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人生の浮き沈み ~和洋二曲から

本日は、「人生には浮き沈みが必ずある、だから面白い」を信念にする私が、楽曲の歌詞から、人生の浮き沈みを考えます。

人生って何だろう

人生って何だろう……

そんなことなんて考えたことないよ、という人もいるかもしれませんが、大部分の人が一度は頭に浮かべたことのある問いではないかと思います。

私は、最近「人生って何だろう……」と自問自答する機会が増えています。これまで、何度も何度も問いかけ、考えてはきましたが、確固たる意見を構築して言語化するには、なかなか手強い、ふわっとした問いです。自分の経験だけから突き詰めて考えていても悶々とするだけです。

人生とは?、lifeとは? と多面的、傍観者的に考えたい時は、他人の言っていることが気になります。

今回は、桜井和寿(1970/3/8-)とマーク・ボラン(Marc Bolan 1947/9/30-1977/9/16)の作品から垣間見える彼らの人生観を覗いてみます。

Mr.Children‐シーソーゲーム 〜勇敢な恋の歌〜

『シーソーゲーム 〜勇敢な恋の歌〜(1995)』は、Mr.Childrenの通算9枚目のシングルで、ミリオンセラーを記録した大ヒット曲です。楽曲もPVも、大胆にエルビス・コステロ(Elvis Costello 1954/8/25-)風に寄せていて、ロックン・ロールの風味を強く意識させてくれる楽曲です。

この曲の歌詞がテーマにしているのは、人生ではなく、恋です。

恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム

とサビで歌われています。人生というテーマを真正面から扱ったミスチルの曲は、他にもたくさんあります。人生観を深めるなら、この曲よりも、もっとふさわしい曲はありそうです。ただ私は、この曲を聴けば聴くほど、歌詞を噛み締めて掘れば掘るほど、恋を人生に置き換えて考えたくなります。

人生に主体的に挑もうとする時に、心に刻んでおくべきヒントの宝庫です。人生と恋は、待っているかもしれない落とし穴、避けた方がいい態度、が似ています。人生をシーソーに見立て、up and downを交互に繰り返しながら、波や壁を乗り切ることを楽しもう、それぞれの場所から見える景色を楽しもう、という人生観に確信が持てます。

T. Rex-Life's An Elevator

T・レックス(T. Rex)の『Life's An Elevator』は、11枚目のスタジオ・アルバム『銀河系よりの使者 Futuristic Dragon』(1976年)の最後に、ボーナストラックとして収録されている2分ちょっとの短い曲です。『人生はエレベーターの如く』という邦題が付されています。

T・レックスがこの曲を発表した1976年には、グラムロックブームも終焉を迎え、バンドの勢いは下降気味でした。リーダーのボランの私生活は荒れていて、結構厳しい状態だったようです。

人生のup and downを、エレベーターに喩えたこの曲を知ったのは、音楽評論家の渋谷陽一氏(1951/6/9-)のラジオ番組です。私が高校生の時でした。『T・レックス特集』の中で、流れた数曲の中の一曲でしたが、華やかで派手な曲が多い中で、唯一沈痛で異質な雰囲気がありました。

当時、この曲の歌詞を全て理解できた訳ではないのですが、人生はエレベーター、上下動する、という歌詞に、妙な説得力を感じました。今もその人生観を引きづっています。

マーク・ボランの人生

ボランは、1968年にフォーク調のサウンドを得意とするティラノザウルス・レックス(Tyrannosaurus Rex)でデビューしました。1970年にバンド名を、T・レックスと改名し、エレクトリック・ミュージックを大胆に採り入れ、大幅な路線変更を図ります。セールス的に大成功し、当時英国で人気があったグラムロックを代表する人気バンドになります。

生前に「自分は30歳まで生きられないだろう」と言っていたボランは、30歳の誕生日を二週間後に控えた1977年9月16日、ガールフレンドが運転する車が事故で大破し、助手席に同乗していたボランは他界しています。「人生はgoes up and down」そのままに短い人生を閉じました。

ボランには、「人生は空気(のように掴みどころがない)」と歌われる『ライフ・イズ・ア・ガス Life's A Gas』(『電気の武者 Electric Warrior(1971)』に収録)や、「人生は不思議なもの」と歌われる「ライフ・イズ・ストレンジ Life Is Strange」(『タンクスTanx(1973)』に収録)という曲もあります。

ボランは、人生の節目節目で、人生とは何なのか、という問いに真剣に向き合ってきた人なのでしょう。彼の私生活は、無茶苦茶だったと言われていますが、29歳で死ぬことを運命付けられていた人ではなかった気がしています。

彼の音楽的才能にはまだまだ余白も多く、あのまましぶとく生き残っていれば、その先で復活の輝きを見せそうな雰囲気がありました。本人もそう思っていて、まだまだやるべきことがある、やれることがある、と思っていたかもしれません。ボランは、大きな後悔と禍根を残してこの世を去ることになってしまった不運な人だったと私は考えています。

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