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私はこうやって卒論を書いた/「論理的」って何?


 「論理的とは魔女みたいなものである」

 もし、あなたが「論理的ってどんな意味?」と問われたら、何と答えるだろうか?

 現在の私なら、こう答える。

 「論理とは、魔女みたいな存在だよ。
 西洋では魔女と云う人間がいると信じられている。魔女は悪魔と契約した女性で、魔術を用いて悪事を働くとされる。魔女は危険な存在とされ、対策マニュアルが作られ、退治する専門家もいたぐらいだ。でも、西洋の文化圏にしかいない。
 論理と云う言葉も魔女と同じで、西洋文化圏の人間なら誰でもその存在を知っている。日本人が論理的じゃないと云われているのは、日本人が魔女を知らないと云われているのと同じだよ」

 「論理的って何だよ?」

 
 学生時代の私は、「論理」の意味がさっぱりわからなかった。
 よく、「感想文と論文は違う」と云われる。

 何が違うのか?

 「前者は情緒的な内容でもいいが、後者は論理的でなければならない」とよく云われる。
 
 では、その肝心の「論理的」と問うても、変なレジュメか「あなたのここの文章は論理的ではない」とかしか云われない。

 結局、「論理」って何なんだ?

 私は「クリティカル・シンキング」の時と同様に、関連しそうな書籍を読んでみることにした。
 私は野矢茂樹『入門!論理学』を手に取ることにした。
 本書で、野矢はまるで禅問答のような文章を並べてみせる。

 論理というのはことばとことばの関係ですから、どんなことばでも論理の対象になりえます。(31頁)
「ではない」「そして」「または」「ならば」「すべて」「存在する」これらのことばが作り出す演繹的推論の全体を統一的に見通すこと、これがこの本の目標地点にほかなりません。(33頁)

 
 野矢の文章を読むと、「論理」とは「ことば」に関わることであると云うのが何となく理解できる。
本書を読むと、野矢は「論理」とは何なのか、「ことば」を用いて説明している。
 
 しかし、結局、「論理って何なんだ?」と云う問いに再びぶつかってしまう。

 「レトリック」とは何か?

 そこで、私は「論文の書き方」と「論理」に関連しそうな書籍を探すことにした。
 手に取った書籍で、澤田昭夫『論文のレトリック』がある。澤田は「論文にはレトリックが必要」と述べている。

その意味はまず、(一)いわゆる文章作法が修辞に関する戦術であるのに対し、構造的論文書きの戦略とは構想と配置の戦略だということです。つぎに、(ニ)構想、配置を中心に論文論を展開すると、それは問答論erotematicになる、いかに問を考え出し、いかにそれに答えるかという問答論になるということ──これは本書でとくに強調した点。さらに、(三)レトリックとしての論文論は話す、聴く、書く、読むの四機能を統一的に考え、しかも口頭レトリックがレトリックの基本だから、そこから出発するのが文字のレトリック、論文書きの早道であり、問答上手だと見ます。(四)問答論としてのレトリックという立場からは、人文科学の論文、社会科学の論文、自然科学の論文、技術の報告、医学の報告、経営の報告というような区分はさほど大切でなく、論文は論文であるかぎりすべて一定の共通構造をもつ。(5頁) 


 では、「レトリック」そのものは何なのか?

 澤田は同書の姉妹作『論文の書き方』で、次のように述べている。

 レトリック(techne retorike〈希〉、ars rhetorica〈羅〉、rhetoric〈英〉)は、約三千年の歴史のなかで西欧において発展、成長してきた「言問い」の技術です。(209頁)

 
 澤田の著作を並べて読んでみると、「レトリックとは人を説得する技術のこと」を指しているのがわかる。
 そして、「レトリックは古代ギリシャ以来の西洋の文化である」と云うのもわかる。
 無論、澤田は日本人でも訓練すれば、レトリックは身につくと述べている訳だが。

