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菊畑 茂久馬(もくま)「孤独と反骨の画家」日曜美術館から②

創作活動から離れている間、菊畑は山本作兵衛さんと出会う。
山本作兵衛(1892年~1984年)。彼は自身の体験した筑豊地方の炭鉱の様子を絵にして文章を書き添えて描いていた。時代が石炭から石油へと移り変わり、作兵衛は切り捨てられていく炭鉱労働者たちの姿を2000枚とも言われる絵に描き残した。
当時作兵衛の絵は稚拙だとして評価されなかった。
しかし、自らの体験をもとに地の下で必死に生きた人々の姿を描いた作兵衛の絵に菊畑は絵画の本質を見る。
菊畑は言う。
「労働の有り様そのままが描かれているから、とっても見ていて抱きしめたいような感じになるんですよ。作兵衛さんがありとあらゆる人たちの説明のようなものに対し、猛烈にあたたかいものがフッとしていたと思うんですね。だからそういうものさえあれば下手な絵だとか、上手な絵だとかは関係ないと思いますね。」

山本作兵衛を唯一の師として慕い、その絵を画集として編纂するなどして力を尽くした。それはのちの日本で初めての「ユネスコ世界記録遺産」として登録(2011年)につながった。

そして20年の沈黙から再びキャンバスに向かい始めた。
1983年、48歳の時に東京で個展を開く。
当時発表された「天動説」はオブジェと絵画がせめぎ合っているような表現。天動説という題名からイメージできるように、時代錯誤的であって中央のやり方とは全くずれているけれども、あえてそこをどんでん返しに「自分こそ中心だ」と、そういう名前を作品につけた。
自分という存在自体が一つのジャンルだと一喝の啖呵を切る感じに。

そして菊畑は早くに亡くなった父と母の記憶をキャンバスに描く。
「舟歌」漁師であった父。自身の孤独をかかえ、面影さえない父を描いた作品。
菊畑の言葉。
「私はまだ泳ぐことが出来なかったので、おじさんの肩に必死にしがみついておりましたが、涙で濡れた小さな頬を海水が洗い、次第にこのままこの美しい海に沈んでいってもちっとも苦しくないというような気分になってきます。それでフワッと手を離してみたりして、おじさんをビックリさせてみたりしました。そんなとき浜に上がったおじさんはしばらく私をぎゅっと抱き締めておりました。」
菊畑の長崎五島のおじに預けられていた時の記憶が作品になっている。青色の海を思わせるその作品はその吸い込まれそうな欲求を現しているのかもしれない。
「天河」10歳の時に体験した福岡大空襲。その記憶と優しい母の記憶が塗り込めれている。
赤と黒の血の雨を思わせる作品。
当時の記憶を菊畑は語る。
「炎が見えるんじゃなくて空がブワッと赤くなった。なんとも云えん名状しがたい音。天空がそれも息をする。うわーん、うわーんという大きなうねりのような悲鳴と、焼夷弾が風を切るような音。何とも奇妙な表現できないような嫌な音でしたよ。」

菊畑の作品は同じ題名でシリーズ化し、いくつも作品を描いている。何度も描き、幼少期の記憶を作品として残すことで父と母と一緒にいることができたのではないか。ここで菊畑は過去の孤独を昇華させたのかもしれない。

そして晩年の作品「春風」。美しい大海原を越え穏やかな春の風が吹き抜けるような風景にたどりついた。
中央が白く隔てられた逆三角形のブルーが青い鳥を思わせる。

菊畑の絵に対する思いの言葉。
「感動する良い絵というものには、ひとつの歴然たる命が宿っているものだと思ってきた。画家は全生涯を懸けていかに自分なりの美しいアーチをかけえたか、それを主語に問われる。
それゆえに一点、一点に全力を注がねばならない。」

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途中で私の言葉も交えて文章を綴らせて頂いた。私が絵を見て「良い」と思わせるもの、それは菊畑と同じ、命が宿っているかだ。私の言葉で言わせてもらうならば、画面から溢れ出るエネルギー、これがあるかないかだ。
だからそこそれを感じる芸術家の生い立ちは知りたくなってしまう。そこにはやはり絵と同様に魂をかけた生きざまがある。

2010年から発表された「春風」シリーズ。もうここにはなまめかしい感情は無い。もう、全てを突き抜けその画面にすら命を私は感じない。軽やかにただ自由を謳歌する残り歌を余韻に遠く遥かに飛び立つ鳥を見るだけだ。

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