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ごっこのような。失われる想像力。

大人がすごく子どもに頼っている時代だという気がするんです。子どもの中に何かを発見したいと、大人は生きていけないみたいなことで、子どもの中に非常にロマンチックな夢を見たり、何かすばらしいものを発見したという幻想で、かろうじて未来を考えていこうという、せっぱ詰まったものがあるような時代
『自分の中の子ども』

昨日仕事でやっていたワークショップのなかでも、こどもの力って半端ないんですよ、ほんとに。っていう話が出てきた。こどもが育てた植物や野菜を地域の人にこどもが手渡したり、メンタルもからだも疲れている大人に渡したら、グッとくるよね、なんて話がでていた。

こどもは社会の中で守られなければならず、一人前でない。そんなこども観がいまだ強くもあるが、それと同時に、こどものちからを見つめ直そうという運動もあちらこちらで起きているように感じる。
それは、これだけ「こどもに頼らないといけない」危機感や、ロマンティシズムの投影。逆に言えば、そうしなければ今の時代は、閉塞感に満ちている。だから「あそび」が大事だったり「ゲーム」の力が叫ばれたり、「宗教」が大事だったりする。いろんなところに社会の”外部”を求めて、なんとか内破しないと、どうしようもない。

最近よんだ『日常的な延命 「死にたい」から考える』には、存在論的な不安から生じる「死にたい」と、郵便的な不安からくる「死にたい」が区分されて考えられている。このなかで、後者は自殺する人の多さ、死者統計、いろんなものが統計的に押し寄せ、であれば自分も死ぬかもしれない、といったことからくる不安。もっといえば、死にたい人が多くて、それは自分にも押し寄せてくるかもしれない、あれ?すでに死にたいかも、のような。誰のもとに届くかわからない状況だけど、確実に起きている事実であり、可能性として自分もそうでありうる、といったことから生じる不安。”時代の空気”というときに、この郵便論的な不安がそれにあたると思う。

そんなこんなだから、こどもやあそびに救いを求めているのが、時代に絶望して切羽つまったおとなたちの今。冷めたいい方だな、と我ながら思うけれど、それに希望を感じられるなら何よりだと思うし、実際子育てをしている人は、仮初の希望ではなく、生々しいリアリティとしてそう感じているのだと思う。ぼくはこどもがいないし、身近に触れ合っているわけではないので、わからない。

けれど、「こどもがいない」からこどものことを考えない理由にはならない。谷川俊太郎は「ぼくが子どものことを考えるときに、いつでもいちばん考えるのは、結局自分のなかの抑圧されている子どもなんです」と語っている。誰しもの中にこどもは存在していた。だれもがこども時代は存在していたからね。抑圧には、いまも多分、存在しているんだけど、抑えつけられているニュアンスが滲む。

先日友人たちとご飯を食べながら話していた。一人はアーティストで、動物と人間の関係を模索している作品を多くつくる。動物供養や仏教における動物、ということに関心をもっていると言っていた。ぼくはふと、こどもって蟻を平気でころすよなあ、ああいうのは仏教でどう受け止められるんだろうね、と気になって話した。話しながら、砂場で穴を掘り、水をいれ、そこに蟻を投下していた過去をおもいだした。

こどもを考えるとは、綺麗事だけではないとおもう。その道徳規範からも逸脱しているからだ。ゆえに崇高にただあそぶだけでいられるし、抑圧されたおとなはそうはいられない。

こどものころ、たしか小学生中学年から高学年にあたるまでだろうか。詳しい時期はわからないが、少なくとも3,4年は頭の中でずっと空想の物語をつくって遊んでいた。当時は夕方16時ごろから幽遊白書がやっていて、ぼくは飛影が特に好きだったので、飛影が主人公で敵役や新しい技をつぎつぎと生み出しながら原作とは一才関係のない物語を頭の中で展開し続けていった。トイレにはいっているとき、親に連れられ買い物にむかう車のなかで。

『自分の中の子ども』には、あらゆる想像力が「ごっこ」だったんじゃないか、という指摘がある。一例では、おもちゃの自動車をおしながら、自分がほんとうに運転しているような気になっていることが挙げられる。そして、その想像力は失われてしまう。現実の自動車を運転したら、消えてしまう。体験したことがない自動車を運転する想像は、現実におしつぶされる。「車に乗るってこういうもんだ」とひとつ賢くなる。

大人になるとこどもが抑圧されるってことは、いろんな現実を知り、経験し、知ってしまうことでもたらされる。「それは、こういうもんだ」って納得は、「Aの際は、Bして当たり前」という規範的ふるまいと類似した納得のようにおもう。だから、どんどん規範化されていく。

かまいたちのネタに「トトロを一度も見たことがない」ことを自慢するネタがある。山内さんが「みんなトトロ見たことあるやろ、でもおれは見たことないねん。すごない?」みたいな感じで繰り広げられる。見たことないこと自体がすごいわけではないが、見たことがなければ「トトロ」がもつ響きから、どんなキャラクターやプロットが描かれていくのか、無限である。
村田沙耶香さんはイマジナリーフレンドが30人いる、と以前も述べたけれど、これは生きる術でありながらもあそびだ。ごっこあそびでありながら、リアルでもあるような、あそび。

明日からは遠野にいく。妖怪や民俗伝承が数多くうみだされてきた土地だ。河童はポピュラーな妖怪。みどりときゅうりのイメージがあるが遠野物語では赤いらしい。語り部によれば寒さが厳しい遠野で間引きされた赤子を、来世では川の神様になりますように、と祈りながら川流ししていた時代があるそうだ。厳しい土地で、家族が生きるためにどうしようもなかった。これは生きる術でありながら、それが河童に昇華していったことには、途方もない想像力とある種のあそびを感じざるを得ない。これが、どうあそびなのかは、まだ言葉にし尽くせないけど、連想ででてきたので書いておく。

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