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敵対性・否定・再帰的進化

現代では、誰もが共有しうる灯火がなくなってしまったように感じる。幸福の在り方が個人化していくなかで、誰しもが「自分なりの幸せ」を形作ることに励む。一方で、近代化とグローバル経済の余波は共同体を空洞化させていった。

そうした空洞化により共同体のまなざしは消失し、自分を超えた視座から自分を捉えることが難しくなった現代のぼくたちは、自分が見たいものを見るようになった。フィルターバブルという言葉が提唱されてずいぶん経つが、デジタルな情報環境のみならぬ、一層の分断により細分化された泡の中に、自らが閉じ込められていく感覚は拭えない。今の世界には、自分の枠組みで安住できてしまうアーキテクチャが否応なしに生活を取り巻いている。

 "自分らしくあれ"、という新たな共同幻想の-つまり支配的な-物語の中で、自分が信じたいものを信じるように生きている。一方で、それは価値の相対化に容易につながる。「いや、それは価値観の違いでしょ?」と、簡単な一言で片付けられてしまう。

自分について考えること自体は必要不可欠であるけれど、自分以上の視座を持たないために、執着が発生し、自分という存在にへばりついてしまう。ありもしない自分らしさに振り回され、その結果「自分がよければそれでいいのだ」という考え、内田樹さんの言葉をお借りすればサル化している。

この修復には、自分存在を自分以上のものとの関係の中で問い直すということが必要である。自分なりの幸せや欲望を、自分以外・自分以上のものとの連関の中で、編み直していくという「自分という枠組みを超える」こと、それが求められている。宮台真司さんがよく援用する、ローティの感情教育とはそういうものだろうと思う。今の視界の外にあるもの、そこにまなざしを投げこみ、感情を同期させて、"私"から"私たち"の環を拡げていくための素養をはぐくむ。そのために、未来の世代を召喚することであったり、死者と触れ合うことであったり、他種の理解に努めたり、不合理極まりない恋愛で自己を手放したり、色んな処方箋があると思う。

その1つの視座として、「敵対性=Agonism」という概念がある。シャンタル・ムフらにより提唱された政治哲学の用語であり、民主主義にはこの敵対性が不可欠であるとされる。政治を飛び越え、ぼくが大学院で学ぶParticipatory Designという領域やアートの文脈でも用いられる。

他者の現前によって自己の十全なアイデンティティが損なわれるという経験に相当する。つまりそれは、自己の十全なアイデンティティの形成を妨げ、同じく他者の十全な対象化を妨げるのである。
Artscapeより

とある。これだけみると、アイデンティティが損なわれるのか、良くないじゃん、と感ずるかもしれない。重要なのは、自分という主体が私ならざるのとぶつかり合い、否定的な体験を通して主体を更新していくこと。「自分にとってはこれが大事である」という信念と反対のものに真っ向にぶつかり合うこと。その中で、相手がなぜそう思うに至ったのかを問い、また、それを契機として再帰的に自分がなぜそう思うに至ったのかを問い直す。これが自分が編み直される空間が立ち起こる、ということではないか。

アーレントの説く「現れの空間=The space of appearance」とは、こうしたぶつかり合う"私"と"他者"が現れる空間とも言える。この空間を意識的に描き出すこと。一方、それは民主主義・公共という文脈以外にも可能なのだと思うし、多様な形式で日常に拡張していくことが必要ではないか。例えば、ビジネスの現場であれば、多くの議論は'表象'によってなされる。つまり、マーケターとしての私、公務員である私、など入れ替え可能なレベルで行われている。そうした表象から、一度逸脱してみたらどうなるだろうか、と。勢いを見せる妄想ドリブンというような考え方は、「私の妄想」をぶつけることでそのような共約不可能性に根ざしていると感じる。

ゆえに、それは本当に苦しい営みとなるのだと思う。表象にくるまれない=入れ替え不可能な自己をさらけ出さなければいけないから。つまり丸裸なわけ。誰だって自分を否定されるのは恐ろしく、自分が信じていたものの根底が崩れていくような経験なんて出来ることなら、避けたい。その信じていたいものに醜さが潜むような場合ならなおさらである。しかし、冒頭の問題意識にもどると、そのような体験こそがいま必要でしょう。システムをつくるのは人間であり、その人間が自分の枠組みに囚われた生き方のみをしていたら、退廃してしまう。異なる体験の回路を小さくても作っていくような活動を考えていきたい。

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最後に余談であるが以前スウェーデンの映画「ザ・スクエア-思いやりの聖域-」を観た。なんとも後味の悪い映画だったことでしょう、観たあとにまとわり拭えない自己嫌悪に見舞われることだと思う。だからおすすめなわけですが。この映画は「目を背けたい自分の醜さ」を日常的な振る舞いの中で描き出す。主人公のミュージアム・キュレーターはニコラス・ブリオーの関係性の美学を援用しながら、この正方形の囲いの中では人は思いやる振る舞いをする、というリレーショナルアートを展示する。しかし、...というお話。彼の言ってることと行うことの差異、その描き方には、思わず逃げ出したくなるほどの、観るものの醜さを投影している。ぜひ観たくない自分を観るという体験を味わってみてください



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