見出し画像

体育会系だから挨拶ができて、挨拶ができるチームは強いのか。


「勉強だけやってた奴はダメだ。挨拶すらろくに出来ない。やっぱ体育会系なんだよ。」って

この前、ある人が言っていた。

この人にとてつもない濃度の色眼鏡がついていることは間違いないのだけれど、私が俗に言う体育会系の環境の中で育ったせいか、どうもこの意見を否定しきれないでいた。

そして先日そんなタイミングで、クソみたいな食事会に出くわしてしまった。同席したやつらが空いたグラスや皿は下げられない。テーブルマナー的な事もできない。挨拶もできない。

しまいには「うちら体育会系じゃないんで」と。

私はこれに強烈な違和感を感じると同時に冒頭の"あの言葉"が浮かんだ。

そしてそいつらは揃いも揃って”体育会系”ではなかった。

体育会系だから礼儀や挨拶ができるのか、もしそうであるならその要因は何なのか。

逆に体育会系じゃないと礼儀や挨拶ができない理由でもあるのだろうか。そして私たちは礼儀や挨拶ができないということを通してそれ以外の何を感じ取るのだろうか。

今回は気合と根性をなるべく排除した形で「体育会系は礼儀や挨拶ができる」について考える。

※体育会系以外の人を否定する趣旨の主張ではありません。自戒を込めて。


礼儀や挨拶がしっかりしているチームは強いのか。


全ての体育会系部活動経験者が、何もせずともそういった事が身についている訳ではない。

まず持って体育会系が礼儀や挨拶ができるのは、そういう躾をされてきたからだ。この影響はとても大きいし、これを無くして身につくはずが無い。

体育会系であっても礼儀も挨拶も知らないような部活は散見するし、そのような躾ができない指導者も山ほどいる。

勿論、礼儀や挨拶ができているからといって技術力や試合での結果がそれによって変わるかといえばそこに直接的な関係性はない。

しかし、私は礼儀や挨拶ができない。もしくはそのような態度のチームや選手を見ると”弱さ”を感じる。

では、強いチームが挨拶ができる傾向にあるから私たちも、そのような躾をするのだろうか。いや、そんな体育会系部活動のような話をするつもりは無い。


「起用される」ということ


そのような躾をするのは教育的な意味あいが最もの理由ではあると思う。ただ、もしかしてひょっとしたら、チーム競技スポーツチームであるが故のものが無意図的にあるのかもしれないとも思う。

それは"起用される"ということである。

チームスポーツにおいて部員であることと、試合に出場することは同意義ではない。

ゲームの目的は試合に勝つ事であり、その目的を達成するという基準で選手選考が行われる。部員であるということは選手選考にエントリーする権利であり、試合に出られるという保証はない。

そうした基準の選手が多ければ当然選手選考は激化するし、基準も上がる。選手選考の基準が上がるということはチームレベルは上がる。

良いか悪いかは別として、選手選考の最高責任者である監督に悪態をつくということは、試合に出る権利を放棄するということだ。100人も部員を抱えていれば尚のことである。

挨拶や礼儀などができないチームを目にした時に、そこに弱さを感じるのはそれ故である。

起用されるというレベルが低いのだなと。選手選考が緩いのだなと。

極端な事を言うならば全員必ず試合に出られるようなチームの選手は礼儀や挨拶ができない可能性が高い。

(ただし、挨拶をするということの本質を選手に理解させているチームを除いて。)

これが競技チームスポーツ経験者が挨拶ができる、そしてそれが競技レベルと比例するという構造上の要因だと思う。

いや、これは競技チームスポーツ経験者だから礼儀や挨拶ができるのではなく「起用される」経験があるか否かであると言える。


努力信者の自己責任論


もう一つの理由。

スポーツにおける特徴の一つに「自分がコントロール出来ないものがある事を経験を通して学習する」が挙げられる。

自らができる限りの努力をしたとしても、技術を100%発揮出来たとしても、負けるのがスポーツだ。

その対義は「努力は報われる」だし「練習は嘘をつかない」だ。スポーツ界隈ではよく使われるセリフだが、個人的にはスポーツとの相性はあまりよくないと思っている。


つまり、「自分の今があるのは自分の努力があったからだ」という思想である。

”言葉は、境界を決めてその内と外を分ける役割がある。”
細谷功・佐渡島庸平「言葉のズレと共感幻想」


「自分の今があるのは自分の努力があったからだ」という思想の裏には「結果が出ていないのは努力を怠っているからだ」が必然的に付き纏う。

山口周さんが「A .親がお金持ちだから金持ちになる世の中と、B.自分の才能と努力でお金持ちになる世の中、どちらが良い世の中だと思いますか?」という話をしていた。


恐らく全ての人が反射的に「後者の方が良い」と答えるけれど、実はどちらも同じじゃないか。むしろ前者の方が良いとすら言える。という主張をしていた。

後者の”才能”とは親からの遺伝や、幼少期の環境要因が影響している。”努力”も、勿論本人の主観としては努力をしたのは間違いないが、そもそも努力でどうにかなる環境、もしくは努力できる環境にその本人が居たという事は無視できない。

