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本を「買うこと」は「読むこと」よりも魅力的⁉︎

つい先日、こんなTweetTLに流れてきた。

本は当然に「読む」ものだ。
そんなことは誰でも知っている。

ただ、このTweetを見て、私も思わず共感しまった。
「読むこと」と同じくらいには「買うこと」に対してテンションが上がってしまう。

ただ、「なんでテンションが上がるのか?」と問われると上手く言語化できない。

Tweetがバズったのは同じ思いを持つ人が多くいるからに他ならないと思う。

TL上での反応

反応は様々だったが、大別すると以下の3つになるだろうか。

  1. 買った本を読むことに対して心を躍らせる派

  2. 本というコレクションを集めることに悦びを感じる派

  3. 「買うこと」だけじゃなくて、「並べること」にも独特の気持ちよさがある派

TLの反応を見ていると、「買う」という行為への独特の気持ちよさは、電子書籍ではなく紙の書籍を対象にしているとの声が多かった。

自分はどの項目にも共感してしまう。
私見も交えながら、それぞれの項目について少し触れてみたい。

①買った本を読むことに対して心を躍らせる派

これが多分、主流だと思う。
本は読むために買うのだから。

ただ、場合によって「心躍る」の尺度は変わりうるかもしれない。

もし、継続的に購入している書籍の最新巻を買う場合であったら、買うまでにかかる時間はそこまで長くないだろう。店に入った時点で、買うことを決めているのだから。

人によっては、この場合だと本を買うことに独特の気持ちよさを感じることはないかもしれない。

「買うこと」よりも「読むこと」に目的があるのであって、買う行為は読む行為に至るまでの過程の一部でしかない。

では、独特の気持ちよさはどんな時に味わえるのか。

本屋に入った時点では、特定の本を買おう考えていたわけではなく、書棚を物色しているうちに惹かれる本と出会ってしまった時。

これは心躍らずにはいられない。

TLを見ていても、こういった意見がちらほらと見られた。

本屋で新しいジャンルの本を探そうとするのは、凄く根気がいると個人的には思っている。

どの本が自分に刺さるかは分からないけど、店内を練り歩く。
その結果、刺さるものが見つかればいいが、なければただの徒労となる。

その中で、ようやく本を見つけたとき。
この本がどんな世界や気づきを自分に与えてくれるのか期待しながら、目次や帯、背表紙を眺めるとき。
そして、自分に素晴らしい何かをもたらしてくれるという確信を持ってレジへ持って行くとき。

それは読むとは別の独特な気持ちよさがある、と私も思う。

②本というコレクションを集めることに悦びを感じる派

3つ目の項目とは似ているようで違う。
ここでは、「所有欲」と表現するのが近いかもしれない。
この果てに「積読」があると思っている。

当然、本は買わないと読むことができない。
だから故に買うわけだが、"いつ読むか"は読み手の自由だ。

時には買ってから1年近く放置して、ふと思い立って読むこともある。
ひどい時には買ったことを忘れて、再購入してしまうこともある。

全ては読み手に委ねられている。


私も自分の興味関心は、日々ジェットコースターのように目まぐるしく移り変わる。
ある時は、SFに興味を持ってその関係の本を買いたくなることもあれば、「夏」を感じさせる小説を読みたくなる時もある。

そんな時に巡り合った本を、買って手元に置くこと。
買うことによって、「この本をいつでも読んでいいよ」という権利を手にすることができる。
これが買うことの醍醐味の一つだと思う。

自分だけの蔵書をつくること。
それは、自分ならではの図書館を創り出すことと同義なのだと思う。

図書館を創り出すわけだから、蔵書は増えていく。
その中にまだ読んでいない本が積読として溜まって行くのはごく自然なこと。
積読の量は怠惰の証ではなく、ポジティブな意味合いだと思う。

少し前にこんなTweetが話題になった。

生ハム原木が家にあると、ちょっと嫌なことがあっても「まあ家に帰れば生ハム原木あるしな」ってなるし仕事でむかつく人に会っても「そんな口きいていいのか?私は自宅で生ハム原木とよろしくやってる身だぞ」ってなれる。戦闘力を求められる現代社会において生ハム原木と同棲することは有効
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/amp/1907/11/news124.html

生ハムをまた「積読」と置き換えても読書民としては同義ではないだろうか。

「そんな口きいていいのか?私は自宅で積読の山とよろしくやってる身だぞ」と。

③「買うこと」だけじゃなくて、「並べること」にも独特の気持ちよさがある派

1,2を踏まえた上で。
「買うこと」の気持ちよさについては触れたとおりだが、「買うこと」と同じくらい「並べること」も好きだという声がTLでは見られた。

今年の春に読書用のTwitter垢を作ったのだが、TLを見ていると本棚の写真を掲載する人が多くいることに気づいた。

もうそれは「本屋かな?」と錯覚してしまうほど綺麗に陳列されている。
並べ方も、作家ごとに並んでいるものもあれば、カバーの色ごとに並んでいるものも。

本好きは当然ながら本屋に行く機会が多い。
本屋では乱雑に本が並んでいるわけではなく、基本的には出版社や著者名ごとに並んでいることが多い。
おそらくこれが基本形。

そして書店ならではのフェアが開催されると、特定のジャンル別での陳列がされる。
ある時は「食」、ある時は「旅行」、ある時は「卒業」などなど。

選ばれる本は、国内外の作品を問わず、小説・エッセイ・新書が入り乱れることもある。
だが、そこにはテーマに沿った一定の法則があって、その選別は芸術とでも呼べる。

こういったフェアを見るたびに私は子供ながらに思っていた。
「自分もいつか本をいっぱい買って、自分ならではの本棚を作る!」と。

今の私の本棚は、雑食的で統一性などなく、その夢が果たされたかどうかは怪しいところだが、本を「並べること」は自分の憧れを表現できる手段なのだろう。

綺麗に並べられた本棚を見ると、その作り手に心から敬意を表したいし、作り手もアートを作ってるような気持ちなんじゃないかと思う。

「読むこと」は、知識を取り入れるインプットの側面が強い。
その一方で、「並べること」は、表現するというアウトプットの側面がある。

だからこそ、読むこととは独立した独特な気持ちよさがあるのだろう。

おわりに

本は読むことは当然にして、「買う」「並べる」ことでも楽しめる。

冒頭に載せたTweetを見て、私は無性に東京駅の丸善に行きたくなった。
仕事帰りにでも寄ってみよう。

あてもなく自分を呼ぶ本が見つかることを願って。

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