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魔法は自由であるべきだという話。

以前友人からサビアンシンボルというものを教えてもらったことがある。
そこに書いてあった自分のシンボルの中に、印象的な言葉がたくさん書いてあった。

そのシンボルにはそれぞれ名前がついていて、僕のシンボルは
「雲をつくり運び去る風」と言うやつだ。とてもカッコよくて好きだ。

その中には、今の自分が目指していたり、まさにやっていることについて解説されいてる。この話を聞いたのが昨年の11月だったから大体3ヶ月くらい経っている。

丁度「自分を肯定するために必死になる」と言う器が満たされたタイミングでもあるので、意識や視点が変わった今、このシンボルがどう見えるのか確認しつつ、その内容に勇気をもらう形で自分の施術の可能性と新たなイメージの構築。そして心の奥にある「星」を開花させる狼煙をあげたいと思う。

特に救われたのは以下の4つの文章だった。
「自分の感覚を無条件で信じる!」
「自分だけのセンスで世界と向き合っていく」
「自分だけの感性で掴み取る世界は自分だけのもの」
「心と五感の回線が繋がれば、自分だけの世界が出来上がる」

今改めて見ると、まさにこれをやっているなと納得することができる。
そして「これでいいんだ俺は」とホッとして、このまま行けばいいんだと勇気が湧いて来た。

同意を求めてしまうのは、自分に自信が無かったことと、突拍子もないことばかりで現実味がなかったから。ここを飛び出して「自分」として行動することがとても怖い。

たまに思うのは、もっと一般的に普及している手技で、人に認識されているもので生きていけるならどんなに楽だったかということ。

スピリチュアルだとか、魂とか、意識がどうだとか、そんな目に見えないものを追いかけるなんてただの現実逃避じゃないのかと。
でも、自分の好きや得意を突き詰めて行った結果、どんな名前をつけるのかと言ったら「スピリチュアル」「意識」「魂」と言う分野だっただけだったんだと思った。

僕自身の能力や特性は悪くなくて、世間一般のイメージというエネルギーが「スピリチュアル」や「意識」などの、言葉という名の「器」に入った結果「印象」という形で具現化されただけなんだと思った。

「肉体が魂の器」なら「言葉は想いの器」だ。
この世界には「容れ物」が必要で、器と中身の役割をするものが何かの違いしかないと思っている。

存在を確定させるために中身と器をセットにし、そこに「名前」というラベルを貼る。そうすることで「存在」できるようになり、人の目に触れるようになる。言葉が特にわかりやすい。多くの人が関わり、使われるほど「印象」は強まるから。

チェンソーマンがわかりやすい。
特定の現象に対する印象によって悪魔の強さと階級が変わる。
だから「死」の悪魔は最強。そしてその世界の悪魔は自分の力を強めるために自分の名前がついている物、現象を多くの人に知らしめて恐怖のエネルギーを溜める。銃の悪魔なら銃の怖さを知らしめるために銃を使った事件を起こすとか。

この方法は今の社会においても浸透している。
「スピリチュアル」とか「魂」とか「陰謀論」とか。
これらが持つ意味の真意なんてどうでもよくて、この言葉から得られる印象を限定させることが大事だったんだなと。
聞いた瞬間に嫌悪や距離を置きたくなるのは様々な理由があるが一番は「自分以外の何かになんとかしてもらう」とか「自分が向き合うべきことから逃げるために都合よく利用する」とかそういうのだと思う。

だから辛かった。スピリチュアルなんて地味で面白みもなくてただただ自身を積み重ねるという継続と繰り返しの連続というだけで、一発逆転もドラマチックさもないから。

僕もまた、本来の感覚とは別の様々な想いが蓄積された「言葉」が放つ印象という匂いに当てられていたのだと思う。

自分の感覚を無条件で信じる
自分だけのセンスでこの世界と向き合う

ここをより固定するために最近閃いた整体観とこの施術の可能性をまとめる。

進撃の巨人にある「道」という領域で、始祖ユミルは粘土をこねるように巨人を作り続けていた。
9つの巨人の継承者であるジークが致命傷を負った際、この「道」にて始祖ユミルが欠損したジークの身体を粘土をこねるように創り直し、再生させたというシーンがある。
そして過去世界に疫病が流行った際、始祖の力で人体の構造を変えて、その疫病を解決したというシーンもある。

この「構造」を身体そのものでなく「魂」という領域から見たときに、自身の持つ使命や今世でやりたいことを行える「身体」に設定したと見ることができる。

そしてそれらから外れることをすると病気になったり何か出来事があったりという形で軌道修正のための何かが起きる。

また「構造」を、蓄積した「思い込み」や「習慣」とするとどうなるか。
身体は自身が願った形に変わる。それは意識的にも無意識的にも。
そしてそれは日々の習慣、今この瞬間何を考えているか、どんな言葉を使うかなどの「今」の集大成だ。

何か叶えたいことがあるならばそれが叶えられる「身体」に変えてしまえばいいということ。それは言動からだったり、行動からだったり、食べ物だったりと「生活」の中にヒントがある。

ここに呪術廻戦の真人の術式「無為転変」を加えると、魂というものを野球ボールを扱うような解釈で認識することで、身体への見方が一気に「命」という領域まで広がる。

身体に触れるとして一体「何に」触れるのか?
人とは何か?肉体だけの存在なのか。それならば姿形が異なるのはおかしくはないのか?
「個」とは魂の色が異なることの証拠だと思っていて、それが身体に出ることでその人と認識できると僕は思っている。

つまり身体は「橋」であり「入り口」であり「門」である。

身体という領域の解釈をどこまで広げてどこで止めるのか。
必要なヒントはすでに散りばめられていてそれは「生活」の中に存在している。
隠れているというよりは俺の意識が向いているかどうか。
今までの人生で触れたり見たりしたものの中に、これから到達したい領域の原石があるはずだ。

葬送のフリーレンにおいて「魔法はイメージの世界だ、イメージ出来ないものは魔法では出来ない」と言われている。

そして魔法は自由であるべきだとも。

自分にとっての理想という土台を構築しつつ、イメージや発想や自由にするという認識の「遊び、余白」が新たなインスピレーションを生むと信じている。

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