 「論文にはレトリックが必要なのはわかる。だが、それと論理は何の関係があるのか?」

 実は、前述した野矢の著作の中で、西洋のある哲学者の名前が出てくる。

かつてアリストテレスの論理学が「オルガノン」、つまり「道具」と呼ばれたのも、その辺の事情を踏まえてのことでした。どんな学問をやるにしたって、論理学は押えとかなけりゃいかんだろう、というわけです。(32頁)

「レトリック」と「ロゴス」


 私は「アリストテレス」と「レトリック」に関する著作を探したところ、タイトルがそのまま『弁論術(Rhetorica)』と云う書をみつけた。

 アリストテレスは同書で「弁論術」とは何なのかを次のように述べている。

弁論術とは、どんな問題でもそのそれぞれについて可能な説得の方法を見つけ出す能力である、としよう。(31頁、55b26-27)

 
 アリストテレスによれば、「言論」を用いた「説得」には三種類あると云う。

一つは論者の人柄にかかっている説得であり、いま一つは聴き手の心が或る状況に置かれることによるもの、そうしてもう一つは、言論そのものにかかっているもので、言論が証明を与えている、もしくは与えているように見えることから生じる説得である。(32頁1356a2-4)

 
 原典のギリシャ語に戻して要約すると、次のようになる。

聴き手が論者に或る印象を持つ(ethos)、聴き手の感情が動かされる(pathos)、証明による説得(logos)…(410頁)


 聴き手が抱く「印象(ethos)」や「感情(pathos)」による説得は理解できるが、「論理、証明(logos)」による説得とは何か?

「言論そのものによって」説得がなされるというのは、個々の問題に関する納得のゆく論に立って、そこから真なること、或いは真と見えることを証明する場合を言う。(33頁、1356a19-20)


 では、「弁論術」とは具体的に何を行うのか?

私に言わせれば、弁証術および弁論術の推論は、われわれが論点(topoi)と呼んでいる議論の場をめぐってなされる。ここで言う論点とは、正しさとか自然の領域、政治の世界、その他、種類の異なる領域に関わりを持つ共通の論点のことである。(42頁、1358a11-14)


 アリストテレスが述べている「弁論術」とは「論点」をめぐって、他者を「言論」を用いて「説得」することを指す。

 彼が生きていた時代の「言論」は、主に「審議的(助言的なもの)」「法廷用のもの」「演説的(演示的)なもの」(45頁、1358b7-8)と、口頭での「説得」や「証明」となる。

 では、現代を生きる我々にとって、アリストテレスが提示した「弁論術」をどのような関係があるのだろうか?

 「ロゴス」とは何だ?

 実は、言論」と翻訳者された言葉は、原語のギリシャ語では「ロゴス(logos)」と云う。「ロゴス」はギリシャ語で、「ことば」を指している。

 知っての通り、「論理」は英語で、「ロジック(Logic)」と云う。日本語で「論理」と云うのは、この「ロジック」から来ているのだが、その英語の元になったのはギリシャ語の「ロゴス」だとわかる。

 アリストテレス以外にも「ロゴス」とい云う言葉は、西洋の古典では広く使用されている。

 例えば、新約聖書のヨハネ福音書の冒頭は次のように始まる。

世の始めに、すでに言葉(ロゴス) はおられた。言葉(ロゴス)は神であった。この方は世の始めに神とともにおられた。(略)この方は命をもち、この命が人の光であった。(略)この方(言葉)は、この世にうまれて来るすべての人を照らすべきまことの光であった。(塚本虎二訳、1:1、4、9)

 
 聖書では、この「言葉(ロゴス)」こそがイエス・キリストであり、「恩恵と真理とに満ちておられた(1:14)」と述べている。 

 つまり、「神」=「言葉(ロゴス)」と云う図式が西洋にはあると云うことだ。

 他に、アリストテレスの師であり、西洋哲学の基礎をつくったプラトンは、さらに複雑だ。

 例えば、プラトンの前期著作『ソクラテスの弁明』『クリトン』『ゴルギアス』を収録した中公クラシックスの「索引」で「ロゴス」と引いてみると、複数の訳語が出てくる。

 「議論」「議論のための議論」「弱い議論を強弁する」「言論」「論理」「言説」「説明」「言論の自由」「鉄と鋼のような論理」「理論的(な)言論」「言葉」「合理的な言葉」…。

