東京に出現した機械的建造物にモチーフを変えた。これは被写体の性格からして大きな変化である。
 堀野は機械美について次のように語っている。

 最初、自然美の破壊者とのみ考えられていた機械は、今や人類生活のよき伴侶であり、啓蒙であり、建設である。従って機械に対する関心は、必然的に機械美を誘到した。合理的であることに最高の価値を求めることが、曾つて科学者の独断と思われていたが、今では夫の独断が一つの美の規範として開放された。合理的に純化したものが今や新しい美として我々に働きかける。従って合理化された機械が視覚的の芸術に扱われないはずはない。(堀野、「機械美と写真」、2009、p. 565)

ここでは合理的な機械が社会生活において重要になったために、それが新しい美として視覚芸術のモチーフになることの必然性が述べられている。機械的建造物は大規模な工事計画で建設されるが、それらはおよそ合目的的な造りである。無駄な意匠は削ぎ落され、堅牢性を備えている。機械的建造物が東京に増え始めて生活の中での役割も増したため、美の対象として人々がそれにカメラのレンズを向けるのも自然だろうということだ。
 また、同時代の文学者坂口安吾も機械的建造物について文章を書いている。

なぜ、かくも美しいのか。ここには美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から付け加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって、取り去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛び出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。(坂口、2011、pp. 35-36)

現在ではこのような機械的建造物はどの地域でも見られ、なんら新鮮な感動をもたらさないかもしれない。しかし、1930年代当時はまだまだ日本には農村に住む人が多くて、ほとんどの日本人は日本家屋などにしか親しみがなかったと考えられる。そのような社会状況の中で都市部に現れた機械的建造物からこのような美しさを見出していたのは堀野や板垣だけではなかった。
 その機械的建造物の撮影に堀野自身はどのような考えで臨んでいたのか。堀野は「機械的建造物の写真に依る性格描写は、カメラの機械的機能を極端に発揮すると同時に、先ず最初に、機械的建造物の特質を理解し、夫を把握することに依ってのみ可能である」(堀野、「写真に於ける性格描写――覚え書」、2009、p. 609)と述べており、実際に板垣の指導や外部の人間の協力のもと建造物について入念に考察してから撮影に入っていた。また、新興写真が目指す新しいリアリズムについて、「一、表現形式が、具体的に簡結明解でなければならない。二、表現形式を規定する技術は、機械文明の反映する合理的な観点に立脚しなければならない」(同上、p. 597)としている。合目的的な機械的建造物を論理的に理解し、それをカメラという機械文明を化学的にコントロールして簡結明解に写真に捉えるという姿勢であったと言えよう。
 では、それは永代橋の一枚の美学にどう反映されているのであろうか。永代橋という長く重い鉄橋を支えるためのアーチはその目的を果たすためだけに設置されており、無駄な意匠は施されていない。剥き出しの鉄板と鉄骨は意匠に凝っていたとしてもペンキの色だけであろう。無数のねじは隠されてもいないのだ。その無骨なアーチの鉄骨が描く曲線や直線、広い鉄板の面、それからねじのドットが画面全体を構成する。堀野はアングルの選択について「水平線上の視点から視ることが、必ずしも被写体の性格描写に成功するとは限らない。異端視されていた表現技法が、今や、最も如実な性格描写として、功を奏している」(堀野、「新しきカメラへの途1」、2009、p. 550)と主張しており、この写真でも対角線を意識してアーチをアップにしていて、さらに写真は地面を画面左側にして回転されている。これは「簡明にマテーリアルの性格描写を行うことや、直截的な形式で量的効果を表現すること」(堀野、「写真に於ける性格描写――覚え書」、2009、p. 597)に成功していると言える。
 また、「カメラという機械文明を化学的にコントロールして簡結明解に写真に捉える」ということについて堀野は、科学者の努力による感光板とフィルターの改良が進んだことによってモノクロームの写真はその機能を拡大することができて、「鉄の肌の視覚的特質は、写真の表現技法にその家庭と故郷とを同時に発見した」(堀野、「機械美と写真」、2009、p. 569)としている。このモノクロームの恩恵であろう明暗はアーチの鋼鉄の質感を写真に与えることに成功している。
 堀野は永代橋という機械的建造物の合目的的な意匠であるアーチの曲線を写真の画面の対角線として利用している。その大胆さは画面構成の気持ちよさを支える。また、このような構図で撮影するとアーチの遠近感も手伝って、手前の鉄板の迫力のある量感も捉えられる。何本も平行に並んだ鉄骨の直線や無数のねじのドットは、写真の画面内で単純明快な意匠として機能するが、それとして存在するだけではなくて、それらの陰影は画面内の被写体に立体感をも与える。被写体に合わせて選択されたモノクロームの写真はアーチの形状や光と影の明暗を捉えて、それらは鋼鉄でできたアーチの物としての質感を表現することに成功している。鑑賞者がこの写真から感じられる端的な美しさは、堀野正雄の写真の構成が際立たせて捉えた機械的建造物の機能美から来ると言える。

参考・引用文献
① 飯沢耕太郎,金子隆一.『堀野正雄』(日本の写真家12).岩波書店,1997.
② 金子隆一.「グラフ・モンタージュの成立 『犯罪科学』誌を中心に」.五十殿利治,水沢勉編.『モダニズム/ナショナリズム 1930年代日本の芸術』.せりか書房,2003,pp. 156-177.
③ 坂口安吾.「日本文化私観」『日本文化私観』(中公クラシックス).中央公論新社,2011,pp. 5-38.
④ 堀野正雄.『カメラ・眼×鉄・構成』(日本写真史の至宝).複製版,国書刊行会,2005.
⑤ 堀野正雄.「新しきカメラへの途1-4」「機械美と写真」「写真に於ける性格描写――覚え書」.和田博文編.『モダン都市の新形態美』.ゆまに書房,2009,pp. 547-611.
⑥ 「きんだい‐けんちく【近代建築】」, 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge-com.stri.toyo.ac.jp , (参照 2022-06-15).
⑦ 「モダニズム建築【2019】[建築【2019】]」, 現代用語の基礎知識, JapanKnowledge, https://japanknowledge-com.stri.toyo.ac.jp , (参照 2022-06-15).
なお、引用の際に旧字体は新字体に、旧仮名遣いは現代仮名遣いに筆者が改めたことをここに断わっておく。

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