つまり、前者も後者も大して違いは無い。むしろ前者の方が自分以外の他者から贈与された、受け取ったという感覚があるから再分配しようとする。後者はお金持ちになれていないのは本人の努力が足りないからだという自己責任論信者を量産する危険性を兼ね備えている。

それに陥りやすいのが私は”勉強”であると考える。勉強は選考されることはあっても、勉強により起用されることは無い。

勉強は闘争ではなく、競争である。誰かに自分のパフォーマンスを邪魔されることはない。「努力は報われる」と、とても相性が良い。どうしても勉強により評価をされると他者という存在を気にしなくなりやすい。


”勉強だけやってた人”が礼儀や挨拶ができないとするならば


日本の大学という教育機関が最たる例だ。大学という教育機関で教育を受けられる人ということは努力でどうにかできる環境に身をおいている可能性が高い。

そこで成果をあげるのは努力をしている者であり、そこで成果をあげられないのは努力を怠っている者だ。

これは大変危険で、特殊な環境だと思う。

後者は、夜中まで麻雀して、昼はパチンコして、楽単の授業とって、出席コードだけLINEで教えてもらって、テスト前に最前列の子にノートの写真撮らせてもらう怠っている者で、こいつもヤバいのだけれど、

前者の方が"勉強だけやってきた人"になる可能性が高いということである。

競技チームスポーツ経験者が礼儀や挨拶ができる傾向にあるとするならば


先日、鎌倉インターナショナルFCの河内一馬さんがnoteで原研哉氏のデザインのデザインを引用していた。


礼儀がないとか、マナーが悪いとか、だらしないとかいうことは、精神的なことよりも、関係性が見えない、インタラクションの欠如だと思います。
相手が動いたらこう来るというような。自分がやったことに対して、周りの環境がどう変化するかということのセンサーがまったく働かない。
タバコを吸っていて、後ろを歩く人は煙たいということがわからないことのように。音のうるさいバイクのように。インタラクションの欠如はインテリジェントに見えない。センサーが弱いんです。
(中略)今の問題は精神論じゃない。センサーの欠如なんです。
深澤直人「デザインの輪郭」

スポーツをおこなってきた人間、特にチームスポーツを行ってきた人間は他者の存在を無視する事はできない。仲間という存在により自らがベストパフォーマンスを発揮出来なくとも勝利を手にすることが可能であり。自らがベストパフォーマンスを発揮出来たとしても立ちはだかる相手という存在がいる。

そして最たるものが自分を起用する指導者との関係。この指導者との関係性が崩れようものなら試合に出場することは叶わない。これが良いか、悪いかは別として「他者との関係性のセンサー」は嫌でも意識する。これも体育会系、特にチームスポーツをおこなてきた人間が「礼儀や挨拶ができる」と言われる躾以外の要因である。

勿論、競技チームスポーツをしてきていなくても礼儀や挨拶ができる人は沢山いる。

私が挨拶とか最低限の礼儀や挨拶ができないということを通してそれ以外の何を感じ取るのか。それは「他者との関係性のセンサーの欠如」即ち私は私が努力してきたのだという自己責任論であり、受動と能動という概念しか持ち合わせていない人間だということを感じとってしまうのかもしれない。

私は挨拶の概念を飛び越えたとてつもなく大きな声量での挨拶や、ゴミも無いところを掃き続ける儀式的な清掃活動みたいなものには拒絶反応を起こすタイプではあるんだけど、逆に挨拶とか最低限の礼儀やマナーができないヤツにも一定の拒絶反応を起こしてしまうし、そういったチームを目にすると、そこに”弱さ”を感じてしまう。そこに自分なりの答えを出したかった。

多くの運動部活動が「挨拶」や「礼儀」などを指導理念的なものに掲げててはいるものの、その理由を体育会系っぽくない説明をしている指導者は少ない。

結論、別に体育会系じゃなくとも礼儀とか挨拶ができる人はできる。
①躾や挨拶の意義など教育的指導をされてきた。
②「起用される」環境に身を置いた経験がある。
③他者の影響を認知する経験をしてきた。

これらが影響しているのではないかと考える。
そして競技チームスポーツがそういった経験をしやすい。

強さには直接的な関係は無いが、他の何かしらの重要な無形のものが挨拶という形で現れる。

以上のことから競技チームスポーツの指導者としてそういった指導は必要であると考える。


自戒を込めて。

※スポーツをやってきた人が偉い訳でも、やってこなかった人が悪い訳でも、勉強だけやってた人が挨拶ができない訳でも、体育会系が挨拶できて偉い訳でもありません。


菅野雅之


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?