見出し画像

好きな哲学者はいますか?

マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)という哲学者をご存知だろうか。
私の好きな哲学者で、最近ふと過去に読んだ彼の本を再読したくなり、ついでに未読のままだった本も新たに読み始めたところだ。

彼は乱暴に短縮して説明するならば、これまで過去に何人もの哲学者たちが挑んできた「存在とは何か」という問いに対する答えをほぼ全てひっくり返すかのようなエネルギーで「新しい実在論」というものを提示したドイツ人哲学者である。

私はこの彼がいう新実在論が非常に気になり、それは小さい頃から私の常に心に湧き起こっていた「今とは何か」「私が今ここに存在するとは何か」という強くて心を掻きむしられるような疑問に、光を投げかけてくれるように感じる理論だった。

奇しくも彼と私は同じ1980年生まれ。
世界には、同じ年にオギャーと地球にやってきて、かたや私が秋田の田んぼの真ん中で「今ってなんだろねー」と思いながらイナゴの群に夢中になり吹き荒ぶ吹雪にきゃーきゃー言いながらランドセルを背負っていた時に、かたやドイツで着々とこんなすごい脳の回転をしている人が成長していたのかと、愕然とした。

好きな本を再読すると、そのたびに新しい発見がある。
他にも読みたい本が多過ぎて、なかなか再読まで手が回らないことも多いのだが、どうしてもという大切な本はタイミングが来たら開くようにしている。

『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチェ)マルクス・ガブリエル著・清水一浩訳の本の序章にあたる「哲学を新たに考える」と題された章の最後にこんな一文がある。

哲学のなすべきことは、いつでもそのつど繰り返し一から始めることだ、ということです。

『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチェ)マルクス・ガブリエル著・清水一浩訳p.27



彼ほどの世界的な哲学の巨人でも、自分が持っている既存の考えや社会に蔓延した常識を常に疑い、そしてその疑問に答えるために、常に「そのつど繰り返し一から始める」と言うのだ。

この言葉に、私は力強い勇気をもらう。
彼は常に自分の考えはこうだがそれは間違っているかもしれない、と述べる。
その可能性を常に否定せず、そして何事も疑問に思ったら時には始めに戻り、常に一から考えているのだ。

反対を恐れず、疑問を提示し、戻ることも厭わず、学び続け、答えを探っていく。
冷静で誰にでも分かりやすい説明でありながら、強い情熱が燃え続けている彼の提示は、どんなこともひとつひとつ根気よく丁寧に向き合えばいいのだと、教えてくれる。

著作の詳しい中身についてはまた改めて書こうと思うが、
私がいつも思うのは、私という小さな存在がまだ知らない、素晴らしい人たちや、素晴らしい理論や、素晴らしい作品たちが、世界にはたくさんあるのだろうなということだ。
私は生きている今世で、どれくらいの素晴らしさに出会っていけるだろうか。

さらに新たに読み始めていた『全体主義の克服』(集英社新書)マルクス・ガブリエルと中島隆博の共著の中で中島隆博さんがこう指摘しているところに、はっとさせられた。
(MGはマルクス・ガブリエルさんの発言)

中島 非常にラディカルですね。あなたのそのラディカルな考えが、日本の読者によく理解されているとは思えません。あなたの哲学はかなりポピュラーな仕方で消費されてしまっているように見えます。
MG   そうかもしれませんね。わたしの読者の多くは、リズムやノリのようなものを消費しているのでしょう。わたしの哲学がいかにラディカルなものかは、実際には理解されていないのかもしれません。

『全体主義の克服』(集英社新書)マルクス・ガブリエルと中島隆博の共著p.131


マルクス・ガブリエルさんの著作は哲学の基礎知識がなくても読み進められるように書かれたものが多く、特にそのようなものが翻訳され日本で出版されているのだと思う。
だからこそ、新刊翻訳書は本屋でも目立つところに陳列され、時にいかにも売れそうなしかし首を傾げるような謎の帯をつけられた上で販売され、そして購買につながるある一定の「人気」を維持しているのだろう。

中島さんの述べる「かなりポピュラーな仕方で消費されてしまっている」という部分は本当にそうだなと気付かされる一言である。マルクス・ガブリエルさんのような素晴らしい哲学者がいることを多くの人が知っていたらいいなと思う反面、そのために「消費」されるように拡散されていくことの恐ろしさもまた、気を引き締めて接していくべき現代の一面だ。

一人でも多くの人の目に留まり、誰もが飛びつきたくなるような宣伝の仕方をされ、時にテレビ番組を中心としたメディアで紹介される。
その全てが悪いとは言わないが、宣伝と拡散を繰り返すうちに重要な本質が薄められ、変質し、いつの間にか中心からどんどん離れていくことは、よくあることだ。
彼の著作の日本語訳を読み、そして哲学について初心者である私は、その「消費」に惑わされつつある中の一人かもしれない。尊敬する哲学者ではあるけれど、「消費」に飲み込まれないようにするには、常に私自身も疑いの目を失わないように自分で考えるように気をつけなければならないのだ。

この約一年で、過去の自分がいかに忖度の塊であったかに気付かされる時が何度もあった。まだ慣れ親しんだ過去に戻りがちになる時も多いが、ここから先の限られた人生では勇気を持って自分の言葉で考えていかなければ、あっという間に今世が終わってしまう。

私自身が最終的にどこに漂着するかわからないし、だから常に不安はあるけれど、それでも考え続けたい。
自分への問いを投げ続けることは、決して楽なことではないけれど、
それでも答えが出ないかもしれない何かを問い続けることを、私は最後まで諦めたくはない。

地球で生きていられる最後の日に、「ああ、結局どこにも辿り着かなかったな」と思うかもしれないけれど、それでも多分私は、考え続けたことを無駄だとも思わず後悔もしないと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?