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コミュニケーションは世界を救う。

はじめまして。
アートでまち中を彩りたい、新卒1年目ワダです。
これから日々、アートでまち中を彩るその日まで、考えていることや実際にやったことを日記的に書いていきたいと思います。

と、そんなことを言いながら、1年前まで僕は全くもってアートに興味がありませんでした。しっかりと知識をつけないと語ってはいけないような気がしたし、美術館で価値がある(らしい)作品を観ても何だかよくわからなかった。そんな僕がなぜ急にアートアート言い出したのか。

大学1年の頃に「男はつらいよ」シリーズ48作(特別編を入れると49作)を全て観てから、僕は一気にコミュニケーションに興味を持った。実家が北九州で酒屋をやっているからか、寅さんのセリフや柴又のまちのコミュニケーションには、はじめから何の抵抗もなく受け入れることができたし、毎回感動させられた。それからの僕の夢は「寅さんの世界をつくる」になった。要は、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションが絶えない世界だ。テクノロジーの時代にまたそんなことを、と思う人もいるかもしれないが、僕はコミュニケーションこそが僕たちの最終的なセーフティネットになると信じている。なぜなら、どこまでテクノロジーが進んでもこの体がある以上、僕たちは<イマ・ココ>に生きているという事実は変わらないからだ。こんな時代だからこそ、面倒臭いコミュニケーションは世界を救うのだ。

そんなことを思いながら、大学4年間「どうやったらコミュニケーションを生み出すことができるのか?」ということをずーっと考えていた。そして、1つの重要な要素を発見した。それは、コミュニケーションには必ず「媒介」が必要だということだ。好きな映画が一緒だった、とか、たまたま飲み屋で相席になった、とか。何でも良いが、コミュニケーションのきっかけには必ず何らかの「媒介」が存在するのだ。そうと判れば、あとはその「媒介」をとにかくたくさん生むだけ!...なのだが、それがめっちゃ難しい。考え出したらいくらでもあるし、それを生むってどういうことやねん、ということを考えては実験し、なかなかしっくりくる答えにたどり着けなかった。

そんななか、インターン中エクセルをいじっていると突然、「アートだ!!!」と閃いた。雷に打たれたとはまさにこのこと。全身に鳥肌が立って、とてつもなく興奮した。アートこそ、世代も年代も国籍も言葉も何もかも超えて、僕たちのコミュニケーションを生み出し続けてきた究極の媒介だと、信じることができた。2,000年前の壁画に胸を高まらせている人もいれば、知らない国の知らない人の作品に衝撃を与えられる人もいる。間違いない。アートこそ、コミュニケーションの究極の媒介なのだ!

これで僕がすべきことは明確になった。アートでまち中を彩れば良いのだ。アートがまち中にあれば、それはコミュニケーションの究極の媒介がそこら中にあることと同じなのだから。よしっ!と動き出そうとしたそのとき、あることに気が付いた。とても重要なことに。

僕自身がアートに感動したことがない。
っていうか、そもそもアートってなんだ?

やるべきことは明らかになったのに、そこからの一歩が遠い。でもやるしかない。何からはじめよう。
こんなタイミングで1つのイベントと出会った。

「働く人のためのアートの買い方を学ぶ会」

ものは試しだ。まずはこれに参加してみよう。

ここまでが去年の12月までのお話。続きはまた明日、書こうと思います。
それでは。


| 気になる展示のコーナー |
これに行きたい。コンセプトが良い。救われる。


magma ‘X・Y’
人は怖ろしいほどに無意味に意味を見出そうとする。
無意味な偶然を運命と呼び、無意味な悲劇にさらに涙を足し、
純粋なバカらしさまでにも死力を尽くして奇蹟のようなストーリーを紡ぎあげ自分自身を納得させる。
ときに意味付けされ答えを出されたものは窮屈に進むマスをなくす。
逆に、役に立たない馬鹿げたナンセンスは余白という豊かさをもち、次の一手の思考を着々と進める。
-magma 杉山純 / 宮澤謙一

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