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片耳の聴こえないイヤホン

「お前には才能がない」
そう言われたことが、人生においてあるだろうか?僕はない。もしかすると遠回しに言われたことがあるのかもしれないが、少なくとも僕の自意識の中に、それが襲いかかってきたことはない。

とはいえ、これに関しては、「才能があると自分が思っているわけでもない」という話をしたいのである。
才能という言葉を定義する前に、才能の話をしても意味がわからないと思うのだが、ここでは「無意識のうちに表出してしまう能力」とでもしておこうか。
話をする前に、ある少年の物語について言及しておこうと思う。

こんなことがあった。彼は幼少期、野球をやっていた。彼は特に野球がやりたかったわけでもないが、兄が少年野球チームに入会するのを見て、なしくずし的に野球と出会う。彼は右利きだった。ただ野球のことなどよくわかるはずもなく、彼は右手にグローブをはめた。当然、利き腕の方でボールを投げるのだから、右利きならグローブは左手にはめるものだ。これは野球をやったことのない人は、意外と最初に間違えやすいポイントでもある。ただ彼は、そのプライドの高さから、右手のグローブを外さなかった。そのまま、あろうことか左投げの選手としてその野球人生を始めたのだ。

彼には野球の才能があるわけではなかった。体はもともと小さく、足も速くなければ、精密なコントロールができる選手でもない。加えて利き腕でない方で野球を始めたものだから、それはより顕著に現れた。そんな中でも、彼は小学中学と、チームのキャプテンとしてその役割を全うした。決して強いチームではないし、実力があるわけでもなかった。そんな彼はいよいよ「俺には野球のセンスがあるのかもしれない」という感覚を獲得したのだ。

大間違いだった。高校に入ると、彼は大きな挫折を経験した。もはやバットを握ることも、ボールを掴む勇気もなかった。入部するまでもなく、野球を拒んだ。「自分には向いていなかった」という、誰しもが直面する痛烈な感覚。しかし彼は当時から、こんな価値観を抱いていたらしい。「才能だけで決まるほど、可能性は閉ざされていない。血のにじむ努力さえすれば、結果は必ずついてくる」と。

彼はラグビーを始めてみた。体も小さく、運動神経がいいわけではなかった彼も、かの価値観は正しいと証明したかったのだろう。どこかで違和感を抱きながらも、諦めきれなかった、違和感と直面するのがいやだった。血の滲むようなトレーニングをし、声を張り上げ、今までやったことのない「足」を使った球の扱い方も練習した。怪我や、自己嫌悪から何度も続けることを諦めかけた。でも、諦めなかった。

……もうおわかりだろうか??

彼に、ラグビーの才能はなかったのだ。それを埋める努力も、ついには叶わなかった。球蹴りはてんでものにならなかったし、それを埋めるようなパフォーマンスもできず、強いプライドだけ勝手に打ち砕かれ、無駄に生産できない卑屈者として、人々の目には映っただろう。彼はそうして、高校を卒業するとラグビーと距離をおいた。しかし諦めきれない彼は、その劣等感を勉強にぶつけた。彼は一般に優秀と称される大学に進学した。ただ、もうなんとなくわかっていたのだろう、彼は勉学でも自身の欠陥と限界にはすぐにきづいた。

もはや才能と実績を無理やりこじつけたり、それらを切り離す作業も面倒なのでここでは省くが、彼を見て一体僕は何を思うのか?
彼には才能がないとは思わないが、自分が感じていた違和感は、気づかないうちに大きく、見過ごせないものとなっていたのだろう。それと今更向き合うのが怖くて、結果最後に大爆発を起こし、彼の自尊心を粉々にし、劣等という記号だけが残ったのだと思う。

そんな中で、僕は今、彼のような感覚を抱いている。
まるで片耳の聴こえないイヤホンのように、首の皮一枚つながったまま、もがき苦しんでいる。

僕はこれでも写真屋さんをやっているのだが、やはりやるからには何か大義を持ち、何かを成したいと思う。
写真はある意味で正解がないから、勝ち負けがないから続けられているとも思う。
もし写真に明確な勝ち負け、上下関係がフレーミングされれば、僕は彼と全く同じ末路をたどっていただろう。
しかし、ここ最近は写真に正解を、才能を求めている自分がいることにも気づいたのだ。

