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経営者が「死ぬかもしれない」と思った日

有難いことに、私は体が丈夫な方だ。
しかし、これまでの人生で一度だけ「死ぬかもしれない」という状況に陥ったことがある。
6年程前のことだ。
その時、いろいろと感じたことがある。
今回はこの辺りの事を書き綴っていく。

心肥大により心臓の動きが3割程度になる

病名は「心不全」という汎用的なもの。
その実態は「心肥大」というもの。
心臓への負担が続き、心筋が厚くなった結果、心臓が肥大するものだと認識している。

――― ある日、突然「死ぬかもしれない」と宣告された。

私は、その宣告前は「胃潰瘍」だと思っていた。
胃が痛くて、胃腸科のクリニックへ通っていた。
2か月程経っても、治療の効果を実感できなかったため、別の医療機関へレントゲンを撮りに行くことになった。
そして、心肥大が発覚した。

今思えば、胃潰瘍だと思っていた方が不自然だ。
体力は落ち、全身がだるく、何より「仰向け」で寝ると息が苦しくて眠れなかった。
しかし、自覚症状としては「胃が痛い」だった。
実際、胃の機能が弱っていたと思う。

その後、クリニックから紹介状をもらい、別の病院へ。
そこで、心臓超音波検査をした結果、心臓が全然動いていないと言われた。
その病院では「それ以上のことは無責任になるので言えない」と言われ、暫定的な薬の処方を受けた上で大学病院への紹介状を渡された。

大学病院へ行って驚いた。
というか、驚かれた。
自分で車を運転して、自力で歩いて来たことに驚いたようだった。
普通なら、ベットでぐったりなレベルだと言う。

――― 次は家族と一緒に来てください。

そう言われた。
何だが、大袈裟な話になってきた気がする。
私の状況について、いろいろと話してもらったが、どこか他人事だった。

――― 本当にいつ死んでもおかしくない状況ですよ。

とも言われた。
それでも、まだこの時点では恐怖心はない。
なぜなら、実感がないからだ。

数日後、妻と二人で再び大学病院へ行った。
妻にも、私の状況が説明された。
検査の予定が組まれ、その内容と入院に関しての説明がされた。
念押しして、急に病状が変わった時にするべき対応を説明された。
その説明と同じ内容が図説で記載された小冊子まで渡された。

この辺りから、はじめて「死ぬかもしれない」と思うようになった。

死に近い位置で考えたこと

その時に私が考えたことは以下の通り。

・死んでも後悔はない
・家族、近い親族には説明しなければいけない
・取引先には絶対に言えない
・仕事に穴は空けられない
・最悪、死んだ後のことを考えなければいけない

死んでも後悔はない

死に対しての恐怖心はあった。
しかし、死んでも後悔はないとも思った。
今までずっと、やりたいことだけをやってきたからだ。
それが終わってしまうのは寂しいが、悔やむ気持ちはなかった。
そう思えたことだけは、自分で自分を誇った。

家族、近い親族には説明しなければいけない

いきなり私が死んで、迷惑をかけてはいけない。
念のため、家族と近い親族には、その時の私の状況を説明しなければいけないと考えた。

これはけっこう勇気が必要だった。
言いにくい。
特に、父親には言い辛かった。

まず、親より先に子供が死ぬ親不孝の可能性。
そして、既に妻を亡くした父親。
その状況下では、非常に言い辛い。

さらに、父親は私の会社の株を少々保有している。
私に何かあった時、会社の廃業と清算を頼んでおく必要がある。
特に、これを言うのが辛かった。
こんなタイミングで事務的連絡とは、何とも切ない。

