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第2話 ミシシッピからローファイレーベル、ファット・ポサムのドンとキングの登場

第1話 (みんなの文藝春秋でも取り上げていただきました)

今日のアルバム
2. Bob Log lll 'School Bus' (1998)

 ミシシッピ州オックスフォードを拠点とするレーベル、ファット・ポサムとの初めての出会いは、所属アーティストであるボブ・ログ・ザ・サードのデビューアルバムだった。彼はアリゾナで育ち、ワンマンバンドでブルーグラスを高速でパンキッシュに奏でる。ボイラースーツにマイク電話がくっついたフルフェイスヘルメットを被り、スライドギターを猛烈に奏でながら、ドラムを蹴り上げる。「ワオ!」とか「ウー」とか「おっぱいスコッチ!」とかシャウトする。大真面目にふざけていて、最高に芸達者な年齢不詳のブルース野郎だ。当時彼のライブを何度か見に行った、ハイブリーのガレージとかロンドンの500人くらいの小さな箱で。通算3枚をファット・ポサムからリリースしているが、3枚ともローファイ最骨頂の秀作だ。笑 

 ヤック一行はやっとこさアメリカ初ライブとなるブルックリンはグラスランドへ到着した。思ったよりもお客さんは残ってくれている。早速楽屋へ入ってお着替え。マックスは紛失中の自分のペダルの代用として集められたペダルをいつものセットアップに近いように配置していた。ステージは小さめ。4人乗るときゅうきゅうだ。その割に二階席があったり、正面にバーがあって、客席は広い。サウンドチェックはトラブル続きで到着が遅れて出来ていないので、サウンドマンのルイスとささっとラインチェックして、20秒くらいの短い演奏で外音のミックスやステージモニターの調整をする。このくらいの箱だとクリアな音の質とか繊細なミックスのバランスとかよりも、勢いで乗り切るのだ。→その時のライブレビュー(英語)はこちらから

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 セルフタイトルのヤックのデビューアルバムは当時流行った90年代リバイバルとローファイの波に乗った。人々はヤックをダイナソーJrとかソニック・ユースなどアメリカンサブカルロックバンドを引き合いにした。
 翌日から今回のツアーに同行するスミス・ウェスターンズも超ローファイポップインディーバンドで、湿った内向インディーボーイズのアイドル的存在だった。ファット・ポサムは他にもカリフォルニアローファイパンクのウェーブスや、クロコダイルズ、ベース・ドラム・オブ・デスなどのたくさんのローファイサウンドを世に送り出した。
 ライブの後、バーにいたのはマシューだった。ヤックボーイズは彼がファット・ポサムのドンだと言った。メタボ気味の白人中年男性はビールを片手に、すでに酔いつぶれていた。彼は私たちを歓迎し、労をねぎらい、次のナシュヴィルのショーにはスティーヴンが顔を出すと言った。スティーヴンはポサムのA&R、つまりアーティストの発掘者そしてデベロッパーである。

 ファット・ポサムは1992年ブルースのレコード会社としてマシューとピーターによって設立された。当初多くのアーティストは地元南部のブルースアーティストでレコーディングの経験すらなかった。2000年初頭、私は別バンドの関係でテネシー州はナシュヴィルにいた。ナシュヴィルはカントリーミュージックの本拠地で、Gibsonギターの本部と工場があるほど世界的に有名な音楽都市だ。空港ではショーウィンドーに飾られたレスポールギターに迎えられた。白人中年層向けのギラギラカントリー音楽はもちろんだが、ナシュヴィルでは才能ある若いバンドにも出会ったし、街の至る所で昔ながらのブルーグラスを演奏しているバーがあったり、物凄く身近に音楽があった。
 せっかくだからと車を走らせメンフィスまで旅にでた。エルビス・プレスリーのサン・スタジオはあまりにも有名だが、ミシシッピ川のほとりでトランペットを吹くおじさんを見た時、到底日本人やイギリス人には真似できないブルースやジャズの真髄を感じた。あの人たちは本当に憂いでいる。南北戦争で奴隷制継続の南部とアメリカ統合主義の北部が戦った。それから140年余り経っていた当時でも黒人居住区域ははっきりと別れていたし、旅の間にも黒人地域を走る時はしっかりドアをロックするように注意された。ガソリンスタンドへ立ち寄る事も夜間は避けたほうがいいと言われた。国外からも国内からも「自由の国」と豪語するが一体何が自由だかわからない。

