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知らないから怖い ~批判的思考への批判~

私たちは怖さを感じることがある。おそらく元来備わっている一種の防衛反応であろう恐怖心は、幾度となく人類の進化に役立ってきたであろう。暗闇を恐れること、得体のしれない物体に対する疑い、他人への猜疑心。恐怖と似ているような現象はしばしば観察されるが、いずれにもぜひ共通項を見出したい。それは、恐怖が対象を「知らない」ゆえに生まれてくるというものだということである。

知らないことが恐怖を生み出すとはどのようなことだろうか。例えば、(新興?)宗教の勧誘を考えてみてほしい。あなたは今、玄関先で今後数十年をかけてでも日の目を浴びることを頑なに信じてやまない宗教家のお誘いを熱烈に受けていると仮定する。しかし、当の宗教についてあなたは全くの無知であり、名前さえ聞いたことがあるか分からないような怪しさに満ち溢れたものである。さて、インターフォンがなってしまったが、どうしようか、あるいはどうするべきだろうか。ここで判断の基準となる価値観について振り返りたい。それは、知らないから怖いということである。もしその宗教について(少しでも)知識を有するならば、おそらく(二重の意味で)扉を開いて暖かく?彼/彼女を受け入れるといえるだろう。だが、何の予備知識もないあなたにとって一歩先にある宣教師の姿は悪魔というべきか、はたまたウイルスというべきかとにもかくにも危ぶまれる存在に見えるのである。

知らないから怖いとは、困ったものであろうか。私はそうは考えない。ごく自然な現象としてカウンターを一回進めるだけである。つまるところ、知ってさえいれば怖くなんてないのである。例えば、自分がよく知っていることに対して恐怖を覚えることはほとんどないだろう。毎日の通勤通学路、住み慣れた家の中、お気に入りの公園等々数えきれないほど日常化している時間や空間を私たちは持っている。そういった常日頃から目にする出来事に対していちいち怖がっていたりなんかいたらきりがない。知っていることに対して、私たちはどうやらアンテナの感度を下げているようである。

ところで、題にもある「批判的思考」について耳にしたことがあるだろうか。英語で言うと、critical thinkingである。言い直したことに特に深い意味はない。珍しく引用をしてみると、「論理的・合理的思考であり、規準(criteria)に従う思考」であり、「より良い思考をおこなうために、目標や文脈に応じて実行される目標志向的思考」ということらしい。(学術論文ではないので、引用方法についてご指摘いただきたくないが)

要するに、意見を否定するだけでなく、多角的に検討を重ね、より高次のものを形成するプロセスといったところであろう。アンチテーゼも目を覚ましだすような弁論術のようにも見えなくないが、どうやら批判的思考は今よりレベルの高いことを行うのが目的なようなので、その欲求には是非とも従っていただけるとよいかと思う。ちなみに私の周りで流行っている(?)ような気がする。

では、本題の批判的思考について批判を実践してみようと思う。批判的思考の定義づけとして一番簡単なのは、ベターなものを作り出すための方法論だと思われる。ゴールがベストにならない理由は終わりはなく、常に上を目指す向上心の表れであろうか。そのためには知識の豊富さや情報処理能力、根拠を見抜くこと等が求められるだろう。ここまでは共通認識を持っておきたい。

ここからが重要なポイントであるが、批判的思考の問題点は何だろうか。一見非の打ち所がないような素晴らしい完全無欠の思考法を先人たちが時間をかけて生み出してくれたようにも思えるが、実際に批判的思考を運用するとなった際、多くの人にとって足かせとなるのは一体何だろうか(友人との雑談に最も用いてほしくないものの一つではあるが)。それを紐解くために、「怖さへの抵抗感」を考えてみよう。冒頭から一貫して主張し続けているように、知らないことに対して私たちは恐怖感を覚える。宗教を怪しいと思うのはなぜだろうか。投資話を怪しいと思うのはどうしてだろうか。それは、知らないからである。知らないことに対しては私たちはどうも疑いようがない。疑う方法さえないようである。言い換えると、知っていることに対してのみ疑いを持つことができる。それを知って初めて可能になるのである。つまり、「知る」姿勢が批判的思考を成功に導くための第一歩となり得ることを私は結論付ける。

ここで話を終わらせてしまっては、せっかくの批判も批判的思考に基づかないもったいないものになってしまうので、もう少し内容を深めてみよう。知ることを前面に掲げることにより批判的思考の問題から抜け駆けを企てた私たちだが、知るだけではもちろん満足できるとは到底思えない。よく知っていることに対して恐怖を感じることはないと先述したが、まさにそれが批判的思考を妨げていると思う。つまり、知っていることをこれ以上知りたがるという態度は本来人間に備わっていない機能ではないだろうか。同じ計算ドリルを何十周もする人がいるとは思えない。飽きるからだ。知っていることを怖がることはない。怖くないことを疑うことなんて普通はするはずがないのだ。だから、多くの場合批判的思考はただの批判で終わるか、あるいはただの思考に留まったままでいるのではないだろうか。

しかしながら、既知である、かつ恐怖を感じない物事に対して疑いの目を向ける方法はあるのだろうか。すなわち、批判的思考を成立させる絶対的な手段は存在しているのだろうか。私は、どうあがいても人類が皆等しく批判的思考を実行することは不可能のように思える。盲目的に事実を認め、本能に逆らうことなく恐怖を存分に活用して生きている人はそれでいて賢い。知らないことを知りたくなるのは自然なことであるが、知らないままにしておくのもまた人のなりであろう。その点において批判的思考は、現代人の生み出した極めて限定的な環境における思考過程そのものに付加価値を見出すためのイデオロギーではないか、と思ってしまうほど脆弱性を抱えた危険な方法論だと警鐘を鳴らしたい。

だからと言って、批判的思考を使わない手はないと私は同時に主張する。なぜなら、批判的思考というのは古来より戦いを重ねてきた「知らないことへの恐怖」から逃れるための優れたメソッドであるからだ。話が若干飛躍するが、現代社会においては個人への情報の流入が過多であることは誰の目からみても明らかであろう。そんな時こそ、批判的思考の助けを借りて人生の憂慮を少しでも取っ払うことができるとすれば、案外捨てたものでもないのかもしれない、とひ弱な妄想に耽ってみるのもまた楽しいのである。


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