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毛布#18『作ること、「本分」、よろこび』

久しぶりに、新作グッズを準備している。

勤め仕事をしていた時期、時間とエネルギーの関係で、グッズにはなかなか手が出せず、ここ数年は本の制作にほぼ全振りで集中していた。
今回、以前も参加させてもらったイベント「#カミメマーケット 」に参加が決まったので、これは新作作るしかないでしょう!と一気に躍動している。

止まっていたものが動くとき

春先からずっと、思うように動けなかった人は多いと思う。
もちろん今でもそうなのだけど、ここ最近、なんとか工夫して安全に、本当に消えそうな火をつなぐようにして「開催」されているイベントを見るようになってきた。

ダンサーの柿崎麻莉子さんの新作『Wild Flowers』ワークインプログレスで配布されたパンフレットにあった言葉にハッとした。

「踊らない時間は、馴染みある自分の体が失われ、体に修復できない黒い穴が開いていくような苦しい時間でした。」

ライブハウスからの無観客ライブの配信を行ったミュージシャンの大和田慧ちゃんも、実感からこみ上げたような文章を書いていた。

また、きっとみんなそうだと思うのですが、身体を使って表現/仕事をすることを人生の中心に置いている者にとって、演奏しないとか歌わない時間というのは、仕事がない、というだけでなく、自分自身の9割以上が失われたような、一体何者なのかわからなくなるような苦しさがあるように思います。とても必要なものだった。
少し自分を取り戻して、ようやく安心したような気持ちです。

その瞬間に体を使って表現するダンサーやミュージシャンと違い、ものを書き、ビジュアルで表現する私は、どちらかというといつもリアルタイムで何かを表現するというよりは、どうしても時間の流れからちょっと脇にそれた表現になると思っていた。普段も、観察者のようにワンテンポ遅れて暮らしていることが多い。どんな時でも何かしらを見ているし、それが自分の仕事の一部だと思っている。身体を使って表現する、というのには、自分はさほど当てはまらないかもしれないと思っていた。

だけど、今になってわかる。
全然そんなことはない。やっぱりコロナの制約を、私もそれなりに受けていた。

「作ること」

何かを作るというのは、徹底的に自分が自分であることなのだと思う。
新作を作っている間は、ずっとそのことに頭が接続しているし、作品を作りながら「これはいける、これは違う」というのは毎秒のように自分の全部で選り分けている。
何をしていても、目にするもの耳にするものはインスピレーションだし、シャワーの最中にふと思いついたりと、作品と一緒に暮らすようになる。それを形にして、実際に届けることができたときは、まさに「作る喜び」。

制作中は、何か大きなものとへその緒で繋がっているみたいに、栄養をもらい、酸素をもらい、隙間なく繋がって、息づいているようなイメージだ。
どんなに大変でも、「本分」と繋がっている安心感があるし、充実感がある。

作っていないときは、どうしてもやっぱり「本分」から離れているような気がする。
それは決して悪いことじゃないし、「本分」から離れていようと私は私で日々生きているのだけど、それでもやっぱり、ソース・源(source)に接続していないような感覚がある。

コロナの影響で、予定していたイベントや展示がほぼ全て中止になり、どうしても本やグッズ、形のある作品発表の場は限られていた。
イベントというのは本当に楽しいもので、お客さんとお話ししたり、目の前で笑ってくれるとこっちも笑顔が溢れるというそんな場所なのだけど、もう一つ知ったイベントのありがたさとしては、大きなイベントに合わせて新作を作る、新しく本やZINEを出そうというモチベーションというのがある。

別にイベントがなくても新作作って通販すりゃいいじゃん、というのはド正論なのだけど、モチベーションがある状態で作るのと、そうでない状態で作るのとではやっぱり出てくるエネルギーが同じじゃないのだ。

世界で一番尊敬する、スペインの映画監督アルモドバルの最新作『ペイン・アンド・グローリー』で、ずっと死んだように生きてきた主人公が、昔の恋人に再会し、一気に甦ったようになるシーンがある。
止まっていたこと全てが鮮やかに動き出す描き方がさすがアドモドバル……だったのだけど、まさにそんな感じで、私も一気に息が通ったような、極端な言い方をすると、土人形に息が吹き込まれたようなそんな心持ちでいる。

もちろん何かを作っていない時の私も日々生活しているので、土人形呼ばわりはいくらなんでもあまりにも失礼だろうと断固セルフ抗議しても良いのだけど、でも正直なところ、作品制作をしているときとしていない時では、それくらい躍動感は違う。

毛布の頻度をあげたり、インスタにイラストを載せたりしているけれど、それは私にとってはどちらかというと「通信」という感じにより近い。
思考の過程も書くし、制作の過程や試行錯誤、揺れもそのまま現れている。
最終的には同じものだろうし、どっちが良いとかではないけれど、「通信」として届けるものと、ある程度の時間をかけて制作し明確に「作品」として発表する、というのとは、同じ「作る」という営為でも、やはり感覚が違うなというのが今回気づいたことだった。

イベント出品が決まり、スケジュールを確認し、早速いつも印刷をお願いしている中野さんに連絡し、紙を注文して(初めて使う紙、お楽しみに!)、絵と言葉を練っている。
久しぶりに「作る喜び」を味わっている。(あとは締め切りとのヒリヒリするようなデッドレースも・・・)
今回は、作家が常にいるタイプのイベントではないのでもっぱらグッズによる参加といったほうが近いのだけど、主催者の方が、この状況下でなんとかつなぐように開催しようとしてくれたことも受けて、ぜひ新しいものを・・・というのが今の私のモチベーションになっている。

グッズを作るその流れで、やっぱりフィクション・物語を書いていたいという強い思いが湧き上がってきた。それで、長らく更新が止まっていたミッシングピースを再開することにした。

(↑2018年秋のコミティアで出した『ミッシング・ピース vol.1』に収録されています。noteでも読めますのでよかったらどうぞご覧ください。)

「本分」、何かを作るよろこび

自分にとっての喜び。
自分の「本分」で何かを作る喜び。
機会が奪われていたぶんだけ、これが自分のよろこびだったのだと改めて体験するようなこともまたいろんな人に起こっているのではないかと思う。

上の方で、「ソース・源(source)に接続していないような感覚がある」と書いたけれど、そのソース・源とは、「音楽の力」だったり、「演劇の力」だったり、「物語の力」だったり……自分を含み、自分を超えた大きなものに繋がりその一部になるよろこびでもあるのかなと思う。

同じように、その「本分」を失うような悲しみもまた起こっているかと思う。それを思うと言葉もなくただ祈るしかない。大変な時期は続いていくけれど、自分にできることをやっていけたらと思う。


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カミメマーケット vol.2
8月24日(日)~9月20日(日)
池袋ロフト(西武池袋本店12F)
紙meサイト https://www.kamime.net/

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