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【ショートショート】神を描く者

 天才だ、と何人もの人に言われてきた。子どもの頃からそう言われて育ってきた。絵を描くたびに天才だと周囲が騒ぐ。この子は異能の天才だ、と。その言葉が鬱陶しくなってきたのは一体いつのことだったか。

 彼は集中して鉛筆を動かす。何枚も何枚もスケッチを描く。モデルの女は何も言わない。動かずに何時間も過ごすモデル業は相当に疲れるものらしいのだが、彼女は何も言わずに彼の絵に付き合ってくれている。これで何枚目か。この優雅な女性を紙に描き留めようとするのは。

 彼は鉛筆を動かし続ける。黙々と、何も言わずにただ鉛筆を動かしている。女の笑顔に集中する。どこか超然とした、神の如き女の笑顔に。

 紙の中で、彼の描いた女がふと微笑んだ。

「ああ……、まただ。済まない、稲荷さん。今日はここまでだ」
「おや、そうか」

 彼は鉛筆を投げ出したい気分だった。子どもの頃から誰もが彼を天才と呼んだ。最初は素直に喜んでいた彼だったが、実のところ何を褒められているのかよく分っていなかった。彼にとって、自分の描いた絵が動くことなど、物心つく前から当たり前のことだったから。

 こういう、魔法のような、普通ではないことができる奴のことを、世間では異能と言う。それは単純な褒め言葉であることもあれば、相手を畏怖し、恐れ、不気味だと告げる言葉であることもしばしばだ。中には「獣が人に化けているのだ」などという輩もいる。狐が人を化かす如く、おかしなものを創って人をからかっているのだと。彼はそれを厭っていた。化け狐扱いされて喜ぶ奴などいるのだろうか。

 彼は目の前の女を描きたいと思った。こんなにも純粋な気持ちで何かを描きたいと思ったのは久しぶりだった。だから今回は、異能と呼ばれる手ではなく、ただの絵描きとして彼女を描きたいと思ったのだが。

 稲荷と名乗った女は何も言わない。こうして絵の中の彼女が命を持ってしまうたび、今日はここまでを繰り返しているというのに。そのおおらかさに救われる。とはいえ、全くもって申し訳ない。彼は一旦アトリエを片付け、彼女のために茶菓子を出した。散々付き合わせてしまっている彼女へのせめてもの詫びだ。

「何ゆえお前はその手を厭うのか? その手で幾らも富を掴んできたのだろうに」

 稲荷がしれとしてそう尋ねる。何度もスケッチを中断している理由は既に話した。俺は見たままのあなたを描きたいのだと。そこに命を宿したい訳ではない。俺はあなたを絵に描きたいのだと。命の宿る絵は異能の絵だ。彼はそうではないものを描きたかった。

「……皆が俺を天才と呼びます。だが俺は、もうその言葉に飽き飽きしている」
「ほう」
「俺は……、ただの、絵を描くのが好きな人間だ。だが誰かに天才だと言われるたびに、お前は人じゃないと言われる気になる」

 ほほほ、と稲荷が笑った。裾で口許を覆い隠す仕種はなんとも優雅だが、ここで笑われるのは嬉しくない。

「多くが望んでも得られぬものを持って生まれた者は苦悩するのう。そう言う者を何人も見てきた。お前で果たして何人目か」
「そうですか」
「わたくしはお前の絵が好きだがね。お前の絵は神を描くに相応しい」

 神、か。思わず呟いて、彼は小さく溜息を吐く。年が明ければ初詣に行きはするが、別段本気で神を信じている訳ではない。いるのかもしれないし、いないかもしれない。本当に存在していたとて、人の願いなどどの程度聞いてくれているのか、と思う。彼は一度、ただの絵描きにして下さいと神に願ったことがある。ただ一度願っただけなのがいけなかったのか、その願いは聞き届けられぬと思われたのか、彼の絵は未だに異能の絵であり続けている。

「そう言われるなら、あなたを神として描いてみようか」

 ちょっとした皮肉のつもりだった。なんとも掴めぬところのある稲荷に対し、少し意地悪な気分になっていた。まぁ彼女のことだ、彼が何を言ったところでさして堪えはしないだろうけど。

 だから、返ってきた声音は彼にとって、全く想定外のものだった。

「そうするが好い。お前、神をその手で描くのだから、覚悟せねばなるまいぞ」

 思わず顔を上げた。稲荷は口許を覆ったまま、まっすぐに彼を眺めている。超然とした様。いつもおおらかに笑っている彼女から、一切の笑みが消えていた。

 ごくり、と唾を飲み込む。若造のように緊張していた。……自分を神として描けだなどと、やはりこの女もどこかちょっと普通ではない。俺がそう言っているんだ、神の絵のモデルにするのとは訳が違うぞ。

 そうは思いつつも、彼の手は、今にも再び鉛筆を動かそうと落ち着かない。一度片付けた鉛筆を取りに行き、今この瞬間の彼女を描きたくて堪らない。

 ふたりの間に走る緊張感。果たして異能の天才は、此度は何を描き上げるのか――。

12月26日/リュウノヒゲ
「天才的」

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