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死神の疑い②


今年入っての二度目のお葬式は、祖父だった。

 7月の舞台本番の1週間ほど前に父から「容態が良くない、そろそろかもしれない」と連絡があった。

 父の父、つまり、父方の祖父はもう5年も入院していて、しかも意識がない状態。散歩中に脳が出血し(脳溢血?)意識が戻らないままだった。この5年祖母は毎日意識のない祖父の元へ通っていた。私も帰省した際には会いに行った。はじめのうちは何となく反応があるような、笑ったり、頷いたり、している気がした。しかしそれは人間の脊髄反射というものだと思う。
 最後に(意識がある状態で)会ったのは倒れた年の正月だった。祖父は1月2日がお誕生日だったから、一緒にケーキを食べて、プレゼントにニットの帽子をあげた(祖父は頭が少しお寒い状態だったので)。その帽子を被って、写真を撮ったのを覚えている。祖父は笑っているような、はにかんでいるような、いや、何にも感じていないような、不思議な表情をしていた。

 私の中で祖父は「よく分からない人」だった。仕事が何だったのかも、普段何をしていたのかも、あまり知らない。でもそれは普通のことなのかもしれない。「おじいちゃん」は私が産まれたときから「おじいちゃん」で「お年寄り」で、離れて暮らしていたので会話する機会も少なかったからだ。ただ、祖父の家の屋根裏部屋は魅惑的だった。今で言うところのDIY用具がいっぱい置いてあって、木の香りがしていた。祖父は自分で何でも作るタイプだったらしい。その部屋で兄と買ってもらったゲーム(何だったかな?)をしたり、マンガ(兄の影響でコロコロコミックが好きだった)を読んだりして過ごした。まさに秘密基地だった。だが、トイレはドッポン便所で本当に怖かった。モアイの顔みたいな蓋があって、開けると闇のような深い穴。そしてクサい。夜のトイレは修行だ。それに拍車をかけて、古時計の鐘がゴーンゴーンと鳴るのも怖かった。00分ジャストに時間の分だけ、30分には1回鳴った。カチカチと時を刻む音を意識し出したら最後、しばらく眠れなかった。
 古時計と共に時は流れ、トイレはリフォームされ、屋根裏には行かなくなっていた。私は心身ともに成長した。

 物心ついてからの祖父との交流は少なくなった。高校は寮生活だったし、大学も下宿だったので帰省する回数が減ったからだ。就職してからも忙しく、会うのは年に1、2回になっていた。
 家族や親せきというのは、いつでも、いつまでも会えると思ってしまう。母方の祖母の時もそうだった。失って初めて、そうではないことに気付く。そして、失ってからも、実感を持てないことが多い。祖父が亡くなったと連絡があった時も、実感がなかった。そしてその気持ちのままお葬式へ行った。
 お葬式では久しぶりに親戚に会った。叔父・叔母・いとこには約10年ぶり、祖父や祖母の兄弟に至っては(記憶にある中で)初めて会った。葬儀が済んで、焼き場に行って、お骨上げをした。涙は出なかった。もしかして私は、死の実感が持てなかったのではなくて、すでに受け入れていたのかもしれない。
 葬儀の後に、親族で会食をしていた時、叔母が「お父さんがみんなを集めてくれたんやね」と言った。お葬式とは、自分たちの「血縁」を確認する場所でもあると感じた。私も早くから実家を離れて暮らしているし、親戚も近くに住んでいない。だから、会う機会は少ない。会うたびに最初は余所余所しくなる。だけど、会うたびに血の繋がりを感じる。そういうものなのかもしれない。だから、頻繫に会えなくても、その存在を大切にしたいと思う。

 おじいちゃん、お疲れさまでした。おじいちゃんのお陰で私がこの世にいます。ありがとう。そっちの世界でも、ニット帽被って暖かく過ごしてね。

続く。

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