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【ショートショート】我が愛しのナルキッソス

「いつか僕がこの花になってしまったら、君はどうする?」

 唐突な問いに香助はたじろいだ。春休みの校内の一角で茉白が愛でているのはスイセンの花だ。白い手が優しく花弁を撫でている。スイセンの花。美しく小ぶりな様子が茉白を彷彿とさせなくもない。俺はどうするのだろう、と香助は考え込んだ。全くのお伽噺と思わせてくれないのが、時折どことなく透き通って見える茉白という少年だった。彼ならば本当に花となって消えかねない。そうして香助が考え込んでいると、やがて茉白がふはっと笑った。

「ちょっと、何を真剣に考え込んでるのさ。ただの冗談に決まってる」
「分かってる。……それは分かってるけど、茉白なら本当に花になってしまいかねないなって思って」
「何それ。僕が生粋のナルシストだって言いたいわけ?」
「は?」

 意味が分からなくて香助は困惑を隠せない。……まぁ正直、茉白にはナルシストの気があるとは思っているけれど、どうして今その話が出てくるのだろう。茉白は何やらにやにやして香助を見上げている。花が咲き乱れる温室の一角、ガラス窓越しの光を浴びた茉白は美しい。彼はとても魅力的だ。どことなく、人ならぬモノの妖艶ささえ併せ持っているかのように見える。そうして香助がうっかり茉白に見とれていたら、彼は軽くズボンをはたきながら立ち上がった。

「スイセンの花言葉、知らない? 古代ギリシャにナルキッソスっていう若く美しい男がいた。そいつは妖精達を振り続けたせいで女神様に呪われて、水に映った自分の姿に恋をさせられてしまうのさ。話せもしない麗しの彼から離れがたくなった哀れなるナルキッソスは、そのまま水辺から離れられなくなってしまう。そうしてやがて、スイセンの花に身を変えた……っていう話」
「へぇ……」
「それが由来で、スイセンの花言葉は『自己愛』になったんだ。スイセンも気の毒だよね、ナルシスト野郎に勝手に結び付けられて、妙な言葉を宛てがわれてさ」

 そう告げる茉白の手は再びスイセンに。神話を語っていた時とは打って変わって、彼の瞳には慈愛の色が浮かんでいる。茉白はどんな花でも愛している。最愛は薔薇の花だそうだが、他のどんな花も彼は大切にし、心底いとおしそうに口付ける。香助はそんな彼の姿をここ一年ずっと見てきた。彼が花に捧げる愛が真摯なものだと、香助はきっと誰より知っている。

「花言葉も名前も、本当は花そのものとはなんの関係もないはずなのに」

 茉白がそっと囁いた。そうかな、と香助は彼の隣に立つ。

「花言葉はともかく、俺は名前はその存在を表す何よりのものだと思うけどな」
「そ? 確かに君、えらくいい香りがするもんね」
 それはまぁ、香助が花屋の息子だからだと思うが、それはとりあえず言わずにおいた。
「初めて茉白を見た時、まっしろな印象だと思ったのを覚えてる」
「へぇ? 初耳だね」
「ああ、言わなかったと思う」
「制服のせいじゃない? 今時流行らない、この真っ白いブレザーのお陰さ」
「いや、違う」

 香助がきっぱりと断言したので、茉白が「ふうん?」と興味深そうに首を傾げた。香助は普段あまり自分の気持ちを語らない。そのせいでお堅い委員長だとか渾名される訳だが……、茉白には、きちんと自分の胸のうちを語ろうと決めたのだ。

「俺は茉白を初めて見た時、今にも消えてしまいそうなほど儚い人だと思ったんだ」

 その印象が、まっしろなキャンバスのように思えてしまった。まっしろなキャンバスに、その形だけを縁取られたかのような。消しゴムをかければ簡単に消えてしまう、そんな危うい存在の気がして。
 思えば香助は、きっとその時から茉白に心を掴まれていたのだ。

 なんだか照れ臭くなってしまって、そこまで口にすることはできなかった。ただ、頬が少し熱い。茉白は今でも時々、消えてしまいそうなほど透明なように見えることがある。それは花を愛でている時に特に顕著だ。

 茉白が本当に花になってしまったら、嫌だな。俺はナルキッソスのように、花となった茉白の傍を離れられなくなるかもしれない……。

 すっ、と茉白が身を寄せた。顔が近い。至近距離で香助の瞳を覗き込んでくる。ハシバミ色の瞳が、じいと香助の瞳を覗いている。吐息が頬に触れる程の距離だった。

「今は?」
「え?」
「今も僕、消えそうかい?」
「い、いや……」

 咄嗟にそんな言葉が出てしまった。瞬間、茉白がにっこりと嬉しそうに微笑んだ。次いで抱き着かれる。結構な勢いだったために香助はバランスを崩しそうになり、そんな香助を茉白が抱き留める形になった。

「当たり前さ! 僕は君の隣にいるって決めたんだから!」

 言い終えると共に、ちゅっと音を立てて頬に口付けをひとつ。触れられた頬がまた熱くなる。茉白は人目というものを気にしない。香助とて、茉白との関係をしかと受け止めると腹は決めて久しいのだが、不意打ちでこういうことをされると未だどぎまぎしてしまう。

「ま、茉白」
「消えやしないよ。君がいる限り、僕は君の隣で生き続ける……」

 うっとりと、どこか蕩けそうな様子で茉白が告げる。……先程言われた「いい香りがする」というのは、彼が香助を……その、愛しているから、そう感じているのかもしれない。それは香助も、じわじわと実感しつつあるところだった。

 香助は茉白をじっと見つめた。香助の腕にしがみついたまま、茉白もそっと顔を上げる。視線が絡み合う。どちらからともなく瞳を閉ざすと、今度は唇を重ね合った。少しだけひんやりとした茉白の唇。もう何度も味わってきた、愛しい恋人の温もりだった。

 茉白と出逢ってから二度目の春が訪れようとしている。春は花の季節。花に埋もれる茉白を今年はどんな心持ちで見つめることになるのだろうと……、そう思うと、始業式が少し待ち遠しくなるのであった。

1月21日/スイセン
「自己愛」

【誕生花の花言葉で即興SS】

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