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フットボールとエンブレム



FC東京のエンブレムが変わる。

先日、FC東京がエンブレムを2025シーズンから変更するという発表があった。会場からはブーイングが起こり、ネットでも反対の意見が散見されている。

初めに申し上げておくが、私はFC東京のファンでも、サポーターでもなく、何ならサッカー畑の人間でも、フットボール界隈の人間でもない、ただの通りすがりだ。

そんなエンブレム変更という現象は、サッカー文化ではなくフットボール文化そのものであるし、ファンとサポーターを区別する構造そのものであると側から見ていて思った。


FC東京現エンブレム


来季から使用されるエンブレム


”普通に”カッコいい

「FC東京 エンブレム」と検索するとFC東京公式の新エンブレムの特設サイトが出てくる。そこには実際にスタジアムでリリースした際の動画や、エンブレムのコンセプトや制作に携わった人たちの思いなどが記されている。

「正直、普通にカッコよくね?」と通りすがりクラスの初見の人間の目にはそう映った。

シンプルで、モダンなデザイン。

特設サイトが立ち上がり、かなり凝った動画の編集、コンセプトも丁寧に説明されていて、完成度が高い。ここまでやるのかとさえ思った。

そもそもエンブレム変更なんてのは反対が無い方が異常であるはずだ。これまで何十年とそのエンブレムと共に戦ってきたサポーターに愛着が無いはずがない。チームのアイデンティティがいつしか自分のアイデンティティとなり、そのエンブレムを誇ってきたのだから。

1つだけ犯したミスがあるとするならば


「エンブレム変更は反対が無い方が異常である」ということを前提に話を進める。

FC東京のサポーターは”変わる”こと以外の何に違和感を感じているのか。
もし、それがあるとするならば。誰もうまく言葉にできていないけれど、それが確かにあるとするならばと思い、コンセプトを読み進めた。

読み進めれば読み進めるほど、自然と違和感は大きくなっていった。

そして何となく、その違和感を言葉にできる気がした。

もし、一つだけ、たった一つだけこのエンブレムに無いものがあるとすれば、

それは”東京”だ。”東京不在のエンブレム”であることだ。


”東京”が不在のエンブレム


多様な文化、多彩な人が交わる東京という街、

そして、FC TOKYOというクラブの多様性を、

3種類のストライプで表現します。

FC東京ニューエンブレム

確かに”東京”という街は多様だ。街並みも、住む人も、過ごす人も、訪れる人も。それぞれの町には色があり、個性があり、それらを一括りにして”東京”という街を表現することは容易ではない。絵の具のパレットの色を最後に全部混ぜてしまえば、どれも黒になってしまうように。東京という街はぐちゃぐちゃだ。

事実、東京という街は多様である。ただそれとは別に自らのアイデンティティを”多様”であると主張することには、どうも違和感を感じずにはいられない。

むしろ"多様性"と"アイデンティティ"とは、状況によって真逆なポジションにつくことがある。

それぞれの個性が確立しているからこその多様だ。

それを自らのアイデンティティを表現し、シンボルとするエンブレムにおいて多様性を表現することは、もしかすると大きなミスだったのかもしれない。

フットボールクラブにおいて自らのアイデンティティのシンボルとして、それほどエンブレムというものが重要なものならば。

ユベントスは”ユベントス”

ユベントスがエンブレムを大きく一新したことは通りすがりの私ですら知っていた。シンプルでモダンだ。


ユベントス エンブレム新旧比較

そしてそれはどうやらフットボール界のトレンドを作ったようだ。

その理由の一つにスマートフォンやSNSの普及がある。画面がテレビなどの大型スクリーンからスマートフォンやタブレットへ代わり、SNSのアイコンとしても利用されることから”シンプル化”に拍車をかけた。

それを模倣したクラブは日本においても数多く、ガンバ大阪などがそのように見受けられる。(個人的な意見)


ガンバ大阪 現エンブレム
ガンバ大阪 旧エンブレム

ガンバ大阪もエンブレムを”シンプル化”した。

ユベントスがエンブレムをシンプル化させても尚、ユベントスのアイデンティティが残った、もしくは新たに創り上げる事ができた。のには二番煎じではなかったこと。そしてユベントスというクラブのとてつもなく強いアイデンティティがあってこそのものであり、ユベントス故のものである。

仮に、エンブレムがクラブのアイデンティティを表現するものであるならばシンプル化との相性は本来良くないはずだ。

そしてガンバ大阪のエンブレムからも”大阪”が消えた。

FC琉球はエンブレムをやめることを、やめた。


J3のFC琉球はエンブレムを変更することを発表したが、サポーターの猛反発を受け、大幅なエンブレム変更を見送った。


来季も同じデザインで継続使用が決まったエンブレム
見送られたエンブレム


サポーターはブーイングをするが、ファンはしない。でも明日もスタジアムに来るのはサポーターだ。


フットボール界隈ではファンとサポーターを明確に分けていて、それは他のスポーツや芸術には見られない文化だ。

それを私は下記の図のように整理した。

ファンとサポーターの構図

この構図でできているファンとサポーターは自ずと起こす行動が変わる。

それを下記の表にまとめた。

ファンと客とサポーターの整理

例えば試合に敗れた場合、ファンと客とサポーターでは起こすアクションが異なる。
ファンは「次は頑張れ!」と言い、客は黙って帰り、次は来ない。サポーターはブーイングをする。

それはなぜならスタジアムに足を運ぶ動機が異なるからだ。

そしてそれは演者のスタンスにも影響を与え、演者のスタンスもファン・サポーターの在り方に影響を与える。

チームやクラブがファンサービス的な演出をし、瞬間最大風速的な短期的集客を行えば"ファン"が増えていく。

そして明日も(次節も、そしてこれからもずっと)スタジアムに足を運ぶのはサポーターだ。

それに伴う応援の変化↓



フットボールとエンブレム

新エンブレムの発表に対してブーイングが起こることは、この構図から発生した自然現象であり、極めてフットボール的な現象である。

SNSが発達し、各スポーツクラブやチームの広報担当の短期的な評価基準は集客数とエンゲージメント数やイイねの数となった。

その短期的なバズを求めるがあまり、ファンや客を打ち上げ花火的に短期的集客を果たすことはサポーターの熱を奪い、ファンや客を集める自転車操業になりかねない。

エンブレムの良し悪しは別として、新エンブレムに対し、ブーイングが起こる文化こそフットボールであると感じた。

#東京が熱狂  にはエンブレム変更に対するブーイングは必要不可欠だったのかもしれない。


菅野雅之

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