見出し画像

野球というスポーツにおいてチームが”強くなる”ということ。

我々は一体”なぜ”練習をしているのだろう。それは今まで出来なかった事を出来るようにするため。もしくは、その完成度を上げるため。もしくは、その確率を上げるため。だろうか。(以下では”技術習得”とする)
 
では、我々は一体”何のために”練習をしているのだろう。それは勝利するためであり、強くなるためである。
 
では、我々はそれらを実現するために”何の”練習をするべきだろうか。上記で述べた”技術習得”だろうか。
 
しかし、コロナ禍でしばらく練習ができない日が続いても技術的要素が大きく低下することはない。ボールが投げられなくなっている事はないし、バットにボールが当たらなくなることはない。

月に1回くらいしか回らないゴルフもそこまで下手くそになる事もなし。3年ぶりにボーリングをしてもガーターを連発するどころか自己ベストを出したりする。
 
そうした時、ふと我々は何のために練習をしていているのだろうと思う。勝利するための、強くなるための練習とは何なのか。そして集団スポーツである野球において"チームが強くなる"とはどういう状態なのか。について今回は考えていきたい。
 
"強い"と"上手い"は何が違うのか。
 
まず野球というスポーツにおいて、“強い”の主語は“チーム”であり、“上手い”の主語は原則“個人”である。例外として「試合運びが上手い」などという表現を使う場合もあるが、今回の文章における“上手い”の主語は“個人”として取り扱う。
 
次に野球という競技の特性について考えたい。今回は「野球という競技のゲームは基本的には得点が入らない。」と言う事を前提に話を進めよう。
 
例えば3割バッターが9人並んだ打線であってもヒットが出る確率は3人に一人だ。そうなると1イニングは基本的に4人の打者が打席に立つことができる。更にそのヒットが先頭バッターに出る確率は1試合に3〜4回となる。もし仮にこのような機械的な攻撃が続いた場合1試合に得点が入るのは基本的に1点か多くても2点だ。
 
3割バッターが9人並んでもだ。
 
ただ、当然ながらこのような機械的に野球というゲームが進むことはまずないし、してはならない。
 
この前提に立った上で、それ以上に得点が入るということは”例外”的なことが起こるということだ。では、その例外とは何か。それは連打が出ることであり、長打がでることである。野球というゲームにおいて”勝つゲーム”とはそういうものだ。2アウト満塁でヒットが出るというのは例外だ。
 
守備側にとっても毎イニングヒットが一本出る事を前提に考えると、それ以下に抑えることが出来たのならそれは例外だし、2点取られることが前提であればそれ以下の失点で済んだのなら例外だ。これが”勝つゲーム”の作り方だ。
 
即ち勝つ練習とは、ヒットを打つ練習だし、エラーしない練習だし、ヒットを打たれない練習だ。つまり、そう”技術習得”だ。

勝つ練習とは技術習得である。技術習得とは上手さの追求である。
 
ただ、この技術習得は、上手さの追求は、勝つ確率を上げるという観点で言えば必要不可欠であるが「負ける可能性を下げることができるか。」という問いに対しては安易に「YES」とは言えない。
 
勝つゲームの作り方があるのなら、負けないゲームの作り方もあるはずで。勝つ練習があるのなら負けない練習もあるはずだ。
 
負けないゲームとは先ほどの前提に立ち返ると、ヒットをツールとせずに得点を入れる事であり、塁を跨ぐ事であり、進塁と引き換えにアウトを奪う事である。長打で得点を取ることでもなければ、1点もやらない事ではない。
 
野球という競技は事例集的な要素が強い。例えば1塁手が定位置からサードに送球するシュチュエーションは実際の試合では無い。外野手が定位置のフライを急いでダイレクトでセカンドに送球するシュチュエーションも実際の試合ではまず無い。
 
サッカーやバスケットボールのように戦術パターンが無限大にあるわけでは無い。

野球の戦術パターンは想定可能である。そこに備え、遂行することができれば負ける可能性は下げることが可能では無いだろうか。
 
そのことから「野球というスポーツにおける“強さ”とは想定力に長け、準備と確認の精度とレパートリーに富んでいること。」だと考える。 

勝ちたいのなら”上手さ”という個人にフォーカスを当てよ。

負けたくないのなら”強さ”という組織にフォーカスを当てよ。

この2つは矛盾するものではない。


強いチームには言葉がある。言葉があるチームには思想がある。思想が表現されるのはプレーである。良いプレーには準備と確認がある。よって強いチームには言葉がある。




菅野 雅之

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?