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第22回:『バーニング 劇場版』(2018)

噛めば噛むほど味が出るという言葉があるけれど、いったいどれくらいまで味が出るのか試したことはありますか?


昔、大学のサークルか何かの集まりで飲んでいるときにその話になり、その場にいた4~5人で一斉にスルメを噛んでみた。結果は30秒から1分くらいまでは味が出て、それ以降はただひたすらに顎が痛かっただけというもの。僕もなんとか3分くらいは……と粘ったんだけど、やっぱり30秒くらいが境目だった。
昔読んだ『ホームレス中学生』には、お米をずっと噛み続けていると「味の向こう側を超えるとフッと、甘さが蘇ってくる」って田村裕も言っていたと思うんだけど、僕には我慢が足りなかったみたいです。


それと関連する話……といってはなんですが、読むたびに味が出る本や見るたび味が出る映画というのがある。

例えば、サン=テグジュペリの『夜間飛行』とか、ヘミングウェイの『老人と海』とか。この2冊は中学か高校のころに読んで以来定期的に見ているんだけど、やっぱりこちらの状況次第で解釈が昔とは変わっている。それこそ、最初は「ふん、何熱くなってんの」という冷めた目線から「やっぱりこういう熱意やパッションが重要だよな」と思ってみたり、「いやいや、一周回ってやっぱり……」とも思ってみたり。


他にもサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』なんかも最初はホールデンに感情移入していたけれど、今はどちらかというとホールデンを諫めるミスタ・アントリーニに共感している自分がいる。

もちろん、見ているこちらの状況によって解釈が変わるなんてのは当たり前っちゃ当たり前のように思えるけれど、世の中には「一通りの解釈」とか、「どこをどうひねってもこうとしか読めないよな」とかの類もあるわけで。個人的には、そういう作品よりも、読めば読むほど味が出る「スルメ文学」とか「スルメ映画」とかのほうが好きですね。


『バーニング 劇場版』(2018年)

その意味でこの『バーニング 劇場版』は、スルメ映画を代表する一本といえる。

映画の舞台は現代の韓国。アルバイトをしながら作家になることを夢見る「イ・ジョンス」は、あるとき街で美しく生まれ変わった彼の幼馴染「シン・ヘミ」と再開する。2人は居酒屋で話し込んだ後、ヘミはアフリカに旅立ち、ジョンスは実家へ戻る。その後数週間してジョンスは帰国するヘミを空港まで迎えにゆくのだが、となりには彼の知らない男の姿が。彼の名前は「ベン」。ポルシェを乗り回し、見るからに高級そうなマンションに住む、いわゆる富裕層だ。明らかに育ちも考え方もジョンス、ヘミとは対照的なのだが、物語は、奇妙な三角関係へと発展していくのだが……。


パントマイムの「意味」とは

一つ、この映画を象徴するにふさわしいシーンがある。それは映画冒頭、居酒屋でヘミは習っているというパントマイムをジョンスに見せるところ。慎重に皮をめくり、一粒ずつ大事にミカンを口に運ぶヘミ。けれどジョンスは、その意味が理解できていないのだろう。曖昧に「上手だ。才能があるよ」と返す。それに対し少し不満げな様子で、ヘミはいう。

こにミカンが "ある" って思わないで。ミカンが "ない" ことを忘れたらいい。大事なのは食べたいって思うこと。そしたらツバが出て本当においしい

映画『バーニング 劇場版』

ヘミのパントマイムが示すように、この映画は「見えるものと見えないものの対比」「持つものと持たざるものの境界」といった、境目が強調されています。

それは登場人物の生い立ちや性格にも分かりやすく示されている。

例えば、ジョンスとヘミが育った坡州(パジュ)とベンが暮らす首都ソウル特別市の銅雀(トンジャク)の街から、乗っている車や容姿、考え方まで全くの「正反対」。特にジョンスとベンの違いは明らかで、ジョンスはいわゆる田舎の少年といった様子で服装も行動も、都会派のベンとは全く違う。あまりにもその差が対照的だからか、ヘミがベンと近い関係になろうとも、ジョンスは嫉妬している様子を見せない。

ある意味それは、韓国社会に根深く横たわる社会構造に起因しているともいえるんだけれど、不思議なまでのジョンスのベンに対する「無気力さ」とヘミに対する「執着心」は、不気味ですらある。



どんな解釈をするかは、あなた次第

そしてその境界が埋まらないまま、映画はラストへ向かっていくのだけど、この映画は、ある種の「カタルシス」をもたらすような映画ではない。むしろ、イ・ジョンスに嫌悪感を覚えるかもしれないし、ヘミの奔放さにハラハラするかもしれない。一切正体を明かさない謎多き男ベンに対しても、もどかしさも感じるだろう。しかし、それこそがこの映画の魅力だとも思う。

(古川耕)この映画のラストはそういった非常に多義的な原作小説に対して、ひとつの解釈を与えているとは思うんですが。でも、この映画はこの映画で、あのラストでさえ様々に解釈できるようになっていると感じます。それがすごく私にとってまた深い余韻を残すことになってるんですけれども。こういったことをやはり監督は意図されていたのでしょうか?

(イ・チャンドン)あのラストの展開はこの映画を作り始めた時から意図していたものでした。この映画は私に確固たる答えがあるのに、それを観客に見せないというタイプの映画ではなく、いろいろな解釈が可能な映画です。いろいろな事件、いろいろな問題が提示されていますが、見る人によってその解釈は違うと思います。結末においても観客によって解釈が違うということでしょう。最後のジョンスの行為の意味を考える人もいるし、現実ではなく小説の一部なんだと考える人もいるかもしれません。そのように幾通りにも解釈できる結末だと思います。

https://miyearnzzlabo.com/archives/55412

1つに答えが決まらないからこそ、何度でも、何度でも見たくなる。まさにそれは、スルメのように。


一日でいちばんいい時間

この映画ではジョンスの田舎の家で3人が並んでグラス(マリファナ)を吸うシーンがあるんだけど、夕日に照らされる3人の後ろ姿がとても良かったです。カズオ・イシグロの『日の名残り』に出てくる引退したおじいさんが、「夕方が一日でいちばんいい時間だ」というけれど、あながち間違いではないのかもしれないですね。

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