写真には正解がない、十人十色、みんなちがってみんないい、そう心の中ではきっと誰もが思っている。それが真意かどうかは別として、少なくとも写真といえばの次に来るくらい、多数が持ちうる価値観だとも思う。

芸術的側面において写真を見るとき、確かにそれは正解を失って、歴史的文脈の中で支持者と反対者を生み出すことになる。
ただ、写真がそれ以外の顔を持つのも確かだ。ある指示や、ある条件を満たす写真を「正解」とするならば、広義の正解が生まれ、それに外れる集合は不正解の写真となる。これは芸術的側面にはあてがえない、写真の表現性の広さ、精密さゆえである。

そんな中で、「それが人々の共感を生むかどうか」という側面でこやつを眺めるとどうだろう。
それが正しい正しくないはこの際棚に上げておいて、それを考慮したとき、摩訶不思議、写真には階層が生まれる。
もちろん、これは「芸術的側面」における支持者というデータを取った場合の話で、正解不正解の話でいうと、確かに正解はない。
ただ、まず間違いなくこの構造は資本主義的で、かつより苛烈な世界になる。
回りくどい言い方はやめよう、これはSNSに見る写真表現の問題である。

そう、僕は気づいてしまった。この資本主義的な構造の中で、自分がその限定的な成功を収めることは不可能だということに。無論、自分が写真をやめるまでそんなことはわからないし、それがひとえに直線的な承認欲求からきていることも理解している。

僕は、特別にはなれない。
誰もがあんなスーパースターになれることに憧れる。「俺は憧れてないぞ」という人はここではちょっと静かにしてもらいたいのだが。
「誰かに憧れる」人は、自分が誰にもなれなかったことを知っている人で、「憧れない」人は、自分が誰かでいいと思えている人である。

特別になれない人は、特別にはなれないのだ。そう僕は思っている。
いや、僕は何も挫折した人間は支配者の元でせっせと勤労しろと言っているわけではない。

片耳の聴こえないイヤホンは、それでも役割を全うし、音を流し続ける。
それでいいじゃないかという話だ。僕らはみんな、才能に満ち溢れて生まれてくるわけではない。一度憧れてしまったもの、考えたくなくても考えてしまうもの、それらに対して、「早く買い替えなきゃいけない」と思ってもなかなか買いには行かず、どうしようもなく向き合い続けてしまう。
あの手この手で工夫を凝らし、イヤホンジャックの向きや角度を調整して、もしかしたら聴こえてくるかもしれない、そう思いながら音を、心を、聴こうとしてしまう。

僕はそうだった。
彼のように、「実はもうダメなのかもしれない」と思いながらも、諦めきれず、なんども、なんども。

何をやってもダメだった、やり方が間違っていたのかもしれない、でもダメなものはダメだった。
僕もそうだった。
心の奥までナイフを突き立てて「自分はダメ」「努力は報われない」、そんな言葉とともに自己否定を繰り返す。もう救われたいのに、もう捨ててしまいたいのに、憧れや好きといった感情が自らを縛り付け、逃げられなくなる。

でも、それでいいじゃないか。
ありのままでいいんだよという話ではなく、憧れてしまったものは、もう向き合わざるをえないという話だ。イヤホンを買い替えられるほど、余裕もない。
才能は自分にはない。だから誰も評価してくれないし、されたとしてもそれは一過性のもの。
才能のない者はないなりに、醜くもがいていこうじゃないか。
疲れたら休めばいい。一晩寝かせたら、イヤホンが復活するかもしれない。
本気の努力は報われるわけないし、この先に光があるとも思えなくても、導かれるように、ゆっくり、ゆっくり、向き合い続ける。

**バッターボックスに立てる人は、バットを振ることができる。
イヤホンを持っているなら、片耳でも聴くことができる。 **

そう、向き合っているだけで、みんな素晴らしい。とっても強い。
僕はだから写真を撮る。
いい写真は、いい感性があるから撮れるわけでも、いい機材やいい技術があるから撮れるわけでもない。
シャッターを押すから撮れるんだ。

当時右利き左投げの野球少年で、球を蹴れない小さなラグビー少年で、優秀になりきれず精神を壊した大学生。
心をズッタズタにされた、そんな僕は、また違和感の肥大の限界に挑んでいる。
片耳の聴こえないイヤホンを、いつもポケットにしまって。


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