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たまたまという制約からはじめていくことと、記述的な創作

先日、京都のメディアショップで千葉雅也さんと山内朋樹さんのトークセッションがあった。作庭のフィールドワークから、制作論に拡がっていき、とてもまなびが多い時間。庭の話だけではなく、絵画や小説など多岐にわたる制作に通ずるしさにとんでいた。

印象に残ったのは「仮固定」だった。庭をつくるうえで、重要なのが石だ。西洋的なガーデンとは異なり、日本の庭では石ありき。その石をどこに配置するのかが肝になる。それは、常に仮組みだ。山内さんのフィールドワークでは、なぜここに石が置かれたのかであったり、どうしてこの2組の石がセットで配置されているのか、がものすごく記述的に分析されていく。が、ある分析した配置もその庭づくりを頼んだ住職は最終的にダメだしして、また配置や石が組み替えられていく。

なので、常に仮の状態で石が置き直しされ続ける。だが、まず置いてみないと始まらない。一つの石を置くことで、次の石はどんな石で、どこに置くのかが触発される。セッションの中で印象的だったのは「無限性を”たまたま”という偶然性で圧縮する」という言葉だ。庭をつくる上で、石をどう配置するかは無限の可能性がある。しかし、真っ白なキャンバスにいきなり描き始めるのは手が止まってしまうように、まず何か制約が必要だ。この制約を創造することが、制作のコツになる。

それは今晩の献立をどうしようと考える時「何食べたいか」をゼロからかんがえるのではなく、冷蔵庫のあまりもので料理することや、スーパーにいって素材を手に取ることから始めることだ。取材していた庭師は、石を丁寧に選定するではなく、まず一つ選んでおいてみることを重要にしていたという。そうすれば、その石に触発され、運動がはじまっていく。その最初の石すらも、すでにそこにある植栽だったり、に着目して制約を見出していき選ぶ。選ぶとはいっても、全国から最適な石を見出すのではなく、ざっとまず選んでみる。それは「そこに、たまたま、存在していた」程度の必然性しか正直ない。ただ、それでもいい。制作の"流れ"や"運動"をはじめるための力を、その石が与えてくれるからだ。だから、そこにたまたまあるもの、今たまたま見てしまった雑誌のキーワード、そんなところからはじまる制作は、大切だし、なんて自然なのだろうと思った。

千葉さんの小説も、もちろん最低限の大筋はあれど、最初から最後までの精緻な流れを組み立てていくよりも、いくつかの素材のかたまりをあっちこっちから引っぱり、プロットを立ち上げていく作り方らしい。宮崎駿も、近年の制作では絵コンテをひたすら描くことからはじめ、絵コンテで大事なシーンだけをまず視覚的に捉え、それを断片で組み合わせていくような映画づくりにやり方を変えているという。これは非常におもしろい。とにかくある素材と、ある素材は、なんか共鳴しあう。それらは当然縫い合わせられなければいけないが、多少のずれや断絶はあるかもしれない。それが、ある種の鑑賞者や受け手が感じる「わかりづらさ」にもなり得るが「想像を投げ入れられる余白」にもなり得そうだ。

現代的な問題として、作風の固定化も問題だとされていた。これは、ある作家がこういうノリで作品をつくるのだ、ということに縛られてしまう周囲からの期待。それはある程度、価値の交換可能性に則ってもいそうだ。この人にはこのアウトプットを期待する、こんなノリを期待する、と。そうするとどんどん予測が不可能で、わからないものに導かれていくことがなくなってしまうかもしれない。そんな中でも、自己を減らして、素材に頼る、周りの手がかりに頼る、というのは自我ではなく無我の創作にもつながり得そうだと思った。

また、もう一つ印象的だったのは「記述的な制作」の可能性だった。話の冒頭には、「庭をどうみるといいのか」という話題があがっていた。例えば、有名な龍安寺の庭は虎が子供を連れているように見えることから「虎の子渡し」と言われるそうだが、その意味を解釈しようと見てもわからない。代わりに、石がもつかたちに着目していく。絵画でも、この絵は歴史的にこういう意味がある、作者はこうした時代背景に生まれたから、これを表現している…といったような「意味・象徴」から観るのではない。この部屋の中に描かれている、青い机の上に置いていある花瓶に投げ入れられている花の葉の模様は、窓の外からちらりと見えるこの葉の模様と同じで..といったように具体描写をみていく。

こうした「意味」ではなく「記述・かたち」を丁寧に見ていくこと。その風景の成り立ち、ということの創作性が重要ではないかという話が盛り上がっていた。千葉さんの小説はまだ読んでいないが、非常に具体描写に富んでいるという。読んでみなきゃ、と思う。この記述的な見方も考え方も作り方も、ぼくはとても素敵だと思った。それは、自身をとりまく世界をなんとなく観るのではなくて、その美しさや細部に宿る奇跡的なものに気づき直すことにつながる。世界におどろくための日常的な技法にもなり得る。

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