見出し画像

(その2)論理性序論(思い込みについて)

 例えば、論理的に読解しようとする場合において、どうして我々は間違えることがあるのだろうか。それはずばり、「思い込むから」である。
  例えばカントの純粋理性批判の、「Aという主語概念に結びついているものとしてのBという概念を認識するためにAなる概念の外へ出る場合に、私が自分の支えとするところのものはなんであるか。」という一文を取り上げる。
 すなわちこれは、(後の展開から察するに)特定のAというアプリオリ的主語概念と結びつきうるのはアプリオリ的な特定のBという概念のみであるのだが、それは特定なのにも関わらずその外へ出た場合、自分の判断の支えとなっているのは何(先天性と後天性について)なのだろうか、ということだ。(多分)
 さて。この場合の論理を解説するに、まず「Aという~Bという概念」、「それを認識するために」、「Aなる概念の外に出る場合」、「支えとするもの」、「それは何だろうか」、とまずこう分解することから始める。まず最初から、一つ目のそれを主語概念とは本当のところ[主語を構成しているもの]なのに、例えば主語概念とはすなわち、[主語に結びついているもの]と考えてしまった場合、後の[Bという概念がその主語概念に含まれている]のでなく、あたかも[Aを構成している]かのように、そういう思い込みによって認識した場合、このことは実際主にアプリオリについて触れているのに、実際アポステリオリ的な要素を多分に含んだ文章へと転化してしまい、その後を読んで勝手に混乱するのである。これは実のところ、概念について自分なりのアポステリオリ的解釈を有していて、そしてそれは当然のことだからカントも同じである、と思い込んでいるからに過ぎない。まあ、それか文法を間違えているかである。
 論理においては、確かに決め付けは一つの策である。(多分)しかし、それはあくまでも考察を可能にするための間に合せの仮説であって、すなわち考察を始めるためのものでしかないのだから、それを鵜呑みにした思い込みは論理においては害毒でしかないのだ。(もう一度言うが)もっとも、思い込みや決め付けも一つの術であるだろうが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?