取引先には絶対に言えない

取引先には絶対に言えない。
言ったら、契約を切る会社が出て来る。
確実に仕事が減る。
そう思った。

これはきっと、多くの経営者が同じ状況になったら、同じことを考えると思う。
自社のリスクを取引先に伝えて、良いことは何もない。

仕事に穴は空けられなない

従業員にも言えなかった。
一部の幹部陣には伝えようかとも思った。
しかし、結局は止めた。

普通に考えれば、リスクは共有するべきだ。
しかし、問題が起こることも考えられた。

一つは、社内から取引先へその情報が漏れること。
これは絶対に避けなければいけない。
そのため「普通に仕事をする」必要があった。

もう一つは、個人的な問題。
私の「仕事に穴を空けたくない」という意地。
この感情は、今となっては反省している。

最悪、死んだ後のことを考えなければいけない

「死後処理」
それが私がワードをつかって書いた文書の名前。
妻宛、父宛、会社宛へ3種類用意した。

妻宛のもの

「遺書」など書く気にはなれなかった。
ただし、死後の事務処理、会社の経営方法に関しては、ベストだと思う対応を書き綴っておく必要があると思った。

生命保険などの情報は、全ての家庭で共有するべきだろう。
それに加えて、経営者の場合は、重要なデータへのアクセス方法。
一部の会社を存続させるために必要な運営手続。
一部の会社を廃業し清算するために必要な経営情報。
個人資産、会社資産の相続に関わる情報も残す必要があった。

この辺りは、何も残さずに死ぬのは、残された人に大きな迷惑をかけることになる。
この「死後処理」は、今でも定期的に更新して、印刷したものを金庫に保管している。

ちなみに、この「死後処理」を書いている時。
私自身は死んでも悔いはないと思いつつ、他に思ったことがある。

――― こんなところで死ねないな。

死後処理を書き綴ってはみたが、その通りに簡単に行くような気がしなかった。
書いたのは、私が思うベストな対応であり、その通りに実行できるとは限らない。
能力的な問題もあるが、何より感情的な問題がある。
それを超えて、死後処理の指示通りに実行できる可能性は、極めて低い。

そう考えると、簡単に死ぬわけにはいかない。
そう思った。
もちろん、今更そう思っても、特に私自身が何かできるわけではない。
ただ、もし可能なら今回の問題を切り抜けて、生き続けたいと思った。

検査入院の結果とその後

検査入院まで、3週間程の時間があった。
妻に大学病院へ送ってもらい、心臓カテーテル検査の準備に入った。
翌日、心臓カテーテル検査がはじまった。

思っていた以上の速度で乱雑に心臓に向かって入って来るカテーテルの感触は実に不快だった。
「ニトロ〇〇ml入れます」という誰かの言葉とその後の心臓の激しい躍動を今でも覚えている。
その翌日、検査結果を聞かされた。

――― とりあえず、すぐに命を失うようなことはないと思う。

ただ、心臓が壊れかけなのは事実。
甘く見ないように念を押されて退院した。

その後も、毎週のように日帰り検査を繰り返し、やれる検査がなくなるまで通い続けた。
血液検査、心電図検査、心臓超音波検査は、毎回実施。
CT.MRIのような検査。
何度も息を止めるように指示され、呼吸困難になりかけながら、何かをモニタリングしている(らしい)検査もあった。
微量の放射性物質を注射して、血液の流れをモニタリングする(らしい)検査などもした。

そして、数か月後。

――― 心肥大以外、特に異常はない

ということになった。
正直、ホッとした。

その後は、大学病院へは3カ月に一度。
しばらくして、半年に一度。
今は一年に一度通っている。
(薬は、地元のクリニックでもらっている。)

今思えば…

医者からは心肥大の原因は不明とされた。
だから、病名は心不全。

しかし、心肥大から3年程経った頃。
肥大した心臓が元のサイズ(推定)に戻っていた。
一般的に肥大した心臓が元に戻ることは少ないらしい。

もしかしたら、急性の心肥大だったのかもしれない。
だから、元のサイズに戻った。

今思えば、自律神経が壊れていたことが原因なのかもしれない。
胃が痛くなる少し前、一日中、汗が止まらない時期があった。
夏前から、汗が止まらず、夏が終わってもしばらくは汗が止まらなかった。

あと、おそらく自律神経を最も壊したのは、仕事だ。
仕事が上手く行っていなかったわけではない。
むしろ、新事業をはじめ、毎日絶好調で調子良く働きまくっていた。
このせいで、自律神経を酷使していたのかもしれない。
また、毎日テンションが高かったため、心肥大の病状を無視できてしまっていたのかもしれない。

人間はいつ死ぬか分からない。
「病は気から」と言うが、心は絶好調でも、体が絶不調になることがある。
死んだ後のことも、ある程度は考えておかなければならない。
しかし、死後の処理が当人の望む通りに行く可能性は低い。

――― やはり、簡単には死ねない。

これが、私が死にかけて思ったことだ。


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