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現実感のなさについて

現在のことではない。以下に書くことは主に小学生のころに感じた不安である。

現実感がないということがある。離人的な状況もあるが、それとは少し違う気がする。離人というと、自分が少し自分の体からズレている、離れているという感覚と理解している。疲れたときになんとなく感じたことがある人は多いのではないか。

そういうものとはちょっと違って、たとえば小学時にグランドで体育の授業をしているときなど、たとえばそこでラジオ体操をしているとする。このとき、大きく倣えで広がった同級生なり先輩後輩がいて、みんなが同じ運動をしているわけだが、そこで「ひょっとすると今見えているのは幻覚かもしれない」と思ったりするのだ。そう思って疑ってみてもそこに人の姿を認めないということはない。見えているのだが、見えていることに確信がもてないという感覚があって、本当はいまは算数の時間かも知れない、自分だけが校庭でラジオ体操しているのかもしれない、と思う。思うとだんだん恥ずかしくなってくる。かといって放棄しもできない、いま現に見えているものも否定できないからだ。

どうしてこんな疑惑をもつことになったのか。物証となるきちんとした記憶は見つからない。ただ、そのとき感じていたのは、恥ずかしさだったと記憶する。まあ、記憶なんてのは現在になって構築されるものだから、それも信用できるか分からない、そのことを留意して読んでほしい。

この場合の恥かしさは、間違いや失敗を原因に生起している。では、間違いかもと疑う(ここでは、算数の時間なのに体育をしていること、ひとりで。いわば幻覚を見ている自分が周囲に奇行として裸になっている)ことは、何に因っているのか。

おそらく、その現場を見回しても答えとなる疑いの端緒は見つからない。疑いのきっかけはそこにはない。強いていうならみんながみんな同じ動きをしていることのもつ非現実感というのがあるかもしれない。

それは安心かもしれない。周囲と同調して、違和感のないことをしているという感覚がむしろ不安を呼び込んでいる可能性はある。記憶のかぎりでは、この事態に陥っているのはこの体育の場面であり、体操の場面くらいである。つまり、その後の体育本番ではこれを覚えた記憶はない。競争でも逆上がりでも棒のぼりでも、そこには熱中がある。熱中がある限りそういう思念がまぎれることはないものと思われる。あるいは待ちの時間には感じたかもしれない。

安心すると不安になるとかバンプの歌詞みたいだが、吉野朔実も似たようなことを言っていて「私達は普通じゃないことになれているので不幸のほうが落ち着く癖があるのよ」と書いている。

これは病的といえば病的な心理だと思う。私の場合はおそらく、不規則な挙動を示す日常的な周囲のなかで、あまりにも明白な規則性を周囲がとっているとき、あるいは誰かの(たとえば教師の)命令するままに動いていればいい安易すぎる状況に不安を覚えるのではないかと思う。その不安というのは不安な日常を目の当たりにしている分、この時間が嘘くさく見える、「自分にとってこんな分かり易いものが現実であるはずがない」というわけだ。不幸に慣れているとはそういうことだろう。ある種の不幸(困難さ)に、現実というあり方を見ている。

じゃあ不幸、困難の日常化は何によっているのか。享楽への壁があり、人の目がそれを作っている? 一人遊びをする子供だったことはたしかだ。それを覗かれることは恥ずかしいことだ。また大人の真似をする子供だった。真似というか、人とはそういうものだという理解から、自己の欲求を押し隠して大人の素振りを倣うのだ。こうしたことから自己を表出することへの困難が生まれ、それはのちのちにも禍根となって残ることになった。

この辺はもう何度も書き散らしているので、半ば自分でもフィクションなのではないかという気がする。虚構としての記憶なのではと。

ひとつ思うのは、アダルトチルドレンとよばれる人たちのなかには、私のこういう体験と同じ体験をもっている人がそこそこいるのではということ。

アダルトチルドレン云々は措いといて、私だけじゃないんだなと思ったのは小池桂一の漫画で同じことが描かれているのを見つけたときだった。

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