 プラトンは、対話と云う形式で文章をつづっているので、一律には云えないが、全体的にみて、彼が「ロゴス」と云う言葉を使用する際は、「理性や知的なもの、何か正しいこと」と云うような意味を込めている。

これを君は、きっと作り話し(ミュートス)だと考えるだろうと思われるが、しかしぼく自身は、ほんとうの話(ロゴス)だと考えているのだよ。と言うのは、ぼくは、これからはじめようとしている話の内容を真実のことと見なして、君に話すつもりなのだからね。(『ゴルギアス』、461頁、523a)

 
 以上のような前提を踏まえて、改めて「論理的」について考えるならば、「日本人が論理的ではない」とか「論理の意味がイマイチわからない」と思うのは無理もないと思う。

 「論理」と云う概念には、ギリシャ哲学やキリスト教と云った西洋の文化が背景に存在し、それらを理解しないといけないからだ。

 私が本稿の冒頭で、「論理とは魔女のような存在」と述べた理由は、「魔女」と云う存在が西洋の文化のように、「論理」と云う言葉とその背景にある「ロゴス」と云う言葉は西洋文化圏の産物だと云いたかったのだ。

 考えてみれば、「ことば」と日本語で聞いて、「他者を説得する」「何かを証明する」「神」「人類を照らす光」「事実」「理性」「議論」などの概念は出てこない。
 むしろ、新海誠の『言の葉の庭』のような情緒的な世界を想起すると思う。

 だからこそ、私は「日本人が論理的ではない」と云うのは、西洋の文化の産物である「魔女」を知らないのと同じだ、と述べた訳だ。

 「論理」と「レトリック」を知ろう

 しかし、「論理」を知らないと「論文」は書けない。
 云うなれば、「魔女」が出てくるアニメ・ゲーム・小説・漫画・イラストを制作したければ、「魔女」について知らなくてはならないのと同様だ。
 
 それが大変手間のかかることなのは、私も理解できる。学校の授業では全く教えてくれないから、一人で本をめくらなくてはならない。
本来の「論理」(ロゴス)は、口頭での話し合いの中で育まれてきたものであるにも関わらず、だ。

 とは云え、前述の前澤昭夫『論文のレトリック』では、日本人は学者でも「論理」を理解できていない人がいると述べている。

 同書の第一章で、澤田は知り合いのアメリカ人の学者から「日本人が書いた論文は何を云いたいのかわからないのは、なぜか?」と相談された思い出を述べている。

 同書が刊行されたのは1983年で、40年近く経過しているが、状況はあまり改善されていないようだ。

 ただ、裏を返せば、学者でも「論理」や「レトリック」について十分に理解していない人間が多いのだから、大学生で少しでも「論理」や「レトリック」について理解していれば、「卒論」で高得点を取ることは可能と云える。

 もし、「論理的」の意味がわからないと感じた人は、私が本稿で取り上げた書籍を手に取ることを勧める。

 たぶん、周囲の人が出している「論文」のお粗末さがよくわかるようになると思う。

 まとめ

 一、「論理的」に物事を説明するには、「レトリック」の知識が必要。
 ニ、「論理」と云う言葉には、西洋由来の「ロゴス」と云う言葉が背景にある。
 三、「論文」を書くのに必要なのは、相手をいかに言葉で説得したり、証明するかと云う「レトリック」が重要。

 参考文献



一、アリストテレス(戸塚七郎訳)『弁論術』
ニ、澤田昭夫『論文の書き方』
三、同上『論文のレトリック』
四、野矢茂樹『入門!論理学』
五、プラトン(田中美知太郎・藤澤令夫訳)『ソクラテスの弁明 ほか』
六、塚本虎二訳『新約聖書 福音書』

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