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 北米ツアー翌朝は雪かきから始まった。グラスランドのライブが終わり、ルイスのブルックリンのアパートに宿泊するべく向かったのだが、雪の為途中で動けなくなった。バンはちょうどルイスの通りに曲がるところで止まっていた。ブルックリンからナシュヴィルまで最短895マイル、1440km、休みなしで走れば14時間弱。明日のサウンドチェックまでに間に合えばいいから時間的には余裕だ。
 北米ツアーでの一番の難関は長旅だ。丸1日を移動に使う事は北米ツアーあるあるで、普通は気が滅入る。だがルイスみたいなタフなフリーランスの放浪者にはかすり傷らしい。それでも疲れた時はアメリカ人のドラマー、ジョニーが交代した。私たちが使うバンは大概8シーターで後ろに機材が積めるようになっている。シートとの仕切りがないので急ブレーキをかけたら重たい機材が頭目がけてふっ飛んでくる。幸いにも荷物はいつもきゅうきゅうに、てっぺんまで詰め込まれているからちょっとやそっとのブレーキでは動かなかった。後ろのシートはベンチ型でフラットだから一人で座ると寝転べる。(むろん荷物が置いてある事がほとんどだが)そのシートと助手席は一番人気で、公平にローテーションで回す。しかし暗黙の了解で、大抵私とルイスが優先された。

 ジ・エンドはナシュヴィルのロック・ブロックと呼ばれるエリストン・プレイスにある老舗ロックヴェニューである。80年代から名高いバンドがこの小屋からスタートした。ロック偏差値のすこぶる高いこの場所でどれだけのドラマがあったのか想像もつかない。
 ギターアンプはポサムの予算でアメリカ用に購入してあったが、ベースアンプはスミス・ウェスターンズの物を借りることになっていた。こうゆう事はツアーマネージャー同士で話はついているが、一応大森ブラザーズの弟に礼も兼ねて話した。当時19で若かった彼は実にぶっきらぼうであった。そう言えばヤックボーイズも20だったわ。日系のこの兄弟は兄がシンガーで、バンドは当時トミー・ヒルフィガーの広告モデルをやったりと人気者だったのだ。

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 このツアーでこの二つのバンドはライバル化し、完璧に学園化した。というか、大森兄弟がヘッドラーナーというこのレベルであってないようなヒエラルキーからムラムラと競争心を燃やして、アンプを貸さないとか、楽屋に入れないなど色々と意地悪を仕掛けてきた。アンプが使えないと商売でないので、ツアーの途中でアンペグSVTマイクロヘッドとスピーカーセットを購入。これがまたいい出会いとなった。
 これはアンペグの巨大スタックをそのままミニチュアにした物。普通サイズはヘッドが36kg、フライトケースに入れないといけないので、総重量50kgくらい。(イギリスのマイアンプはこれ)スピーカーキャビネットは75kgで120cmの高さ。それがマイクロとなると私が片手でカバンのように持てる。キャビネットも問題なく一人で持てる。コーチェラの馬鹿でかいステージにも連れて行きました!他のコンボも物色したが、恐ろしいく不細工で音もいまいち。このミニスタックに一目惚れでした。このヘッドはなかなかの優れもので、DIのライン音もアンペグのSVTのビンテージ音が出るし、それを小屋が持っている8x10や、4x10のスピーカーに繋げば恐ろしくパワフルなベーアンとなる。シアトルのラジオ局KEXPも私のスタックを見て、セッション用に買ったらしいです。

