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死神の疑い①

先日、伊坂幸太郎さんの「死神の精度」を読んだ。
そして、金城武主演で映像化された「Sweet Rain死神の精度」もDVDで見た。

内容を簡単に説明すると、仕事として「人間の生死を判断する」死神が存在し、彼らはその人物が死に値するかどうか1週間観察してジャッジする。1週間後に「可」もしくは「見送り」を決定し、「可」であれば8日目に対象者は死亡、それを確認し任務は終了となる。この物語の主人公である死神の千葉が人間界に滞在している任務期間中、なぜだか必ず雨が降っていて、彼は晴天を見たことがない。

私は最近の悪天候は、死神の千葉が来ているように思えてならない。(物語では対象となる「死」は病気や自殺は含まれず、事故や事件による死であるので、私の周りの人とは正確に言うと違う)

今年に入って、お葬式に4回参列した。

最初のお葬式、それは6月だった。
 前に私がアルバイトしていた会社で派遣社員として働いていた友人が亡くなった。原因は乳ガン。まだ40代だった。しかも一緒に勤務していた時は病気のことを隠していて、ずっと知らなかった。私が会社を辞めてからも彼女は私の舞台やイベントを見に来てくれて、応援してくれていた。

 4月に出演する舞台があり、お誘いのメッセージを送っていた。体調が悪いと聞いていたので、今回は難しいかなと思っていたら、前日に「行きます」と連絡をくれた。終演後、お客様をお見送りするためにロビーに出るのだが、いくら彼女を探しても見当たらない。するといつも一緒に来てくれた彼が「こっちです」と呼んでくれた。彼女は車イスだった。だから視界に入らなかったのだ。その時、初めて病気のことを知った。風邪なんかの類の病気ではない、重い病気だと一目で分かった。でも怖くて何も聞けなかった。すると彼女は自分が乳ガンであることや4年前から患っていることを話してくれた。その話は私の頭で処理できる範疇をはるかに超えていた。涙が止まらなかった。彼女の手を握ってひたすら泣いていた。彼女も泣いていた。「いつも元気をもらってるよ。また観に来るからね」そう言って帰っていった。帰り際に彼が彼女の車イスを押して横断歩道を渡っていく後ろ姿が見えた。「もう一度、顔が見たい、話したい」そう思ったけど、「絶対にまた会えるから今じゃなくても大丈夫」と願掛けのように声を掛けるのを我慢した。
 そして5月。ずっと自宅療養していたそうだが、病院に入ったと聞いて会いに行った。口にはしたくなかったけど、そこは紛れもなくホスピスだった。彼女はよくオシャレな帽子を被っていたから、夏用にと白のベレー帽をプレゼントした。「今度外出許可が出たらこれ被って行く」といつもと変わらない笑顔で言って喜んでくれた。カフェでお茶しているような感じで昔話をして盛り上がった。私は「自分の脚本作品を7月に舞台上演するから、絶対に観に来てね」と言ったら、「絶対に治して行くね」と約束してくれた。そして「またね」と明日にでもすぐ会うようなテンションでバイバイした。
 それから私は、彼女のために脚本を書いていた。彼女が言ってくれた「マリオと出会って本当に良かった」その言葉が、私に書き続けていいんだと言う自信を与えてくれたから、彼女の病気を治すくらいの元気を与えられる作品を書きたかった。そして、納得のいく脚本が書けた。
 6月。彼女からLINEが来た。しかしそのLINEは彼女からのものではなかった。彼から、彼女の死を伝えるメッセージが届いていた。彼女のLINEはまだこの世に存在するのに、彼女は存在しなくなったと言うのか?信じられない気持ちと同時に、彼が彼女のLINEで、彼女の友人達にメッセージを送る姿を想像するとやるせない気持ちになった。LINEを開くたび、彼女のアイコンが目に入って、自分が生と死の境界線にいるような感覚になった。もしかしたら返事が返ってくるかもしれないとさえ思った。
 お葬式に参列したのは、いつぶりだったろうか。もしかしたら祖母のお葬式以来で10年以上経っているかもしれない。それに、年の近い友人を亡くしたのは初めてだった。すすり泣く声が聞こえていた。最後のお別れの時間。ふと棺にプレゼントした帽子が入っているのを見つけた。「一緒に入れてほしいって彼女が言ったんです」と彼から聞いた。病室での会話がハッキリと思い出された。しかしこの帽子を被っての外出が叶うことはなかった。私は心の中で何度も「お疲れ様。ありがとう」と言った。彼女の綺麗で安らかな顔を見て、お葬式は、故人の「人生の引退式」であり、「死は残された者への試練」であると思った。彼女は生を全うした。きっともっと生きたかっただろうけど、死を受け入れて、次の道へ歩んでいく。哀しむのは残された彼女の家族友人であって、その哀しみを乗り越えるのも彼ら自身である。もちろん、私もそのうちの一人。人は忘れていく生き物だから、哀しみもいつか癒え、忘れていく。だけど、ただ忘れていくのではなく、自分の糧として生きていくことが亡くなった方への敬意だと私は思いたい。
 7月になった。彼女のために書いた作品を上演することが出来た。彼も(きっと彼女も一緒に)見に来てくれた。私の想いが伝わっているといいなと思う。彼女の言葉を裏切らないように、これからも前を向いて踏ん張っていくしかない。「生きてるだけで丸儲け」とはよく言ったもので、本当に尊いことである。自分が生きている、生かされていることの意味を、私は見つけたい。問い続けたい。そして、書き続けたい。
  私はこのエッセイもそうだし、脚本や小説など、文章を書くこと全て、自分のエゴだと思っている。私は誰かのために書きたいし、それを誰かに読んでもらいたい。でもその内容は自分が決める。共感されても、されなくても、そこに何かが生まれたらいい。
 しかし、自分の内をさらけ出すのはいいことばかりではない。まず、恥ずかしい。この話も書くのも躊躇した。そして泣きながら書いた。だけど、死と向き合うことが今の自分の試練だとしたら、書き残していかなければいけないのかもしれない。きっと彼女も笑って読んでくれるはずだから。

続く。

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