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不自由のなかの自由

日本は好き。
日本人であることも誇りに思う。
けれど、
日本で生きるのは苦しい。


SNS上でそんな内容の書き込みを見た。

この人が言いたいのは、
日本の中では暗黙のルールなどが存在していて息苦しいといったことのようだ。
エスカレータでは歩く人のために片側を空けて立つとか。
母親が夜遊んでいたら責められるとか。
いつからなのか存在している「当たり前」。
「当たり前」ができていなければ批難される。
責め立てられ、
世間から罰を受けることすらある。


外からは日本はいい国だと言われる。
落とし物がキレイな状態で戻ってくるとか、
街中がキレイだとか、
おもてなしの精神だとか。
おそらくルールを守ることを重んじるからだろう。
モラルが高水準にあるのかもしれない。
島国ゆえの生き残る術として体に刻み込まれているのかもしれない。
それゆえに雁字搦めで、
その和を乱すものを徹底的に叩く傾向がある。
外の世界を知るようになり、
外へ飛び出す人が増え、
自分たちの異質さが際立つようになる。
外の世界で羽を伸ばせるようになり、
呼吸ができる感覚を覚える。
自由になる。


自由とは、
不自由があってこそ自由を感じるもの。
不自由がなければ自由はない。
それはどんな世界にあってもだ。


わたしは宗教2世として20年間ほど過ごしてきてが、
そこにはたくさんのルールがあった。
それらは世間一般にとってはルールではない。
それらルールを守るよう躾けられ、
守るべく尽力してきた。
けれど決して「いい子」ではなく、
自分の内面を自覚すればするほど苦しくなる。
「いい子」なんかじゃない。
「いい子」にならなきゃいけない。
でも心が追いついていかない。
逃げ出したくなる。


けれど、
外の世界に足を踏み出すと、
途端に「いい人」になれるのだ。
居心地が良くなる。
これまで内側に向かっていた意識が視界を外へ広げだす。
自由を感じた瞬間である。


わたしは、
日本にいても自由を感じている。
見ている世界が狭いからなのかもしれない。
ただ、
あまり自由を広く追い求めると、
結局不自由に感じてしまうのではないだろうか。


自由は責任も伴うもの。
自分のキャパシティを知らなければいけない。
不自由は、
自分を守ってくれるものにもなり得る。
自由は、
危険を孕んでいることもある。
求める自由には、
自分の成長も必要になるかもしれない。


最後に、
少し前にあったこんな書き込みを読んだ。

夜中のまったく車も走っていない道で信号待ちしている人を見て、日本が生きづらい理由はこんなところだと思う。

これは…
言いたいことはわからないでもないけれど、
正直生きづらい理由とは無関係な気がする。
ルールというか、
命の問題だよね。


まぁ、
渡ったことありますけれども…


最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

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