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生産性のない会話の必要性

年末年始で地元に帰ると、学生時代の同級生や先輩後輩に会ったり、連絡する機会ができる。そこでの話のネタはもっぱら、昔話やお互いの近況報告である。

私の歳(35)になると、多くの友人は旦那がいて、子どもがいる(いない人も実は多いけど)。久々に会うとお腹が大きくなっていたりして、本当にビックリする。そして同時に、幸せを分けてもらえる。友人の近況を洗いざらい聞き出したら、今度はその場に来れなかった共通の友人の近況を共有する。よくあるのは、〇〇は離婚した、今引っ越して〇〇に住んでいる等。あと、〇〇先生はどうしてる、最近〇〇に偶然会った、と言う類の話題。非常に懐かしく、また、時の流れがじわじわと身体に染み込んでくる。

私の場合、お互いの近況報告と言えど、結婚して子育てをしている友人たちは私の話を聞きたがってくる。芸能と言う特殊な世界のことを知りたいのだろう、未婚であるから恋愛話も聞きたいのであろう。なので私は、最近はこんな仕事をしたよ、とか、〇〇(芸能人)に会ったよ、とか、そういう話である。恋愛で言うと、最近どんな人と出会った、とか、マッチングアプリをやってみた、とか、その程度の話である。私はシェアハウスをしているので、どうやって生活しているか(生計を立てているか)等の話もウケが良い。友人たちはとても興味深く、喜んで私の話を聞いてくれるし(多分)、私も嬉しくてちょい盛りくらいで話すこともある。

そうして、楽しい時間があっという間に過ぎていき、お互いの生活区域に帰って行く。そんな素敵なひとときの後だったからなのか、私はふと思った。

「生産性のない会話だったなあ」

しかしそれは否定的でも、ネガティブでもない。むしろそう感じて、胸が躍ったくらいに、肯定的な感想である。

なぜそう感じたか自分で考えて見ると、最近の私は、「生産性があるかないか」のさじ加減で物事を考えていたのだと気付いた。誰に見せるでもなく、ただ素直に楽しいことだけをしたり、ただただ下らないバカ話に花を咲かせたり、そういう時間が極端に減っていたように思う。

新しい環境に来て、焦っている部分があったから、楽しい飲み会のはずなのに「この場を意味のあるものにしなければ!」と力んでしまう。何をするにも「発信すること」を優先するがあまり、心から楽しめない。全てではないが、そういう傾向に寄りがちになっていた感はある。

だが、リラックスした中での生産性のない会話だからこそ、友人の何気ない発言からアイデアが浮かび、忘れていた昔話を思い出し、心の底から笑ってストレスが発散できたのだ。それこそが今の私に欠けていたのかもしれない。

地元に帰って友人と語らい、家でまったり家族と過ごし、だらけすぎてしまった部分も否めないが、自分自身と向き合う時間になれたことは、生産性のない年末年始を過ごした成果、だということにする。。。


【オマケ:久々に有料コーナー】
ー同級生から語られた驚きの私の昔話ー


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