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私と文字

引っ越してから初めて実家へ帰省した。

 家に帰ると、もう自分の部屋は消えていた。机も、椅子も、ベットもない。部屋だった残骸は段ボールに詰められた状態で部屋の隅に積まれていた。帰った途端に母親から「あの荷物は捨てるか」「これはいるか」「そこの荷物はどうするか」といった質問が次々と飛んでくる。これまでの残業続きの生活と一日かけて車で帰省した疲れが重なり、質問たちから逃げるように布団に入った。

 次の日は、大雨。ザーッと洗われるような気持ちの良い音に包まれながら、布団にうずくまった。目が完全に覚めると、姉の買い物の足となり車を走らせる。姉の話を声を聞き取ろうとするが、自然と頭か抜けてゆく。内から声を出そうと思っても、少し声を張る努力が必要だった。流されるように歩き、常識に押されるようにして挨拶文句を吐き出す。家に帰ると、また布団に潜った。

 気がつくと18時を回り、夕食の匂いが2階まで昇ってきた。寝転んだまま、部屋を見渡す。「残骸」に目が留まる。箱を開けるとたくさんのノートが詰まっていた。学生時代の講義ノート、高校生の時に書き溜めた「思想帖」。「台湾旅行記」、「受験記」「日記3」…。たくさん悩んだ過去がそこにあった。すっかり忘れていた記憶。
 夕食を頂いて、それとなく家族と話して、風呂上がりにペラペラと部屋の隅でノートを眺めた。そう、読むまでもなく、読むほどに過去とはまだ向き合う気もなく、ただ眺めた。形は違えど同じような悩みに行き当たっているよう。ループ。解のない問いを持てる文字にぶつけていた。今、抱える悩みもそんな類いのものなのだろうか。そんな事をぼんやりと思いながら、気づけば仕事のことを考えそうになったので布団を覆った。

 雨は上がり、冷たい風の吹く日。昨日の文字を思い返しながら家を出る支度を始める。「残骸」から持ち帰るもの、捨てるものを仕分ける。ものは生活に取り込むと息を吹き返す。どこか、それが嬉しかったりする。
 車を走らせる。4時間の旅。読んだ文字が反芻する。頭の中で記憶ある出来事に対してビリヤードのようにぶつかり、消えかけていた記憶を弾きだす。そしてまた同等の速度くらいで消える。
 ふと、思った。私は文字に記憶を上塗りしているのだ、と。それを読み起こした時、弾みとして一つの文字に上塗りし続けた記憶が剥がされ、記憶の表面に浮かんでくる。そう、その瞬間に過去が立体となるのだ。ループが1つ上の階層へ昇る。「残骸」と同じように、形あるものとして使い、今に呼び起こし、息を吹き返す。そこが快感だったりするのかもしれない。
 捨てるはずだったノートに再開した世界線。と、そのまま捨てた世界線では、私の人生はこの先どう変わっていったのだろうか。また、再開したとしても弾きだされた記憶を受け入れた世界線と逃げた世界線で、私の明日はどう違ってゆくのだろうか。

 これからも文字に記憶を上塗りしてゆく。そして忘れてゆく。その先の自分には何が残るだろうか。どんな記憶と再開するのだろうか。選択を指してゆくだろうか。わからない。だから今日も私は、文字に記憶を上塗りして床に臥すだろう。
 文字は動かない。自分から触れに行くしかない。その偶然性、必然性を愉しむ。だから結末を決めずに形を残すのも悪くないでしょう。お母さん。

これは長い言い訳である。

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