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 サウンドチェックが終わって、前座の私たちの出番は30分後とかそんなもんだったから、隣の併設のバーで飲んでいるファット・ポサムの一味と合流した。彼らは朝から車でミシシッピ州から来ていた。スティーヴンは30そこそこで、片耳に十字架のピアスをぶら下げた、いかにもバンドのフロントマンやってそうなイケメンだった。彼がポサムのキングだとボーカルのダニエルが耳打ちした。
 一味の中にブロンドロン毛のイケメンがいた。彼はスティーヴンと一緒にバンドをしていると言った。彼に何が飲みたいかと聞かれたので、赤ワインと答えると、クスッと笑い、「ここはテネシーのバーだよ、ワインなんて置いてないよ」とひどく南部訛りの強い英語で言った。それからキングからじゃんじゃんウイスキーが回ってきた。きっとジャック・ダニエルズだったであろう。これがこの夜の悔いても消せない泥酔どんちゃんひとり騒ぎの始まりでありました。
 ポサムを前に大切なライブの筈が、私とても酔っぱらっていました。いつもより、より破壊的でサイコーなパフォーマンスだったと自負します。それからいつ撤収をしたのかよく覚えておらず、私だけスティーヴンの運転するポサム一味のアメリカンSUVで次のハウスパーティーへ向かったのであります。一戸建ての大きなお屋敷はポサムの物だという噂を後から聞いた。そこにはスミス・ウェスターンズもいたし、ヤック一行も後から到着した。たくさんの部屋があって、庭に石像があって、キッチンでビールを渡されて、ジョニーが椅子で寝ていて、ブロンド君が横にいて、ダニエルがめんどくさくて…。

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 翌朝、ルイスの友人宅のリビングで目を覚ました。みんなまだ雑魚寝している。昨晩帰ってきてぶっ倒れたまま寝たみたい。着替えてみると、ステージ衣装の古着のワンピの裾がビリーっと結構上まで破れていました。一体何をやったんだか。これじゃお尻が丸見えだ。早速縫い合わせなければ。なんせひとツアーにつきステージ衣装は一つと決めているから。
 ダニエルがカフェに行くというので一緒に行くことにした。コーヒーをいただき、酔いが覚めた気がした。それから近くにあった楽器店へ入った。
そこにいたのは1969年製のブロンドのプレベ。フェンダーのプレシジョンベースという、エレキベースの初めのモデルだ。私のは51年のカスタムショップの復刻版で91年製のイエロー、(リンク先に私発見!)サイン入りの証明書がついたコレクターズアイテムです。俗に言うテレベースと言われる物。大御所バンドのおじさま達からはいつも注目を集める自慢の名器。当時ロンドンで狙っていた68年のプレベを見逃していたところだったからこれは買わねばならぬ。まだ頭がぐるぐるしていたけども、ダニエルも後押しするし、初北米ツアー、初レコード契約、初プロミュージシャン就職のご褒美に、昨日も羽目外しまくったし、もうええ、どうにでもなれ!そしてこのグッドルッキングなブロンドイケメン君をゲットした次第です。

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第3話→ 

作者について
土居まりん a.k.a Mariko Doi
広島出身、ロンドン在住。ロンドン拠点のバンド、Yuckのベーシスト。ヤックでは3枚のスタジオアルバムとEP、自身のプロジェクト、パラキートでは2枚のスタジオアルバムとEPをリリースした。
ピクシーズ、ティーンエイジ・ファンクラブ、テーム・インパラ、アンノウン・モータル・オーケストラ、ザ・ホラーズ、ウェーブス、オールウェーズ、ダイブ、ビッグ・シーフなどと共演しロンドンを拠点に国際的にライブ活動を展開している。
2019年初のソロアルバム「ももはじめてわらう」を全セルフプロデュースでDisk Unionからリリース。モダンアートとのコラボ楽曲など活動の幅を広げている。

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